好きというのは語られ得ない
「つまりね、ほんとうの“好き”ってのは、誰にも言っちゃいけないものなんですよ。あるいは、言った途端に、好きというものが逃げてゆくものなんですよ」
ラジオの文化人がそう言ったとき、僕はなぜか急に、昔、誰にも言わずに好きだった人の顔を思い出していた。名前も、声も、もうほとんど思い出せない。でも、思い出すことはできないのに、なぜか“好きだった”という感情だけは、確かにそこにある。
言わなかったから、なのかもしれない。伝えなかったから、あの“好き”は、いまも形を変えずに僕のなかにあるのかもしれない。あれをもし、言葉にしてしまっていたら、告白して、答えをもらっていたら、たぶんいまごろは、もう忘れていたのではないか。
「語るという行為は、なにかを損なう」と誰かが書いていた。たしかにそうだ。言葉にしてしまった時点で、なにかは終わるのだ。たとえば、好き、という言葉そのものが、好き、という気持ちの精度に追いつかないことが、しばしばある。言ってしまえば、それは自分の中の“完全”を、他人の“不完全”へと渡すようなものだ。
だから、言わない。
言わないことでしか守れないものが、世の中にはある。言葉にならない感情の中で、ひとつの“好き”が、自分だけのものとして静かに息をしている。そのこと自体が、何か大事なことのような気がするのだ。
だが、同時に、誰かに伝えられなかった“好き”は、いずれ時間の向こうにぼやけて、触れられなくなってしまうことも、僕は知っている。だから、残酷だ。どちらにしても、好きは長くは持たない。言えば失うし、言わなくても消える。
文化人の声はすでに終わって、次の番組が始まっていたけれど、僕はまだ、あの言葉に取り憑かれたままだった。
「ほんとうの“好き”ってのは、誰にも言っちゃいけないものなんですよ」
それは、ひとつの呪いのように、けれど、どこかで祈りのようにも響いていた。