好きの正体
ラジオのスイッチを入れたのは、午前十時を少し回ったころだった。外では鳥の声が鳴いていた気がするが、僕の耳はすでにスピーカーの中にあった。
「それにしてもね、どうして他人の“好きなもの”って、あんなにウザいのかって話なんですよ。これはね、ちゃんと考えると、けっこう深いところに行けると思うんです」
文化人の声は変わらない。ひとつひとつの語尾を丁寧に吟味しながら、喉の奥で軽く転がすようにして出している。僕は椅子の上で姿勢を崩しながら、指先でペンをくるくると回していた。
「たとえばね、誰かが熱っぽく“自分の好きな映画”の話をしてるとするでしょう。で、僕たちはそれを聞いて、まあ悪気なく“ふうん”って言う。でも、その瞬間、その人はだいたいがっかりしてる。なぜか。わかりますか?」
僕は、わからなかった。
いや、知っていたかもしれない。
そういうがっかりを、どれだけ繰り返してきただろうか。他人の“ふうん”という声を浴びるたび、自分の“好き”がすこしずつ摩耗していくのを、何度感じたことか。熱は、熱として誰かに伝えると、たいてい冷める。自分の“好き”を守るには、黙っているしかないと、そう思っていた。
「“好き”って、暴力的なんですよ。だって、自分にとっての特別を、他人にも強制しようとするんだから。しかもそれを“わかってほしい”っていう一見やさしい包装紙でくるんでね。だから、ウザいんです」
ラジオの声が言い終わったとき、部屋の空気が一段階重くなった気がした。僕の中の“好き”のいくつかが、音もなく崩れていった。音楽、小説、昔好きだった人の笑い方——それらがほんの少し、遠くなった。
けれど、それでも、と思ってしまった。好きなものを語る権利すら、失われてしまうなら、何を語ればいい? 僕たちは一体、どこに心を置けばいい?
ラジオはまだ続いていた。
「つまりね、ほんとうの“好き”ってのは、誰にも言っちゃいけないものなんですよ。あるいは、言った途端に、好きというものが逃げてゆくものなんですよ」
僕は、その言葉に、なぜか救われたような気がした。
それがなぜだったのかは、やっぱりわからないまま、ペンを手放した。