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鏡は何も映さない  作者: 月坂唯吾
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第一章 零からの始まり

 午前十時三十五分。今年は記録的な猛暑だと連日報道されているが、ここは涼しく、他に人影も見当たらない。まるで世界から人が消えてしまったかのような静寂。

 由衣は手鏡を取り出すと、前髪を確認した。次いで小さく息を吐き、居住まいを正すと、ドアをノックした。

「失礼します。本日付けでこちらの捜査第一課 特殊強行犯捜査 殺人犯捜査第零係 係長に任命されました。宮崎由衣警部であります」

由衣がいるのは警視庁刑事部長の部屋。前には座り心地の良さそうな椅子にふんぞり返って座る、刑事部長『若槻明正警視長』と、その傍らに直立している捜査一課長『漆原明夫警視正』の姿があった。

由衣は念願だった警部への昇進が決まり、更には捜査一課に新しく出来るという零係、という部署のいきなり係長という名誉あるポジションに任命されたのだった。何故突然こんな大役を任されることになったのかは分からない。

「まあ、そんなにかしこまらなくても大丈夫だから。それより警部昇進おめでとう」若槻がまるで悪代官のようなスケベ面で、由衣の体を舐めまわすように見ながら言った。

「ありがとうございます。係長という大役まで用意して頂き感謝いたします。所で零係はどこに部屋を用意して頂けたのでしょうか」

由衣の質問には漆原が答えた。「零係に部屋は用意していない。捜査一課の空いている席を適当に使ってくれて結構だ。零係は君一人だけだしな」

「私だけ? 零係は私一人しかいないのですか? それは一体どういうことでしょうか」

零係の係長に突然任命されたと思ったら、零係には自分一人しかいない、という事実。それでは係長という役職ですら、価値のない言葉にしか思えない。

「正確には二人で捜査して貰うことになる。君のパートナーは民間人だが探偵をやっている。かなり変わった男だ」

「探偵ですか……。その方はどのような人物なのですか?」

「元々は私があいつとコンビを組んでいたんだが、私も今回の人事で一課の課長となり暇ではなくなったからな。代わりに君が選ばれた、という訳だ。あいつの名前は伊瀬知和志。あいつを表現する言葉はいくつもある。探偵、パニック発作持ち、障害者、ブレインカートリッジの能力者」

「伊瀬知さんは障害者なのですか? それにブレインカートリッジとは何でしょうか?」

「説明をするのは難しい。それに今の君では理解することは不可能だろう。あいつを知るには、あいつに直接合って見るのが一番手っ取り早い。これが、あいつの住所だ」漆原は由衣に住所の書かれたメモを差し出した。

「分かりました。それでは、その伊瀬知和志なる人物にこれから会いに行ってみようと思います」

「私も後ほど顔を出す」

「分かりました。最後に一つだけ話を聞かせて下さい。なぜ私が零係、つまり漆原課長の後任に選ばれたのでしょうか」

「もちろん、それは君が優秀な刑事だからだ。それ以外に理由があるとするならば、君の能力。君には絶対音感があるそうだな」

「はい。しかし、それが零係や伊瀬知和志なる人物と何か関係があるのでしょうか」

「それもあいつに会って見れば分かる」

「分かりました。早速向かってみます。それでは失礼致します」


 刑事部長の部屋を出た由衣は、早速伊瀬知和志なる人物の元へと足を進めた。

 しかし分からないことばかりだ。一人だけの零係。民間人との捜査。伊瀬知という人物。上層部が新しい課を作ってまで、伊瀬知という人物が必要だとはどうしても思えなかった。

由衣は何だか面倒な部署を任されてしまったような気がしてならなかった。


伊瀬知の探偵事務所は、築百年は経っているであろう、良く言えばアンティークな建物の二階にあった。今にも崩れてしまいそうな建物の一階は古書を扱う店のようだ。

 一階の店舗横にある、立て付けの悪い扉を開けると、そこには急勾配の階段が現れた。その踏み板は底が抜けないかと心配になるほどにきしみをあげ、呼吸することさえ躊躇するほど。由衣はゆっくりと慎重に階段を上っていった。

 上りきると目の前には突如、襖が現れた。『伊瀬知探偵事務所』と段ボール板にマジックで書かれたものが張り付けられている。

 どんなに格安料金の探偵事務所だとしても、こんな探偵事務所に依頼する人なんているのだろうか。警察が捜査協力を依頼するほどの探偵がここにいるとは到底思えなかった。

 由衣は襖に近付くと恐る恐る声を発した。

「あの……警視庁の者のですが……。伊瀬知さんはいらっしゃいますか?」…………中からは何の反応もなく、返答はもちろん、物音すらしなかった。

「あの……」由衣がもう一度声を掛けた時だった。

突如、襖が開くと同時に「入れ」とぶっきらぼうな男性の声が聞こえてきた。

 どこで靴を脱いでいいのか分からず襖の手前で靴を脱ぎかけると、それを見ていたのか、伊瀬知であろう人物が「土足のままでいい」と、再び言葉を投げ掛けてきた。

「失礼します」畳に土足ということに違和感を覚えつつも、由衣は伊瀬知の探偵事務所へと足を踏み入れた。

 部屋は六畳一間。見るからに古い造りの日本家屋といった様子。畳に直接置かれた小さいテレビに、小さい冷蔵庫。和室には不釣り合いのダイニングテーブルと四脚の椅子が中央に置かれている。テレビは付いておらず、今にも壊れそうな扇風機の音だけが異常に響き渡っていた。

テーブルの傍らには男が椅子に腰を掛け、煙草を燻らせている。おそらく彼が伊瀬知和志であろう。歳は三十程だろうか。顔はまずまず、といった感じで、華奢な体つきをしている。服装は赤いシャツに、黄緑色のスーツ。手首にはミサンガやビーズのアクセサリーのような物をジャラジャラとつけている。色こそ黒だが、髪の毛は長く、ポニーテールのように後ろで纏められていた。

 見た目から受ける印象はプライベートでは絶対に拘わりたくないタイプの人間。こんな奴が本当に警察に捜査協力などしているのであろうか。それにパートナーというのはお互いに信頼し合い、助け合う存在。どうしても彼に対してそういう気持ちにはなれなかった。

「あなたが伊瀬知和志さんですか?」

「ああ」こちらに視線を送ることなく答える伊瀬知。

「私は捜査一課の……」

「宮崎由衣。俺の新しいパートナーだろ? 漆原から聞いている」由衣の自己紹介を伊瀬知は再びぶっきらぼうな物言いで遮った。

「私は漆原課長からは伊瀬知さんのことを何も聞かされていなくて……探偵で、パニック発作持ちで、障害者で、ブレインカートリッジがどうの、ってことくらいしか知りません」

「充分聞いてきているじゃないか」まるでノリツッコミをするかのように伊瀬知が言葉を発した。しかし由衣は冗談を言ったつもりはない。

「でも意味が分からなくて。失礼ですけど伊瀬知さんは障害をお持ちなのですか?」

「いや。今の私は障害者ではない」

「今の? それにブレインカートリッジという言葉の意味も全く分からなくて。漆原課長は伊瀬知さんに会えば分かると仰っていたのですが……」

「なるほど。あのおっさん、面倒な説明は全部俺に丸投げしたな」独り言のようにそう呟くと、伊瀬知は煙草を灰皿にねじ込んだ。

「後から来るとは仰って言っていましたけど……」

「君は確か絶対音感を持っているんだったな」ここでようやく伊瀬知は由衣に顔を向けた。

「ええ」

由衣が絶対音感を持っていることは漆原から聞いているとしても、なぜ突然そんな話を伊瀬知はしたのであろうか。そういえば漆原も由衣の絶対音感については言及していた。

「ならば君も障害者の可能性がある。自分では気が付かない程に軽度ではあるのかもしれないが、君の脳は健常者に比べ何かが欠落している恐れがある。君の脳はその欠落部分の代わりに絶対音感という能力を補ったに過ぎない。勿論、君が完全な絶対音感を持っている場合に限るがな。君は幼い頃ピアノなど何か楽器をやっていなかったか?」

「確かに三歳からピアノを習っていました」

「では恐らく君の場合は普通の絶対音感の持ち主だろう。君が障害者である可能性は低い」

「どういうことですか?」

「絶対音感には脳が影響を与えているものと、トレーニングで身に付くものの二つのケースがある。大抵の絶対音感の持ち主は後者だ。一度は聞いたことくらいあるだろう。人間の脳は一割ほどしか使われていないと。だが実際には九割ほどが使われている。一割が約三百億個の神経細胞。あとの八割はグリア細胞と言われる物で、神経細胞の五十倍はあると言われている。働きは神経細胞の位置の固定や、血液脳関門を形成しフィルターの役目をしたり、過剰に放出されたイオンの再取り込み、神経栄養因子の合成と分泌、神経伝達物質を細胞内に回収……」

「あのっ! あの全く意味が分からないので、その辺で結構です。つまり人間は脳の九割を使っているということですよね。じゃあ、残りの一割は全く使われていないのですか?」

「いや、それこそが完全な絶対音感の正体だ。残りの一割の脳は言わば予備のカートリッジ置き場。脳が事故などでダメージを受けた場合や、生まれつき脳の神経細胞のどこかが欠落している場合、もしくは正常に機能出来ない神経細胞が存在する場合、その残りの一割の脳が何かしらの細胞でその部分を補う。つまり正常に働く神経細胞は必ず、常にきっちり九割に保たれる訳だ。その補われた細胞の種類によって、完全な絶対音感や共感覚、予知や前世の記憶、知的障害者におけるサヴァン能力など、一般的に超能力や不可思議とされる現象の殆どが起こる」

「はあ、そうなんですか。ちなみに今の話と伊瀬知さんにはどのような関係が……」

「やっぱり見ないと分からないか。それじゃあ、今から俺の絶対音感を見せてやろう。絶対音感を持っている君ならば、俺の絶対音感が本物かどうか分かるはずだ」伊瀬知はそう言うと目を閉じ、まるで黙祷でもするかのように沈黙した。

「伊瀬知さんも絶対音感をお持ちなんですか?」由衣が話しかけると、伊瀬知は目を見開き、まるで子供のような笑みを浮かべた。

「うん。じぇったいおんかん持ってるんですよ」急に伊瀬知の話し方が小さい子供のようになった。

「伊瀬知さんふざけている訳じゃないですよね?」

「ふじゃけている訳じゃないんですよ。僕のこと、知ってます? 知りません?」伊瀬知は楽しそうに笑い続けている。

「知っています。あなたは……」

「僕は伊瀬知って名前です。何て名前ですか?」

「私は宮崎由衣です」由衣はあまりの伊瀬知の変貌ぶりに唖然としながらも素直に答えた。

「宮崎由衣ですか。何歳ですか?」

「二十五歳です」

「僕はまだ三十歳なんですよ」矢継ぎ早に繰り返された質問攻めが終わると、伊瀬知は体を振り子のように左右に振りだした。

 由衣はどうしていいのか分からないながら、何か話さなければと、「楽しそうですね」と声をかける。

「うん、楽しいんですよ。僕のこと、好きですか? 嫌いですか?」再び脈絡のない話を投げかけてくる伊瀬知。

「まだ分かりません」

「まだ分かりません、ですか~。僕はケーキが大好きなんですよ。知ってました? 知りません?」

「知りません」

 この会話は一体なんなのだろう。絶対音感と何か関係があるのだろうか。だがこのまま無意味な会話を続けていても埒が明かない。由衣は伊瀬知に絶対音感があるのかを確かめなくてはならないのだ。

「じゃあ、僕が唐揚げとおっぱいが好きなことも知りません?」

伊瀬知のまさかの言葉に一瞬笑いかけた由衣であったが、伊瀬知の問いに答えることはなく、質問を返した。

「伊瀬知さん。救急車分かりますよね?」

「うん」手で救急車のサイレンの動きを真似しながら伊瀬知が答える。

「じゃあ、ピーポーピーポーって救急車の音、どう聞こえますか?」

「シーソーシーソーですよ」

 当たりだ。だがこのくらいは絶対音感がなくても答えられる人はいるだろう。

「では、この音は?」伊瀬知が飲んでいたであろう、テーブルに置かれていたグラスを爪で叩いて音を鳴らす。

「高いミの音ですよ」

 正解だ。ミでもファでもない間の音。楽譜に表せない音。

伊瀬知はまるで由衣とのクイズを楽しんでいるかのように、体を左右に振りながら笑顔を向ける。次に出すお題を楽しみに待っているようだ。

「じゃあ、この音は?」由衣はハミングしてみせた。

「ラの♯ですよ」伊瀬知は得意気な顔で答える。

「次はこれ」由衣はメロディーをハミングした。

待ちきれない様子の伊瀬知はすぐに音名で歌いだす。「ソドーレド ドレミソーミレド ラシドレードレミ ミレドレー」伊瀬知は嬉しそうに由衣のハミングのどおりの音程と音名で歌ってみせた。

 どうやら伊瀬知が絶対音感を持っていることは間違いなさそうだ。

「分かりました。伊瀬知さんもう大丈夫です。あなたが絶対音感を持っているということは分かりました」

「終わりですか? もう一回ですか?」

「終わりです」やはり何だか小さい子供と話をしているようだ。

「もう終わりですか……」まるで由衣ともっと遊びたかった、とでも言うように、残念そうに呟くと、伊瀬知は目を閉じた。


 再び目を開けた伊瀬知の瞳はキリッとし、先ほどとはまるで違って見えた。

「どうだ。分かったか」

「はい、伊瀬知さんは確かに絶対音感をお持ちのようですね」

「所で、君はなぜ笑いをこらえている」

「あっ、すみません。さっきまで『唐揚げとおっぱいが大好き』とか言っていた人が、急に人が変わったように気取って話すから可笑しくて」

「仕方がないだろう。さっきまでの俺は知的障害者だったのだからな。君は警察官のくせに障害者を馬鹿にするような愚かな人間なのか」伊瀬知は恥ずかしそうに頬を赤らめながら怒りをあらわにした。

「知的障害者? どういうことですか?」

「それに俺は厳密には絶対音感所有者ではな……」話をしている最中に突然胸を押さえる伊瀬知。どうかしたのであろうか。苦しそうに大きく息を吸ったり、吐いたりを繰り返している。痺れもあるのだろうか。手を開いたり閉じたりする動きを見せ、手首を押さえている。

「伊瀬知さん! 大丈夫ですか? 苦しいんですか? 今、救急車呼びますね」

由衣が伊瀬知に向け、アタフタとしながら必死に呼び掛けると、襖がすごい勢いで突然開いた。

「その必要はありませんよ。宮崎さん」そこに立っていたのは漆原であった。

「あっ、漆原課長! 急に伊瀬知さんが苦しみだして……」

「心配ありません。彼はパニック発作を起こしているだけです。命に別状はありません」

漆原は慣れた手付きでテーブルに置かれている缶ケースを開けると、中から薬を取りだし、伊瀬知に手渡した。伊瀬知はグラスに残っていた飲み物でそれを流し込むと、再び呼吸を整えようと苦しみと戦い続けているようだった。

「その薬は何ですか? それにパニック発作って……」由衣は訳が分からず、苦しんでいる伊瀬知を目にかけつつ、漆原に質問をした。

「彼は……伊瀬知は能力を使った後は必ずパニック発作に襲われるのです。今の薬は抗不安薬。パニック発作の頓服薬として使用される藥だ。二、三十分もすれば効いてくるはず」

「能力を使うと? どういうことですか? それに伊瀬知さんはさっきまで、まるで小さな子供のような発言と、行動をしていました」

「ええ、それこそが伊瀬知の能力。彼は自身の正常な神経細胞を操作することによって、脳に障害を持つことが出来る。そして、その対価として完璧な絶対音感や共感覚、サヴァン能力などの超感覚を、残り一割の脳から引き出し使用することが出来るんだ。例えるならテレビゲーム機のようなものだ。ソフトさえ交換すれば様々な能力が身に付く。まあ、能力使用の代償により使用後はパニック発作に悩まされるがな」

「では、今の状況は絶対音感を使ったが上の副作用みたいなものってことですか?」

「まあ、簡単に言えばそんな物だ」

「本当にそんなことってあるんですか?」

「信じられないのも無理はない。元々こいつは特に取り柄のない普通の探偵だった。だが五年ほど前パニック障害を患ってな。外出することすら出来ないようになってしまったそうだ。探偵としては致命的だった」

「そのころから漆原課長は伊瀬知さんとコンビを組んでいたんですか?」

「いや当時はまだコンビを組むどころか、一度だけ事件で顔を合わせたことがあった程度だった。こいつは自分の症状がパニック発作だとも知らずに随分苦しんだそうだ。そんな折、売れっ子ミュージシャンであった女性ボーカリストが、パニック障害を患った為に休業すると、テレビで発表される。ワイドショーではこぞってパニック障害についての情報が紹介された。そこで、こいつはその症状が自分と酷似していることに気が付き、精神科を訪れ、パニック障害だと診断された」

「パニック障害って、すぐには治らないものなんですか?」

「こいつには医者から、発作が起きた時の頓服薬として抗不安薬のソラナックスが処方され、抗鬱薬SSRIのジェイゾロフトと言う薬も処方された。しかし、六週間薬を飲んでもパニック発作が治ることはなかったそうだ。医者はジェイゾロフトの量を増やし、さらに抗不安薬のメイラックスという薬を処方した。そこでこいつはようやく発作から解放されることになったらしい」

「それでは伊瀬知さんのパニック障害はもう完治しているんですか?」

「ああ。まだ薬を飲んではいるが、こいつのパニック障害自体はすでにほぼ完治している、と言っていいだろう」

「では何故伊瀬知さんは今もこうして発作で苦しんでいるんですか? それにいくらパニック障害になったからって、普通そんな風に色々な能力を使ったりなんてこと出来ませんよね?」

「それは……」

「後は俺が説明する」多少落ち着きを取り戻したような伊瀬知が漆原を制し、言葉を発した。

「もう大丈夫なのか?」漆原が少し驚いたように反応する。

「ああ。能力を使った時間が短かったからな。まだ完全ではないが大丈夫だ」そう伊瀬知は漆原に言うと、話を進めた。

「俺は病院での待ち時間、暇潰しに小説を読んでいた。天祢涼という作家の『キョウカンカク』という本だった。文字どおり共感覚を持った探偵が事件を解決する話だ。君は女性だから分からないかもしれないが、男という生き物はとかく映画や漫画、ドラマなどの物に影響されやすい。自分が主人公になったような錯覚を抱く傾向にある。俺は自分が同じ探偵ということもあり、共感覚という能力にひどく憧れた。もしかしたら今まで気が付かなかっただけで、自分にも言葉や物に色や味を感じる能力があるのではないか、そう考え目を閉じた。もちろん馬鹿げたことをしているのは分かっていた。でっ、どうなったと思う?」

「現実は小説とは違い、何も起こらなかった。そしてショックを受けた」由衣は正直に自分の意見を述べた。

「いや、俺が目を開くと辺りは一変していた。赤や青、緑に黄色、どの色が何を表しているのかは分からなかったが、人々の声がまるで教会のステンドグラスのように輝いて見えたんだ。俺はただただそれを綺麗だと眺めていた。だが次の瞬間、俺の視界からカラフルな色が消える。カラフルな色の代りに、次に俺の目に飛び込んで来たのは数字だった。俺は数字が気になって堪らなくなっていく。数字が好きで、好きでたまらない、という感情に支配されたんだ。壁に貼られたポスターの数字や電話番号を片っ端から覚えた。なぜだかスラスラと数字は俺の脳に記憶され、俺は病院の廊下を数字を求め、歩き回った。どれくらいの時間をそうしていたのかは分からない。俺の様子を見た女性看護師が気にかけ、肩を叩いてくれることで俺は自我を取り戻すことができた。初めてのことでブレインカートリッジをコントロール出来ず、暴走した状態になっていたのだろう。それから俺は自分の能力について色々と実験をした。三ヶ月もすると、だいたいブレインカートリッジについては理解が出来るようになった。自分が望む能力を手に入れるには、その間、自分の正常な神経細胞の配列をコントロールし、障害というハンデを負わなければならないこと。能力を使った後には必ず重度のパニック発作が起こること。薬を飲んでさえいれば普段はパニック発作が起こることは少なくなったが、なぜだかブレインカートリッジを使った後は必ずパニック発作が現れる。人間の枠を越えた為の神からの罰なのかは分からないが、それから今に至るまで、俺はこいつと共存している」伊瀬知は自分の頭を指差しながらそう言った。

「伊瀬知、もう理解しているとは思うが、この宮崎君が俺の後を勤めるお前の新しいパートナーだ」

「それは構わんが、こんな若い女性で大丈夫なのか?」

由衣は伊瀬知の若い女性というフレーズに満足感を抱きつつ、大丈夫なのか、という言葉に反論をしようと、口を開く。

 だが由衣の言葉よりも、漆原の言葉が先行した。

「宮崎君は優秀な刑事だ。それに、お前にだって少しはメリットがあるんだぞ。宮崎君が絶対音感の持ち主、ということは、お前は宮崎君と一緒にいる限り捜査において絶対音感の能力を使わなくて済む。つまり今後、お前は絶対音感の能力を使ってパニック発作を起こすことはない」

「捜査において絶対音感を使う場面がどれほどあるんだか」言葉とは裏腹に伊瀬知は満更でもない、といった様子だ。

「でも、伊瀬知さんがそんなに色々な能力を使えるのなら、パートナーをつけずに一人で捜査をしたほうが楽なのではないですか?」

「君も能力を使っている時のこいつと話をしたのなら分かるだろう。こいつは能力を使っている間は知的障害者となる。知能的には幼稚園児程のレベルだろう。だからこいつを導き、能力を使わせ、それを分析する人が必要となる」

「なるほど、それで伊瀬知さんはどの様な能力を使うことが出来るのですか?」

「さっきから質問攻めだな。俺は取り調べでも受けているのか?」不満そうな伊瀬知。

「当たり前じゃないですか。伊瀬知さんと私がパートナーになるのなら、私は伊瀬知さんの能力について知っておく必要があります」

「面倒臭いな。さすが漆原が選んだ人だ。面倒臭さまで似てやがる。俺は超能力者ではない。よく間違われるがな。だから透視も、予知も、過去を見る過去視も出来ない。もちろん人の心を読み取ったり、スプーンを曲げたりも無理だ。空中浮遊、霊との交信も同じだ。シャーマンが持つというヒーラーという能力や、心霊外科などのように病気や怪我なども治せない。では、どんな能力が使えるのか。それは俺にも分からない。今の所、俺が使えると認識している能力は共感覚、絶対音感、四色型色覚、サヴァン能力、エコーロケーションなどだ」

「共感覚は文字や数字、人の声や音に色がついて見えるんですよね?」

「色もそうだが音や物を見聞きするだけで味を感じることも出来る。まあ、雨の音を甘く感じたり、人の足音を苦く感じたりと様々な物や音に味を感じてしまうから、気持ちが悪くなるがな」

「味まで感じるんですね。何だか嫌な能力ですね。四色型色覚というのは何ですか?」

「テトラクラマシーとも言われるものだ。人間は三色型色覚で物を見る。普段人間は光の三原色と言われるように、赤、緑、青の組合せで色を作り、物を見ているんだ。三色型色覚では百万色が見えると言われている。だが四色型色覚では三原色+紫外線の薄紫色が見えるようになる。それによって四色型色覚の人間は三色型色覚の人間の百倍、つまり一億色を識別出来るようになる。普通の人には同じ色に見える色も、四色型の人間には全く違う色に見えるという訳だ」

正直何の役にたつのかは分からないが、すごいことは由衣にも理解ができた。

「サヴァン能力というのはよく耳にしますが、具体的にはどのようなものなんですか?」

「サヴァンは主に記憶だな。数万桁に及ぶ計算の答えを暗算で瞬時に導き出すことも出来るし、見たものを写真のように記憶したり、書き出したりすることも出来る。例えば、人の名前や車のナンバー、電話帳、円周率、周期律表などを一度見聞きすれば全て暗唱することも可能だ」

「エコーロケーションというものはなんですか?」

「反響定位とも呼ばれるもので、発した音や超音波の反響で物の大きさや距離、方向などを知る方法だ。イルカやコウモリが使っている、というのを聞いたことないか?」

「イルカが超音波を出している、というのは聞いたことがあります」

「だがこのエコーロケーションを使うには、他の能力と違う点が一つある。それは視覚に障害をあたえ、視覚野を稼働させなければならないんだ」

「視覚野ってなんですか?」

「視覚障害者が音を聞くときには、視覚に関する脳の一部である、視覚野が稼働するんだ」

「何だか難しくてよく分かりませんが、つまり目が見えなくなる代わりにエコーロケーションが使えるようになる、ってことでいいんですか?」

「まあ、そんなもんだ」

 捜査にどの能力がどう使えるのかはまだよく分からないが、漆原の言うとおり伊瀬知は見た目も能力も変わっている、ということは間違いないようだ。


「伊瀬知さんは探偵なのになぜ警察の捜査を手伝っているのですか?」

「これ以上、俺に質問するなら相談料貰うぞ」本気かどうかは分からないが、伊勢知は確かに話疲れているようだった。

「じゃあ、これで最後にしますから」

「俺に解けない事件はないからだ」伊瀬知は由衣をあしらう為にそう言ったのか、はたまた本気なのかは分からないが、まるで金田一少年のように気取った口調でそう宣言した。

 それに対し、漆原がちょっかいを出す。

「嘘つけ、こいつは金の為に捜査に協力をしている。解決した日数によって報酬が出るからな」

「確かに金も目的の一つだ。だが報酬は事件を解決しなければ貰えない。こんなアンフェアな仕事はないだろう。俺は何よりも真実が知りたいだけだ。真実は人間という生き物の本来の姿をさらけ出す。人間とは神を目指し、創造を理想とする仮面を被った悪魔にすぎないのではないか、それを見極める為に俺は捜査を手伝っている」


「ともかく、君たち二人の新コンビ、零係『ZERO』の誕生だ。よろしく頼む」漆原は両手を広げ、わざとらしい笑顔を作った。

「で、漆原。あんたがここに来たのはそれだけが目的じゃないんだろ?」

「さすがだな、伊瀬知。君たちZEROの初仕事だ」


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