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鏡は何も映さない  作者: 月坂唯吾
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第九章 解決

「やはりな」伊瀬知が呟いた。

華村大駕は下半身だけをむき出しにし、陰部を上に向けたまま死んでいた。そんな姿を見せ付けるように殺されるとは、犯人は余程華村大駕を怨んでいたのだろう。

「伊瀬知さん、いったい誰が華村大駕を殺したんですか?」由衣は伊瀬知に真相を話してもらうべく、質問をした。

 しかし、それに答えたのは伊瀬知ではなく、柴咲だった。

「私、分かりました。佐藤さんは初めからこの部屋のことも、華村大駕の居場所も分かっていたんです。佐藤さんは沢村さんを殺害したあと、ここで華村大駕を殺した。理由は分かりませんが、何か怨んでいたのでしょう。そして鏡の迷路に戻った佐藤さんは、そこで罪悪感か、もう逃げ出せない、という感情から、自ら命をたった……」

「つまり事件は犯人が二人とも死亡し解決した、ということですか? 私も華村大駕と佐藤が共犯だということは分かっていました。だけど佐藤が華村大駕まで殺し、自ら命をたつとまでは考えもしませんでした」

 伊瀬知はこの事態をどう思っているのだろうか。そういえば伊瀬知は先程華村大駕の遺体を見て、「やはりな」と言っていた。この事態ですら伊瀬知にとっては予想の範疇だったということか。

 すると、由衣の視線に気が付いた伊瀬知は、由衣に向かい目をパチパチとさせ頷いた。

えっ? あれは確か、能力を使う合図。

次の瞬間、部屋の中に叫び声が響き渡った。伊瀬知が柴咲の首元に触れた瞬間、柴咲が絶叫を上げ、倒れ込んだのだ。柴咲は痙攣をしているようにも見える。

何が起きたのだろうか。

「伊瀬知さん! いったい何を」

「宮崎くん、手錠だ! 手錠を貸せ!」叫ぶ由衣に向かい、伊瀬知は逆に叫び返した。

訳が分からず、由衣は言われたまま手錠を出し、伊瀬知に手渡す。何が起きているのか分からない為、必要以上に由衣の心臓は鼓動を速め、手錠を出すのにもだいぶ手間取った。

伊瀬知は意識を失っている柴咲に手錠をはめると、柴咲を抱えて座らせた。そして片方の手で、柴咲の頬を平手でペシペシと叩いた。叩く度にパチパチという音が聞こえてくる。

柴咲のトレードマークともいえるイヤホンは外れ、柴咲の体を支える伊瀬知の手に絡まっているようだ。

「伊瀬知さん、何をしたんですか? なぜ柴咲さんを」

「バイオ・エレクトリシティだ。体に電気を溜め込み、それを掌に集中させ、スタンガンのように柴咲の首元に流し込んだ」

「なぜ柴咲さんにそんなことを?」

 すると「うっ」という声を上げ、柴咲が意識を戻した。始めこそボーッとしていた柴咲ではあったが、状況が飲み込めると錯乱したように暴れだす。伊瀬知に対し脅えているようだ。

「伊瀬知さん、いったい何をするんですか! これを外して下さい!」叫ぶ柴咲。

 由衣と神埼には、柴咲の反応は当然のことのように思えた。むしろ伊瀬知の行動の方が理解出来なかった。

「今までの殺人事件の犯人は俺だ!」伊瀬知は大声で叫んだ。

 それは誰もが予想もしなかった答えであった。

「伊瀬知さんが犯人? どういうことですか?」由衣が伊瀬知に質問をすると、同時にあまりの事態に言葉を失っていた神埼ですら、言葉を投げかけた。

「何故伊瀬知さんが殺人を……?」

「何をしている。こいつが犯人なら、さっさと俺を助けろ!」柴咲は伊瀬知が犯人だと聞き、由衣に助けを求めると、一層暴れだした。

 伊瀬知はその様子を見て、小さく微笑むと、突然小声で話し出した。

「そのまま表情を崩さず、これからの俺の言葉を聞いても、驚いた顔をしないで欲しい。分かったな?」伊瀬知は何かを話すようだが、その前に由衣と神埼に確認を取った。

 由衣と神埼は意味が分からなかったが、頷くことで返事を返す。

「嘘だ。冗談だよ。俺は犯人ではない」由衣は安堵感から表情を和らげそうになったが、伊瀬知の言葉を思い出し、緊張を解かないよう努力した。

「では何故こんなことを?」由衣は当然の思いを伊瀬知にぶつける。

「喜多川を殺害したのは華村大駕だろう。しかし華村大駕と佐藤を殺し、罪を佐藤に押し付けた真犯人はこいつだ」柴咲には、後ろにいる伊瀬知の姿は見えない。伊瀬知はその状態で犯人が柴咲だと、指を差した。

 予想もしない話を聞き、理解が出来ず、言葉が出て来ない。そんな由衣と神埼に代わり、柴咲が叫んだ。

「何をしている! こいつが犯人だと分かったのなら、さっさと俺を助けろ!」柴咲は先程同様、由衣に助けを求め、声をあらげた。

「えっ?」由衣は思わず声を出した。柴咲の言葉がおかしい。伊瀬知は柴咲が犯人だと言ったのに、会話が成り立っていない。

「気が付いたか?」伊瀬知は由衣に向かい問いかけた。

「会話が成り立ってない? でも何故」

「答えは簡単だ。こいつ、柴咲弘二は耳が聞こえないんだ」

「でも今まで私たちと普通に話をしていましたよ」

「きっと、ほんの少しだけ聞こえるのだろう。それをこの補聴器を使い補っている。それと人の口を読むことで、会話が成立していたんだ」

 柴咲がいつも付けていたイヤホンは補聴器だったのか。だからどんな時も耳に付けていた。

 伊瀬知が柴咲を押さえていた手を離すと、柴咲は手錠をはめたままの手で、急いでイヤホンを耳にはめた。

「どういうことだ。何故私を助けようともしない。伊瀬知さん、私を解放してくれ。人質なら警察官の宮崎さんの方が適任だろう。伊瀬知さんのことは誰にも言わない。約束する!」

 やはり柴咲は状況を分かっていない。本当に耳が聞こえなかったようだ。

「何を言っている? 俺は犯人ではない。今の会話を聞いていなかったのか?」柴咲に問いかける伊瀬知。

「えっ、それは勘違いしただけで……分かってますよ。冗談ですよ。冗談」柴咲は何とかごまかそうとしているようだ。

「仕方がないよな。耳が聞こえないんだもんな。それに犯人ならもう逮捕しました」

 一瞬理解が出来なかったようだが、柴咲は伊瀬知の言葉の意味を理解したようだった。

「えっ? わっ、私は犯人ではないですよ? それに耳が聞こえない、ってどういう意味ですか?」

「言い逃れは無駄だ。もう、全て分かった。佐藤と華村大駕を殺害したのはお前だ。そして不自由な聴覚を、イヤホンに見せかけた補聴器と、人の口を読むことで補っていたことも。もちろん自殺した沢村の遺体を殺人事件に偽装したのもお前だ。昨夜、沢村に教われた、というのも狂言だろう」

「私の耳が聞こえないとして、だからって私が犯人だという証拠はないですよね? 私は障害者として、他人にかわいそうだ、という目で見られるのが嫌で、耳が聞こえるフリをしていただけです。耳が聞こえないことは認めますが、私は犯人ではありません」

「お前には話してなかったが、俺にはある能力がある。人のオーラが見えるんだ。そしてそのオーラを持った人物が触った場所も同じ色で見える。時間が経てば経つほど色は薄くなっていくから、多少の時間経過も判断出来る」

「子供みたいになった伊瀬知さんをお二人共とも見たはずです。それが、伊瀬知さんが能力を使っている時の状態です」由衣は伊瀬知の言葉を補足した。

「俺はその能力を使い、沢村さんの現場を調べた。沢村さんは首を吊って自殺していたのだろう。お前はガムテープで開かないようになっていた引き戸を発見時、先程のように無理矢理こじ開けた。

 先程『娯楽室』の引き戸が開かなかったのは、お前の芝居だ。すでに密室でない部屋を密室状態だと偽装する為の。部屋や沢村さんの体のあちこちに柴咲、お前のオーラの色であるオレンジ色がたくさん付いていた。少し離れたビリヤード台の上にも、少しだけお前のオーラが付いていたことから、おそらく沢村さんの遺書のような物がそこに置かれていたのではないかとも推測される」

「でも私は華村大駕の居場所を知らなかった訳ですし、華村大駕を殺せる訳がないじゃないですか」

「いや、お前は知っていた。その証拠に俺が華村大駕の部屋にたどり着くことが出来たのは、鏡の下にお前のオーラが付いていたからだ。もちろん佐藤の遺体や、凶器となった包丁などにも、お前のオーラが付いていた。調べればこの華村大駕の遺体にもお前のオーラが付いているはずだ」

「柴咲さんは華村大駕と共犯だったということですか? だから鏡の迷路の地図も覚えていた。不思議だったんです。柴咲さんが伊瀬知さんのように能力もないのに、地図を見ずに鏡の迷路を自由に進むことが出来るのを」由衣は伊瀬知の言葉に割り込み質問をした。

「もちろん柴咲は鏡の迷路の配置を覚えている。だが共犯だからではない。華村大駕も、柴咲がこの別荘の全てを知っているとは、思いもよらなかっただろう」

「では、どうして柴咲さんはこの別荘の秘密を知り得たのですか?」

「知り得たも何も、柴咲は三年程前から知っていたんだ。そうだよな、柴咲」

「…………」

「柴咲の前職は建設会社。おそらく大和建設だろう。大和建設、と言えば、華村文雄のゲーム会社『スターマウス』の傘下だ。『スターマウス』の新本社屋を建てたのは、他でもない大和建設。その流れからも、この別荘が大和建設により建てられたのは明らかだ。柴咲は大和建設の社員として、この別荘の建築にあたっていたんだ」

「でも、鏡の迷路の配置なんて覚えていられませんよね? 役職ならまだしも、一作業員であった柴咲さんでは現場で図面などを見る機会があったとしても、それを家に持って帰ったりは出来ないはずですし」

「いや、持って帰る必要なんてなかったんだ。柴咲が大和建設を辞めた理由、それは病気により聴覚を失ったことが原因だろう。そして聴覚を失ったことで、使われなくなった脳の一部は失われ、その代償として柴咲の脳はサヴァンの能力を補った。サヴァンの能力は知的障害者が持つ場合が多いが、柴咲の脳は彼にその能力を与えたんだ。サヴァンの能力には見た物を写真のように記憶出来る能力がある。彼は現場で数回図面を見ただけでおそらく別荘の全てを記憶していたに違いない。もちろん別荘完成後は作業員に対し、この別荘の秘密について箝口令が敷かれたり、口止め料などが支払われたことだろう。だが途中で辞めた社員に関しては、その条件を満たさなかった。それはそうだろう、まさか柴咲がサヴァンの能力を有し、図面を暗記しているなどとは、誰も思いもしなかったのだから」

「ふっ、そこまで分かっているのなら仕方がない。認めるよ。佐藤さんと華村大駕を殺したのは俺だ。だが俺が大和建設を辞めた理由は聴覚を失ったからではない。華村大駕のせいだ。俺は聴覚を失いはしたが、補聴器と人の口を読むことで、仕事は不自由なくすることが出来ていた。しかし後ろからの音は多少聞こえづらいことはあった。そんな時、華村大駕が別荘の建築現場を父親と共に視察に来たんだ。華村大駕は視察予定だった場所を離れ、一人で勝手にあちこちを見て回った。視察予定に含まれていない場所で作業をしていた俺は、後ろから不意に近付いて来る華村大駕に気付くのが遅れ、ぶつかってしまった。あいつはズボンが汚れた、と酷く激怒した。汚れてなどはいなかったが、ただ気に食わなかったのだろう。あいつは元々、俺たち作業員を見下してバカにしていたからな。俺は結局華村大駕の怒りを沈める為に、聴覚を失ったから、という偽りの理由を付けられ、会社を解雇された。もちろん初めは怒りもあった。だが俺が聴覚を失っているのは事実だ。仕方がないことと諦め、俺は次の仕事を探すことにした。しかし聴覚のこともあり、次の仕事は中々見付からない。結局次の仕事が見付かるまでには二年ほどの月日を費やした。新しい仕事の給料は安かったが、やっとのことで働く場所を見付けられた俺は、それだけで満足だった。華村大駕のせいで普通の生活など、もう出来ないと思っていたが、未来を描くことも、普通に生きることも出来るようになったんだ。そして、そんな俺にも恋人が出来た。同じ職場で働く女性だ。仕事が起動に乗ったら、彼女にプロポーズすることさえ、俺は夢見るようになっていた。そんな時、幼稚園であの事件が起きた。俺が助けに入らなかったことが明らかにされれば、俺は世間から批判され、会社をクビになってしまうかもしれない。俺の人生がまた崩れさろうとしていた。しかも、また華村大駕の手によって。俺は華村大駕が許せなかった。後は伊瀬知さんの言う通りだ」

「だから華村大駕の遺体をあんな姿で放置した。殺されても尚、辱しめを受けるように」由衣は柴咲に華村大駕の遺体を、あのような姿で放置した理由を確認した。

「いや、それはちょっと違うな。俺がこの部屋に来た時には、あいつは既にあの姿だった。後ろから俺が包丁を持って近付いていることなど知らずに、あいつは自慰行為に励んでいたんだ。何をおかずにしていたと思う?」

「しっ、知りません」予期せず、自慰行為などという言葉が急に出てきたので、由衣は恥ずかしさから戸惑った。

「伊瀬知さんは何をおかずに使う」答えない由衣を見て、柴崎は伊瀬知に質問をした。

「俺はネットの動画だ!」躊躇うことなく断言する伊瀬知。

「ちょっと伊瀬知さん、何真面目に答えているんですか!」

「まあ、あいつも同じような物だった。宮崎さん、神埼さん、あんたらは夜部屋へ戻ったら、まず何をする」

「私はシャワーを浴びます」

「私も同じです」由衣の答えに続き、神埼も答えた。

「それが、あいつのおかずだった」

「まさか!」

「ああ昨日の夜、俺があいつを殺しに来た時、あいつはあんたたちの裸を見ながら自慰行為をしていたんだ。各部屋の風呂の鏡は一部がマジックミラーになっていて、カメラが仕込まれている。どこまでも卑劣な奴だよ」

「許せない!」由衣が怒りを露にすると、柴咲は嬉しそうに微笑んだ。

「ちなみに……俺も見られていたのか?」伊瀬知が突然、頓珍漢な質問をする。

「いや、大丈夫だ」

「それならいい」

「ふっ、伊瀬知さん、あんた面白いな」柴崎は伊瀬知の言動により、今までの張り詰めた心の糸がやや緩んだようであった。それが伊瀬知の計算であったのか、伊瀬知の天然であったのかは分からないが、結果的に功を奏したようだ。


「伊瀬知さん、あんたは本当に名探偵みたいだな。もうこの別荘の秘密も全て分かっているんだろう」

「ああ、完璧だ。今まで密室だと思われていた物は全て密室などではなかった」

「どういうことですか?」由衣はやっと伊瀬知にこの別荘のからくりについての質問をすることが出来た。

「俺たちは、毎日配置が変わる鏡の迷路がある別荘の中にいる。このこと自体が間違いだったんだ。鏡の配置が変わるというのは錯覚に過ぎなかった。毎日動いているのは鏡ではなく俺たちの方だったんだ」

「えっ? 全く意味が分からないんですけど」

「この別荘は平屋ということだったが、実際は地上二階、地下三階の五階建てなんだ。俺たちが始めに訪れた、玄関の鍵が開いているパターン2の配置が一階。玄関の鍵が開かないパターン2の配置が地下一階。昨日のパターン3の配置が地下二階。そして今日のパターン1が二階だ。それぞれのパターンの中央には部屋があり、この操作室へ続く階段があったんだ。つまりこの部屋や、機械室などが地下三階だな。全ての部屋はエレベーターとなっていて、都合に合わせパターンを変えられていた。鏡が夜中に動いているのではなく、俺たちが部屋ごと他の階へと移動させられていたんだ。だから同じ空間に見えてもパターンが変わると、オーラやセロハンテープは消えたし、他の階で殺害し、部屋を元のパターンの階に戻せば密室も出来た。部屋が二重扉になっていたのはその為だ。部屋の入口がアルミ製の引き戸で、ドアノブがないのは部屋をエレベーターとして動かす必要がある為。ドアノブがあると引っ掛かってしまうからな。セロハンテープの片側だけが引き戸下の隙間に挟まっていたのは、部屋が地下二階から二階に移動したからだ。だから部屋側のセロハンテープはきちんと付いていた」

「じゃあ、プールのある部屋の鍵が開かなくなったのは何故ですか?」

「プールは地下一階にある。プールだけはエレベーターになっていないんだ。考えてもみてくれ、あれほどの空間と水はどれ程の重さになると思う。つまりは重すぎてエレベーターに出来なかった、ということだ。鍵がかかっているのではなく、プール自体がその先にないから開かなかったんだ。元々開かない扉が開く訳はないだろう。それは玄関のドアや、パーティールームで見つけた地下への入り口に関しても言える。機械室は地下三階にある。つまり部屋が地下二階にあるパターン3の鏡の配置の時だけ、部屋は地下の空間に繋がり扉が開く。全ては思い込みと錯覚。それがこの別荘の真実だ」

「じゃあ深見美沙は……」

「ああ、華村大駕が青の談話室だけを他の階に移動させ、青の談話室の中にいた喜多川を殺害した際の、二人が揉み合っていた時にでも、部屋の外に逃げたのだろう。生きていれば、他の階の『鏡の迷路』の中を彷徨っているはずだ」

「完璧だ。ならば俺はもう用済みだな」柴咲は完全に観念した様子を見せている。

「逃がしはしませんよ。罪はきちんと償ってもらいます」由衣の言葉を聞き、柴咲は優しく微笑んだ。

「すまなかったな。迷惑をかけた。沢村さんの現場には伊瀬知さんの言ったように、遺書が残されていた。『御迷惑をかけてすみませんでした。和奈の元へ逃げる私を許してください』と書かれていたよ。今は俺も同じ気持ちだ」柴咲はそう言うと、手錠を着けたままの手でジャケットに隠してあった小瓶を取り出し、中に入った何かを飲み込んだ。途端に苦しみだす柴咲。

伊瀬知は小瓶の臭いを嗅ぎ、「しまった! アセトンか!」と叫び、吐かせようとするが、服用した量が多すぎた為か、柴咲はまもなく意識を失った。伊瀬知によるとアセトンは建設現場で塗料などに使う薬品で、マニキュアの除光液などにも使われているそうだ。危険物の扱いになっており、人の経口推定致死量は五十ミリリットルから七十五ミリリットルだという。

 柴咲の容体は分からないが、かなり危険な状態なのは間違いない。何も出来ない状態でここに留まっていても意味がない。いち早くこの別荘から脱出し、スマホで救急車を呼ばなくては。

「伊瀬知さん、急いで外に出ましょう。先程の話からすると、ここは地下三階なんですよね?」

「ああ、俺が案内する」

伊瀬知に導かれ、部屋の中央にあった階段を上る。一階に着くと、部屋の隅で壁と化していた鏡を持ち上げ、鏡の迷路に出た。そこは伊瀬知の言うとおり、パターン2の迷路。そして小走りで進む伊瀬知の後を追いかけ、玄関へとたどり着く。伊瀬知が手にかけた玄関のドアノブは、抵抗なく外へと向かい開いた。


何日ぶりであろうか、久しぶりの空と、降り注ぐ夏の日射し。懐かしいような、気持ちのいい不快感。名残惜しそうに鳴く蝉の声すら、いとおしく感じる。


己と向き合うことを思想に掲げ、建てられたという華村家の別荘、ミラー オブ ハウス。

自分から目を背けようにも、別荘の中では常に自分を見つめることになる。それは否が応にも己の顔や、己の体の姿が視覚情報として、常に脳に流れ込んでくるということ。無意識のうちに心の中に自分との対話を生む。しかし、そうして出会った感情というものは、コンプレックスや悩み、不安や悲しみ、といった負の感情に支配されていることが多く、必ずしも本当の意味で己と向き合っている、とは言い難い。故に、『己と向き合う』という面において、鏡とは全てを映し出しているようで、実際は何も映し出してはいない、とも考えられる。普段の顔の裏に隠された、復讐心や憎しみ、殺意などが鏡に映ることもなく、ミラー オブ ハウスにおいては物理的にも鏡は部屋を隠していた。鏡とは己が他人に見せたい、偽りの着飾った姿を映し出す物に過ぎない、といっても過言ではないだろう。

事実、ミラー オブ ハウス内では皆が負の感情に支配され、数々の殺人や殺人未遂が行われた。華村大駕、柴咲弘二、沢村光一の三人は快楽や復讐心に支配され、殺人や殺人未遂を起こした。殺された喜多川紗己、佐藤正二郎、華村文雄でさえも、形にはなりはしなかったが、何らかの負の感情に支配されていた可能性だってある。

鏡は何も映さない。全てを映す鏡が存在する、というのならば、それは誰もが持っているであろう、心の中の鏡だろう。しかし、それは誰もが見られる訳ではない。そう、自分自身でしか見られないのだ。己と向き合う為には、文字どおり自分に意識を向けなければならない、ということ。そう考えると、ミラー オブ ハウスの『己と向き合うことを思想に掲げ、建てられた』、という思想自体に無理があったのだ。


由衣を四方から見つめていた由衣はもういない。偏った感情に支配される心配もない。

由衣は、体を不愉快にじわじわと刺激する夏の紫外線と共に、日常の喧騒にゆっくりと戻っていけばいいのだ。


今までいた無機質な建物に背を向け、由衣はスマホを耳に当てた……。


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