第一章 扉
第一章
ノコは、昼間のかげろうが大好きな女の子だった。
「ああ、またあんなに蜃気楼ができている」
見渡す海にうかんでいるお城のようなシルエットを見て、ぼんやりしていた。
遠く離れて待っているものたちへ、心を飛ばしてみたりした。
いつだって、いつだって、待ちわびていたことが、
そう必ず叶えられてゆくこと、ノコには、
周りを囲んで、いつもたくさんある不思議なものの
正体や、そのルールや、様々なことも、
たくさんありすぎて、胸がいっぱいになった。
木の実からとれる甘い果汁や、虫たちがざわめくことや、雲をゆらす風のことや、まだ見たことない星たちのことも、全部ノコには、ゆれる花のようだった。
ノコには、友人がいた。黒い服をきて、黒い髪の小さな女の子。名前は、ナノ。
ナノは、自由を愛して、自分に起こる様々なこともぜんぶ、わかることができる女の子だった。
そしてとても辛いことがあると、風を呼んで壊れたものが全部流されてしまうまで泣いて、小さくなってしまう。
ナノの黒い服の下には、とてもきれいなすべすべのお腹があって、そのお腹の中には、とてもきれいな宝箱があることをノコは知っていた。
ナノとノコは、夕焼けのつづく赤い空が、このままつづいてほしいと、いつも想っていた。
たくさんの赤や、色がひろがるこの世界を好きだった。
ジミは、いつものように、木の切り株にすわって、オノの手入れをしていた。
白いひげにくわえたキセルや、すすけて赤茶けてしまっている皮のベストや、深めにかぶってある、前にツバのついた帽子がジミのいつもの姿だった。あんまりお話をしないけれど、黙って何かと話し込んでいるような、それが、オノなのか、虫なんぽか、目に見えない妖精なのか。目を細めながら、じっと時間をすごしているそんなジミのことを、ナノもノコも大好きだった。
ジミが、その秘密をおしえてくれたのは、その日にかぎって、風の冷たく吹いて、曇り空が流れてゆく、しくしくと何かが泣いているような秋の日だった。たき火にあたっていたノコとナノは、火を見つめながら、黙ってなんでもない時間を過ごしていた。
このただだまっている時間は、本当は、たくさんの宇宙からのことが身体とつながって、精霊といききすることのできる神聖なことなのだ。ナノもノコも、そういうときは、時間の精の邪魔をしないで過ごす。
ジミが、突然つぶやいた。いつもほとんどお話をしないジミが使う言葉を二人はしっかり聞き取った。
「このオノは、もう扉をとざしてしまった。」
二人は次の言葉を待った。けれど、ジミはまた沈黙に戻ったことがわかったので、お互い顔をみあわせて、『続きを聞いてもいいのかな』と互いにうなづき、ジミに声をかけた。
「ジミ、いまの何のお話?扉ってなに?」
二人が、見守る中、ジミの視線がちらっとも動かずオノを見つめたまま、静かにキセルをふかしている様子をみて、何かとても大きくて大切なことが関係しているのだと、ナノとノコは感じ取った。簡単に言葉にできないことなのだ、きっと。
ジミとノコとナノは、だまったまま、しばらくの時間を過ごしていた。何か聞いたのに、何のお返事もしなかったり、おしゃべりしない大人は、ジミしかいなかった。でも、幼い二人にとって、言葉にない言葉をもって語りかけてくれるジミの世界は、日常であじわうどんな世界よりも、深くて大切なことがひそんでいるのだろうということを真っ直ぐわからせてくれた。静かだけど、確かな大きさで、そこにある森や世界を感じさせてくれた。ジミの周りだけ、時間の流れがちがうことをハッキリかんじたのだ。
大きめの薪が炎の中で、ゴロンところがって、パチパチと静まりかえった周囲に、大きく鳴った。
そのとき、ノコと、ナノは、何かが動いた気がした。空気から伝わる小さな振動なのか、それが何かがわからないけれど、確かに何かが、『あった』。
「こういうときは、じっとしているんだよ。」
ジミは大きく息をすうと、キセルをくわえた。ジミの声が、薄闇にとけこむように、すんなりと耳に入ってきたので、今度はおどろかなかった。
「ジミ、“こういうとき”は、まだ続くの?」
ノコは、そのまま自然と口からでたものを応える自分に少しビックリした。すると、ジミは、ゆっくりだが、はっきりと、
「いいや、もう入りはじめているから、そっちの時間だよ。」
ノコとナノは、得体の知れない緊張感が走って、背すじをピッと伸ばした。何も見えない、聞こえない、なのに何かが『ある』ということ。いつも、気のせいとか毎日の生活に流されていく小さな粒々のようなもの。けれど、それをずっと見つめていると、いつもの自分がおろそかになりそうで、途中でやめていたこと。昔はもっとしっかり感じていたのに、どんどん薄れてしまってきた感覚、時計の針にかくれてみえなくなってしまっていたもの。いろんな見えないけれど、確かに『ある』ようなものをいっぺんに思い出された。髪の毛の先がピンと張りつめ、お腹の奥の方からあったかいものがわきあがってきそうだった。胸がワクワクでドキドキしていた。
「あっ」
小さな声をもらしたのは、ナノだった。ノコはナノをふりむくと
「そこの木の一番下の枝の付け根のところに見えた」
ノコは言われた場所をみたが、何も見えない。ただの枝がある。直径10センチくらいのしっかりした枝だ。もうほとんど暗くなってきたあたりに、たき火の明かりが照らし出す。
「何も見えない!」
ノコはくやしくなって、つぶやいた。ナノには何かが見えたのに、自分には見えない。すると、
「あっ、また」
と、ナノは、木と木の間の何も無い暗がりを指さしながら、目はしっかり何かをとらえていた。ノコは五感に集中した。あたしも見たい!目をこらして、息をとめてじっと同じ場所をにらんだ。でも、ちっとも何も見えない。ノコは泣きそうになった。どれくらいそうしていただろう。あたりはすっかり暗闇に包まれて、気づくと、いつからそうしていたのか、ジミが深みのある優しい目をじっと二人にむけていた。
「ジミ、あたし何も見えない」
泣きそうになりながら、ノコがいう。ナノは何かをみつめたまま、だまって動かない。目はガラス玉のように、澄んでいるのに他を映していなかった。自分だけ置いていかれたような、みじめな気持ちが胸に広がって、ここから逃げ出してしまいたいような悲しさで息がつまりそうになった。
「ジミ、見たいのに、見えないよ。見える人と、見えない人がいるの?」
ジミは、優しくほほえみながら、ゆっくり話した。
「目で見ようとするとわからなくなる。目は全部を映さないんだよ。心で感じてごらん。」
ノコは、少なくとも、自分が見えない人だから見えないのではないとわかって、少し安心した。小さく呼吸をととのえて、ふーっと長く息をはいた。
もう秋も深まって、夜風は硬くほほにふれる。ピンと張りつめた何かは、落ち葉のざわめきや、たき火の燃える音に混じって、空気の色を変えていくようだった。もし、遊びに夢中だったり、他に気をとられていたら見逃してしまいそうな空気の色の変化。きっと今まで何度も体験していたはずだ。でも、こんなにじっくり味わうのは、初めてだった。何かの中に自分が立っているのがわかる。どうしても、その何かがみたい。空気の色を変えるものの正体を。
“それ”に前触れはなかった。
吐息の消える、垂れ下がったえ枝葉の向こうに扉が開いたのが、見えたのだ。
「二人とも、見えたみたいだね。」
ジミは、ふうっと、息を吐きながらキセルを持ち替えた。目はただ優しげだけど、真剣な色をしている。
「ジミ、どうして?」
あんなのが見えちゃったんだろう、とか、こんなことずっと前から知っていたの?とか、たくさんある質問や疑問をジミに伝えたかったのに、口から出てきたのは、それだけだった。ジミはやさしくかぶりふって、『わかっているよ』とほほえんだ。
「言葉は、何も語らないんだよ。伝える方法に頼っていると、大切な時間を見失う。二人とも見たいものを見て、感じたいものを感じたいと想ったから、扉の世界が見えた。現実と比べてはいけないんだよ。」
ジミの長いひげが、たき火の炎に照らされて赤く映った。風が、その中をすぎてゆく。今まで、子どもだと想っていたものや、こうだからと決め付けていたことが、急に取っ払われた気がした。とても大切なことを、いま一生懸命もらすまいとして、全身で聞いていた。ジミに聞きたいことも、話したいこともたくさん、あったのに、
「声に耳をすませなさい」
と言い残して去っていった。
ノコとナノは、ジミが行ってしまうと扉の中に入ってみることにした。
枝のところにある扉に寄ってみると、それは、枝や木々を透明にぼかしたような扉だった。
フワフワしているような見た目なのに、触るとしっかり感触があった。
ノコは、そこについている取っ手をまわした。
ナノは、ノコの後ろからそれを見ていた。
ゆっくりまわして中に入ってみた。
するとそこは、森が続いていた。