文化人Mの結論
文化人Mは、ラジオの最後のコーナーに入ると、急に口をつぐんだ。いつもなら、話題の流れをさらりと受け取り、軽妙な語り口でつないでゆく彼が、その夜ばかりは珍しく言葉を探しているようだった。沈黙が少しだけ長く感じられたが、それは放送事故のような無音ではなかった。スタジオの空気が、まるで耳を澄ましているかのような、静かな揺らぎを含んでいた。
リスナーたちは、息をひそめるようにして、その沈黙の意味を探ろうとしただろう。僕もまた、耳をラジオに近づけるような気持ちで、彼の呼吸の気配を待っていた。そしてようやく、その声が戻ってきた。思いがけないほど、柔らかく、そしてどこか確信めいた調子で。
「……結局ね、“好き”ってのは、語れば語るほど、その本質から離れていくものなんですよ」
その第一声は、まるでため息のようでもあり、またある種の祈りのようでもあった。
「これはね、誰にでも思い当たることがあると思うんです。好きな人に“好き”って伝えた途端に、その気持ちがどこかへ逃げていってしまったり、あるいは、自分の好きな映画や音楽、本のことを熱く語っているうちに、ふと、あれ、自分は本当にこれが好きだったのか?って疑い始める。語り過ぎることで、好きの輪郭がぼやけていくっていうか……そういうことって、ありますよね」
少し笑って、彼は続けた。
「だから僕は、好きなものについては、なるべく沈黙するようにしているんです。好きってのは、語ることじゃなくて、守ることなのかもしれない。大切なものほど、人に話しちゃいけない、みたいな。これは自分にも言い聞かせてることなんですけど」
彼の声には、誰かに何かを教えようとする響きはなかった。ただ、静かに、自分の思考の果てに見えたものを、そっと差し出すような調子だった。
「……ただね、ひとつだけ。こうやって僕が続けてるラジオ、この番組だけは、本当に好きなんですよ。毎週、この時間に話すことが、僕の生活の一部になってて。これだけは好きって、素直に言える」
そこで少し間があって、照れくさそうに、でも茶目っ気を込めて彼は笑った。
「でも、ほら、それも言わないほうがよかったかもしれないね。今、たぶん、あなたの耳から“好き”がひとつ、こぼれていったかもしれないな」
チャン、と軽い効果音が流れ、番組は静かに幕を下ろした。
僕はラジオの前で、しばらく動けなかった。文化人Mの声はすでに空気の中に溶けて消えていたけれど、そこに確かにいた。ラジオの向こう側で、僕の“好き”の輪郭を、確かに浮かび上がらせていたのだ。それは、語られなかったものたちの、静かな余韻だった。