彼女の思い出は続く
それから数日間、彼女は朝の教室に現れるたび、僕の席の前にすっと腰を下ろすようになった。特に約束をしたわけでもなく、習慣のように、まるで最初からそうだったかのように。僕はそのたびに少し身構えて、少しうれしくて、だけどやっぱりどう話せばいいかわからず、ぎこちない返事しかできなかった。
「昨日、テレビで見た映画がね……」
彼女は、たわいもないことを話してくる。僕は映画に興味があったわけじゃないけれど、彼女が語ると、それはまるで遠い異国の物語みたいに響いた。
僕の名前を、彼女はまだ一度も呼んでいない。僕もまた、彼女の名前を口にすることができなかった。知ってはいた。出席番号も、ノートの字も、なんとなく記憶していた。でも、それを口にすることで何かが壊れそうな気がしていた。
放課後、僕は彼女が誰かと歩いている姿を見るたびに、なぜか胸がざわついた。嫉妬という言葉を知らなかったけれど、それは確かにそれに似た何かだった。彼女が笑うとき、僕の知らない表情をしている気がして、遠く感じた。
そんなある日、彼女は朝の会話の途中でふいに言った。
「ねえ、○○くんって、何考えてるかわからないって言われない?」
僕は、一瞬、息が詰まるような気がした。自分が誰かの目にどう映っているのか、初めて意識した。何も言えなくて、ただプリントを見下ろしていた。すると彼女は、ふっと笑った。
「でも、そういうの、嫌いじゃないけどね」
たったそれだけの言葉が、胸の奥に火をともした。
そしてまた数日が過ぎた。彼女はある朝、急に来なくなった。風邪だとクラスメイトが言っていた。僕は、寒い教室の一番前の席で、ひとりストーブの熱を背中に浴びながら、彼女の残した空気の記憶をたどっていた。
――あの言葉の意味は、なんだったんだろう。
僕はまだ、自分の気持ちをはっきりと理解していなかった。ただ、彼女のいない朝が、妙に空白のようで、時間が止まってしまったみたいだった。