反芻(はんすう)
これは、遠い日の記憶。
とある春の日の昼下がり、陽に照らされた神社の中で、姉妹の声が響いていた。
「こら、お社で走らないってなんべん言ったら分かんのアンタ!」
「これは走ってるんじゃなくて早歩きですぅ〜」
「ちょっとこっち来なさい!」
「御堂の点検しなくちゃいけないんじゃないの〜?」
「……覚えときなさいよ! あと結界術の修練しなさい!」
「しらな〜い」
妹の蛮行に、姉は憤慨の色を隠せない。しかし、いつまでも構ってばかりではいられない。境内を走ってどこかへ隠れ去った妹を探すことより、務めが大事だ。巫女服と、一つにまとめた艶やかな黒髪が揺れる。小脇に抱えた道具箱がカチャカチャと音を立てる。
「私だけじゃ大変だから、アンタにも手伝ってもらいたいってのに……」
少女の向かった先には、観音開きの扉を閉じるようにお札が十枚ほど貼られた御堂。かつて厄災を撒き散らし、今では神として祀られている存在を封じ込めたもの。
その扉の前で正座して荷物を傍に置いた少女は、目を瞑って合掌し、何かを探るように呪文を紡ぐ。
結界術を編み込んだお札が不定期に効力を失ってしまう前に、新しいお札に貼り替えるための点検だ。
「三枚が切れかけか。……あっ」
少女は手元の道具箱を開けて、中には札が二枚しか残っていないことに気づいた。
新しく霊力を込めた札を、執務室に置き忘れてきたらしい。箱を脇に抱えて、執務室へ急いだ。
そばの物陰から、イタズラめいた笑顔が覗いていることには、気づけていなかった。
───*───*───
──ズン……
執務室から出ようとすると、地響きが起きた。同時に、御堂の方向から黒いモヤモヤした何かが天に向かって伸びているのが見え、全身に鳥肌が立つほどの恐怖が体を駆け巡る。
すぐに妹のことが思い浮かび、御堂へと走った。
「お姉ちゃん!」
「バカ! だから結界術の修練しなさいって言ったのよ!」
御堂から天へと伸びる黒い靄。尻餅をついている妹の周りにはボロボロになったお札が数枚。十分に霊力が込められていない新しそうな札も紛れている。
見様見真似で作った札に変えようとしたところ、結界内外の力の均衡が崩れてしまった、ということだろうと姉は推察した。
黒い靄の柱は、意志があるかの如く左右に揺れた後、天上からぐねりと曲がって妹の方へと伸びていく。
「いや……嫌ぁぁ!」
妹の悲鳴より先に、脚が駆け出していた。取りに行った護符のことなんて頭にない。ただ黒い靄から妹を守るために、抱え込んで覆い被さることだけで精一杯だった。
ギュッと目を閉じ抱きしめる自分の背中に、何かがのしかかる感触。柔らかいと言うよりドロドロとしたような、掴みどころのないもの。
どろどろと背中を流れ、
ぞわぞわと侵食されるような、
永遠にも感じる時間が流れる。
……それは、次第になくなっていった。
興奮とともに感じていた周囲の怖気も。
もしかして、何かが功を奏して靄を消し去ってくれたのかもしれない。
淡い期待と共に、目を開ける。
「……おねえ、ちゃん?」
そこには、自分の手が触れたところからしわがれていく妹がいた。
自分の手には、黒い靄がこびりついている。手だけじゃない。いつの間にか散り散りになった服の代わりに、体全体を黒い靄が覆っている。でも、苦しくもない。まるで、黒い靄が自分から出ているような。
……自分から?
周りを見れば、御堂から伸びていた靄の摩天楼は消えていた。
自分の周り以外、靄はなかった。
長く伸ばした黒髪も、灰色に燻んでしまっていった。
「わた、私……」
「苦しいよ……おねぇ……」
喉が枯れて出なくなった声。腐食が顔に至る前に、自分の手を離した。
これ以上、妹を無惨な姿にしたくなかった。
「これは……!」
後ろからの声に振り返る。
神社の正門、靄の柱の騒ぎを見つけた村の男たちが、農具などを担いで集まってきていた。
「みんな……」
「キョウ、これはお前がやったのか?」
「違う! これは黒い靄が勝手に!」
「そうか……」
村人たちは、歯を食いしばって目を伏せている。
壊れた御堂と醜い妹。そして靄を纏った少女を見る。
「すまない、キョウ」
「え?」
人だかりの先頭にいた村長が、農具を握りしめた。
「お前を殺さないと、村が滅ぶ」
「待って、私はまだ」
「お前は……もう人じゃない!」
できる限り吐き捨てるように、怒号のように、眉間に皺を寄せ、身体中の力を振り絞って出した村長の声。
人間離れした自分の所業と、少しずつ腐っていく真下の地面の感触と、最後の言葉で、少女は小さく首を振る。
「ちがう、違うよ」
「皆、容赦はするな。誰か一人でも頭か心臓をたたけ……」
殺気立つ男衆。それは実物より大きく、禍々しく見える。
「違うよ。信じてよ」
「かかれ!」
「助けてよ!」
少女の言葉に、靄は男衆へと無数に伸びた。
───*───*───
月夜に照らされる水面がふたつ。寝転んだ少女の目が潤んでいる。
上半身を起こして、繋いでない掌を見つめる。
キョウの息は上がっていた。
頬にはぬるい雫が伝う。
「寝られないの?」
「……起こしたか?」
「いいえ、勝手に起きただけよ」
静かにリィンが語りかけてきた。キョウと姿勢をそろえる様に上半身を起こす。
不適な表情を見ても、キョウの調子は戻らない。
「……そうか」
「……」
キョウを包み込む様に、リィンは小さな体すべてを使ってそっと抱擁する。
「なんだよ」
「いいえ、勝手に抱いただけよ」
「……そうかよ」
「ええ、そうよ」
他の人間の温度を感じる。
少しずつ、キョウの息が整っていく。
「苦しいんでしょうね。でも、あなたは人の役に立っているわ」
「何を言ってんだ」
「私はあなたに感謝しているという話よ。それじゃあ、おやすみなさい」
背中を二回叩くと、リィンはまた寝転んで目を閉じる。
「……寝る」
キョウも上半身を寝かせて、天蓋を見つめたあとに目を閉じる。
少しだけ、リィンと繋ぐ手に力を込めて。