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待ち望んだもの


「羽子さん。どこが痛い?」



 尋ねても答えはなかった。

 返ってくるのはうめき声ばかり。もう彼女には僕の声も聞こえていないのかもしれない。痛みは、聴覚や視覚も奪うほどの威力があるのか。

 仕方なく、僕はいちばん撫でやすい背中に手を当てた。

 骨の浮いた頼りない背中を、ゆっくりと時間をかけて上下に撫でる。これでいいのだろうかと、不安に思いながら手を動かす。

 誰か教えてくれ。どうしたらいい。痛いときは、どうやってやるのが一番いい——。



『痛いの痛いの、とんでいけー!』



 妹の声が頭の中でよみがえった。

 そうだ、おまじないだ。痛いときにする、痛くなくなるおまじない。

 羽子さんの骨の凹凸を感じながら、しっかりと背中を撫でて呟く。



「痛いの痛いの、飛んで——」



 彼女から手を離した途端、僕は固まってしまった。

 この手をどこにやればいいのかわからない。妹は短い腕をピンと伸ばして、痛みを天井に向けて放っていた。僕も暗い夜空に向けて放てばいいのだろうか。

 そうやって放った痛みは、一体どこへ行くのだろう。まったく見知らぬ赤の他人の体にでも飛んでいくのだろうか。

 もしそうだとしたら——。



「痛いの痛いの……飛んで、こい」



 手のひらは、僕の胸へと向けた。

 僕のところに来ればいい。痛みを知らない僕の元へ。

 僕は知りたい。ずっと知りたかった。痛みとはどういうものなのかを。

 羽子さんが感じている痛みを知りたい。彼女が何と戦っているのかを知れば、同時に“生”とは何かも知ることができるような気がした。少なくとも、もっと近くに行くことはできるはずだ。



「痛いの痛いの、飛んでこい」



 これでは誰に対するおまじないなのかわからないが、僕は止めなかった。

 羽子さんの背を撫で、おまじないを繰り返す。そして何度目かのおまじないを口にしたとき、それは訪れた。



「痛いの痛いの、飛ん——っ⁉」



 それは衝撃、と表現するしかなかった。

 突然、体の中を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。昔、司狼の知り合いにバッドで殴られたことがあるのだが、そのときの感覚に似ている。物凄い勢いで床に倒れ、頭がぐらんぐらんと回り、立てなくなったあの感覚。

 似ているが、あのときの比ではない。何度も何度も体の内側が殴られている。それは脈動にも近い。ズグンズグンと鈍い音が響くようだった。



「……あ、れ? 私、どうして」



 すぐそばで、羽子さんの声がした。

 直前まで意味のある言葉を発せなくなっていた彼女が、呆然と自分の体を見下ろしている。



「痛くない……」



 羽子さんがそう呟いたとき、視界が突然明るくなった。

 彼女がハッと顔を上げる。白い横顔が眩しく輝くのを見て、僕も止まない衝撃に耐えながらその視線を追った。


 それは、日の出ではなかった。

 太陽はとっくに昇り、水平線から完全に離れたあとだった。だがその昇った太陽が、僕らの前に軌跡を降ろしていた。

 厚い雲の隙間から、いくつもの光の梯子が海に降りている。

 昇っておいで、と僕らに語りかけるような、温かで優しく、美しい光だ。



「天使の梯子……」



 きれい、と羽子さんが呟く。

 長いまつ毛が震えている。彼女はキラキラと輝く瞳を、限界まで見開いていた。

 目の前の光景をその瞳に焼き付けようとするように。


 日の出を見ることは叶わなかったが、彼女の望んでいた光景を見つけることはできたのだな。と、食い入るように空と海を繋ぐ梯子を見つめる彼女の姿に安堵し、僕はゆっくりと崩れ落ちた。



「ぐぅ、うぅ……っ」



 口からよだれと一緒にうめき声がこぼれる。

 自然と体が胎児のように縮まった。体の中心を両手で強く掴む。見えない衝撃を押さえようとするかのように。



 何なのだ、これは。

 僕の体はいま、どうなっているのか。

 僕は、死ぬのだろうか。



「虹⁉」



 司狼の声がした。



「どうした、虹! 何があった!」


「え……な、何? 虹、どうしたの!?」



 司狼の声が、珍しく焦っている。

 僕の異変に気付いたらしい羽子さんの声は、戸惑っているようだった。

 視界が霞み、ふたりの顔がよく見えない。僕の肩をつかむ大きな手は司狼のものだろうか。



「おい、虹! 何とか言え!」



 司狼。僕の体が変なんだ。内側から壊れていきそうなんだ。

 そう言いたかったが、口から洩れるのはやはりうめき声ばかりで、ちっとも意味のある言葉にできそうにない。つい先ほどまでの、羽子さんのように——。


 ああ……そうか。

 薄れゆく意識の中で、僕は初めて理解した。



 これが、痛みなのだと。




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