1、6回目の人生の最期。
時は2024年。東京都新宿区のとあるマンションの角部屋で、私は淡々と仕事をこなしていた。
「あとはカルテ整理と、学会で発表する研究の資料まとめで、おわりかなーっと。」
私は東京都ではそれなりに知名度のある、三谷大学病院で働いている。とはいっても、表向きは医師、宮野遥香だが、本業はスパイである。スパイとは、物語にだけ出てくるものではない。お偉いさん方は、不正をしてでも自分に都合の良い状況を作りたいのだ。そのために都合よく働く駒の一つが、スパイだ。もちろん、私が三谷大学病院で働いているのも、スパイの仕事のためだ。なんでも、とある政治家が事故にあい、この病院に入院しているらしく、面会ができないから、様子を調べてこい、とのことだ。その政治家はとても発言力が高く、たった一言で日本の財政を一変させることができるほどだそうで。弱みを握りたい大人はたくさんいるわけだ。そこで超一流のスパイともいわれている私に声がかかった、というわけだ。私はスパイをやっているくせして、スパイなんかに仕事を頼むような大人が嫌いだ。そんな大人にはなりたくない、と思う。今は大人ではないのか、と思われるかもしれないが、普通に学生である。年齢的には。14歳のころ、両親が事故にあい、亡くなってから、私を拾った人の家がスパイをやっていたので、私も働き始めた、というわけだ。今は16歳で、当然ながら医師免許など持っているわけもないが、この家では当然のように免許証を偽造できるのだから不思議だ。私はこの家に住んでいながら、あの人たちのことを10分の1も知らない。さて、スパイとしての仕事は果たしたし、そろそろ三谷大学病院を辞めて、次の任務に行かなければならない。ポケットからスマートフォンを取り出し、電話帳の中から院長の名前を探し、通話ボタンを押す。プルルルル…
「あ、もしもし。お世話になっております。内科の宮野です。」
スパイとしてこちらの情報を悟られぬよう気を付けなければならない機会が多すぎて、意識していなくても淡々とした口調になってしまう。
「ああ、宮野先生か。どうしたんだい?」
スマートフォンから70代半ばくらいの老人の声が聞こえる。
「実は、母が倒れてしまったらしくて…。もう年ですし、実家に帰ってサポートしないといけないのかな、と思いまして…。簡潔に言いますと、この病院を辞めさせていただきたくて…。」
もちろん、倒れた母などいない。何も考えずに電話をかけてしまって少し後悔しかけていたが、案外すらすらとリアルな嘘が出てくる。
「ああ、それは大変だね。宮野先生には期待していただけに残念だが仕方がない。お母様のところへもどってあげなさい。また戻ってきてくれることを楽しみに待っているよ。」
「ありがとうございます。院長先生は相変わらず人をお褒めになるのが上手ですね。三谷大学病院はとても働きやすかったので、私も残念に思っております。では、また。」
「ああ、元気で。」
通話を切り、ふう、と一息つく。理解のある院長でよかった。今までスパイをやってきて、たくさんの職業、たくさんの職場を経験してきたが、やめることになったときに余計にねちねちと小言をいわれたり、変に引き止められたりするのは、もう慣れつつあるが普通に面倒だ。
さて、と。そろそろ次の仕事に行かないとならないな。次の仕事は、夜間の工事現場で働き、工事現場の真正面にある某カフェで働いているとある女性を監視しろ、という内容。彼女はカフェなんかでバイトをしなくても、親のすねかじりで一生生きていけるくらいにはお金持ちなどこぞのご令嬢らしい。そんなご令嬢である彼女に妊娠疑惑がかかっているから、交友関係を洗いざらい調べて、その噂が本当なのか否かをはっきりさせてこい、とのことだ。本当に最近は低レベルな依頼ばかりでイライラする。さりげなくカフェのほうを見ながら工事を進める。作業は滞りなく進み、もうすぐで作業が終わる、というその時。
「みとさん、あぶないっ!!」
作業員の声。みと、というのは工事現場で働く私の、名前。職業を変えるたびに名前を変えていたから、私にはたくさんの名前がある。なにが、危ないのだろう。声が聞こえた、上のほうを見る。すると目の前には、私の身長くらいはゆうに超えているであろう、長い鉄の棒が迫っていて________。頭に鈍い痛みを感じ、視界が真っ暗になる。刹那の浮遊感。自分の体がだんだんと落下していくのを感じながら、私の頭には、これまでの人生であった、たくさんの出来事が、浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。これが走馬灯というやつか。長いようで短い人生だったな。人はこんなにもあっけなく死ぬんだな。そんなことを考えることすらも面倒になり、思考を放棄する。意識が薄くなっていく。
⦅また、か…。⦆