友人の死んだ目を思い出す
ああ、そうだった。
思い出すと、あの友人の顔には、あの一言には、たしかにどこか不自然なものがあった。
「それ、僕もメッチャ好きだよ」
そう言った彼の目は、死んでいた。
光がない、というのとは少し違った。
むしろ、光を意図的に消しているような、どこか演技のような、あるいは、こちらの期待に応えようとする義務感のような目。
僕があまりにも熱く語っていたからだろう。彼はその熱に打たれないように、わざと温度を下げた目をしていたのかもしれない。
つまり、あれは「好き」の共有ではなく、「好きを語っている僕」に合わせた調整だったのだ。
それは、共感ではなく、迎合。
もしくは、「うん、わかったよ」と会話を早く終わらせたいだけの防御。
なのに、あのときの僕は気づかないふりをした。
むしろ、無理やり信じた。
「ほら、やっぱり分かり合える」と思いたかった。
でも、今ならわかる。あの瞬間にすでに、僕の「好き」は孤独になっていた。
誰かに熱く語れば語るほど、その「好き」は独りぼっちになってゆく。
共鳴しない音叉のように、耳障りな響きだけが残って、相手はどんどん遠ざかる。
もしかして、あの死んだ目こそが、この世界における「好きのリアル」なのかもしれない。
僕は、それでもまだ、好きなものを語ろうとしている。
その矛盾をかかえながら、言葉を続けようとしている。
それが人間のどうしようもなさなら、せめて、どうしようもないままに語りきってみたいと思う。