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異境の黒神官、異界とともに滅びんとする。  作者: 常磐木ときわ
黒ひげ、トリップしたままトリップする
2/2

いまだ残る曖昧におぼれ

 目が覚めてから薬が抜けるまで、俺は大体二時間前後かかる。

 それまでは意識は中途半端に覚醒したままで、そのときに起こったことを覚えていることもあれば、忘れてしまうこともある。一言でいえば、俺は起きてからの二時間は曖昧な状態にある。

 だから、当然感じるべき困惑も、疑問も、驚愕も、何一つとして感じることはなく、俺はただ、気づいたときには焚き火にあたって粥を食っていた。

 そう、自宅で薬を飲んで寝た俺は、いつのまにやら曖昧なまま見知らぬ場所にいて、そして粥を食っていたのだ。いや、正しくは食わされていたというべきなのだろうが、細かいところはいいだろう。


 とにかく、俺が最初に理解したのは、次々に差し出される木のスプーンと、口の中に広がる水っぽい穀物の味だけだった。

 だんだんと目と思考の焦点があっていくにつれて、次第に状況の異常さもわかってくる。

 明らかな異常事態にも思ったほどには戸惑わなかったのは、曖昧ながらもここに至る経緯を覚えていたからだろう。

 それを思い返すのは状況を落ち着かせたあとにするとして、俺はひとまず目の前で甲斐甲斐しく世話を焼く知らない女を止めることにした。


「もう、いい」


 口に出した言葉は想像よりもいくぶんか掠れていて、風邪でもひいたように喉の調子が悪かった。

 痺れる舌はまともな音を作らなかったが、同時に止めるような身振りをしたのが功を奏したようだ。

 それでも意味は伝わったようで、呆然と宙を眺めるばかりだった俺を引きずるようにしてこの洞窟に連れてきた赤毛の女性は、一瞬ぴくりと固まったあと、短く「そう」とだけ言った。


 それきり、スプーンは突き出されなくなる。

 見れば彼女の服はどうやら毛皮で出来ているらしく、布地の裏に固く縛って取り付けた鞄に、無造作に食器を突っ込んでいるようだ。

 ひょっとしたら食器類を片付けているつもりなのかもしれない。

 そして終われば、それきり無言。時おり小枝を焚き火に差し入れはするも、それ以外はなにもしない。こちらに話しかけることもしない。

 とはいえ、俺も俺で現状の把握に忙しかったので、話しかけられなくてむしろ幸いだったというべきか。


 彼女の横顔をじっと眺めながら、忘れかけていた起きた直後の記憶を掘り返す。

 覚えていること。覚えていないこと。境界線は曖昧だが、思い出せるところまで思い出してみよう。


 まずは昨晩からだ。特に特筆すべきことはない。進めていたプロジェクトは万事順調に進み、帰路で会った恋人と夕飯をともにして、家に帰ったのが夜の十時頃だったか。

 それからすぐにいつもの声が聞こえはじめて、どうしようもないので薬で無理やり意識を落とした。いつものことだ。

 さて、ここまでは鮮明に思い出せているが、問題は次。

 起きてから、俺はどうしてここにいるのかだ。

 無論、認識していた範囲のことはわかっている。こんな、家で寝たはずなのに、起きたときには洞窟で知らない女に看病されている、なんて理解できない状況でもある程度落ち着いていられるのは、意識が混濁しているうちにひとしきりパニックになっていたからだろう。

 俺にとっては初めてだが、忘れているだけで慣れているのだ。

 だから、状況を把握できる程度には記憶を思い出せるはずだ。

 俺は、どうしてここにいて、なぜ粥を食わされていたのか。まずはそれを突き止めなければならない。


 起きたあとに記憶を進めよう。

 覚えている限りでもっとも新しい光景は、横倒れになった地面と、俺を見つけて駆け寄ってくる長弓を持った女性の姿。

 全身に走る鈍い痛み。ずるずるという音。足首を捕まれて、荷車に乗せられる俺。女性からはよく聞き取れない誰何の問いかけが続いて、無言を返す俺に諦めたように黙った。

 ──突然、響く雄叫び。叫び声と、にわかに速度を増す荷車。木が砕けるような破砕音。

 投げ出され、引きずられ、洞窟に投げ込まれて、ああ、そして、そうか。

 慌てて体を動かそうとして、身体中が妙に痛むことに今さら気づいてやめた。薬の影響で痛覚が弱っているからこの程度で済んでいるが、しばらくすれば地獄も地獄だ。これについては意図して考えないようにして、そのことを確かめるために目だけで俺は俺の体を見た。

 腕や足は泥だらけ。スーツもほとんど破けてしまって使い物にはなりそうにないな。何より、細かい裂傷がたくさん走っている。

 相も変わらず薪をくべている女性を見て、彼女の顔に色濃く残る疲労のあとを見てとって、どうしようもなく沈み込むような気持ちになった。


(助けられたのか。俺は)


 事態は大まかに把握できた。

 昨晩、多量の服薬で意識を失った俺は、何らかの要因によりどこかの森の中で目を覚ました。

 獣道一歩手前の広い街道沿いに倒れていた俺を、暗紅色の髪をしたこの女性が見つけた。彼女は救急車を呼ぶでもなく、なぜか荷車を持ってきて俺を乗せ、どこかへと運ぼうとしたが、それは叶わなかった。

 あの雄叫びだ。熊か何かに追いたてられたのだろう、捨てればいいのに荷車ごと逃げて、それが壊れれば今度は肩でも貸してここまで逃げてきた。

 そして、彼女は反応を返さない俺を見て何を思ったのか、腰に下げていた麦を煮込んで俺に食わせていた。

 記憶が正しければこんなところだ。正直それでも疑問は多々あるし、これが薬の副作用で見ている幻覚である可能性の方がよほど高いのだが、しかし仕方ない。

 現に、こうなっているとしか思えないからな。


 それがわかったところで、やるべきこともひとつしかない。

 仕事も途中だ。プロジェクトを率いる俺が失踪しては、何も立ち行かなくなる。恋人には、佳子には昨日の別れ際に、「また明日」と言ってしまった。なら、明日には会わなければならないのだろう。

 ふいに沈み込むような気分になった。ここで消えてしまえればどんなに良いことか。わずかに強くなった頭痛から意識をそらして、俺は義務を再確認する。そうだ。俺には俺として生きる義務があるんだ。帰らなければならない、できるだけ迅速に。

 そのためには、この女性に話を聞かなければ。


「まち、へ」


 ──だが、出た声は弱々しいものだった。

 相変わらず舌も動かないが、それにしたって喉が痛い。薬も抜けかけているようで、吐息を吐くだけで激痛が胸を襲う。

 痛みに耐えて声を張り上げ、何とかして立ち上がろうとするが、それも叶わない。

 どうやら森の中を多少引き回された程度とは思えないほどに、この体は消耗しているようだ。

 薬の影響とはまた違う、外傷由来の損耗。大きな怪我をした覚えはないが、何がどうなっているのだろう。

 無理に立ち上がろうとしたせいで倒れこんだ俺の体を、紅髪の女性が慌てて支えてくれた。


「無理、しないで」


 なんて一言さえ、耳元でかけられる。事情は分からない。ただ優しいだけなのかもしれず、何かの思惑があるのかもしれない。

 だが、事実は変わらない。助けられた。また助けられた。まただ。なんてことだ、なんて無様。

 土の上に寝かせられながら、どうしようもない自己嫌悪を振りきって、だが、それでも聞いておかなければ。


「町へは、どのくらいある」


 涼やかな顔を下から見上げて、声を振り絞る。

 町へ行く。帰らなければならない。帰って、やるべきことがあるんだ、俺には。

 こんな状況でも世界は回るのだから、俺は、消えることなどできない。

 妙な熱が入っていることは、自分でもわかっていた。

 異常事態に動揺する精神と、さらに多量の薬が入っているからかもしれない。

 正常な状態ではないことは薄々と自覚している。

 それでも、それでもと続ける俺の声を、腹の底に響くような重低音が遮った。


 とたん、表情を変えて洞窟の外を見に行こうとする女。

 その手にはいつのまにか、壁に立て掛けられていた大きな長弓が構えられ、いつでも引けるようにと矢も握られていた。

 しばらくそのまま外を眺め、そのままの姿勢で声を投げ掛けてくる。


「だめだよ、神官さま。あれがいるから、外には出れないの」


 ああ。

 洞窟の外から吹く冷たい風が俺の頬を撫でた。

 外的な刺激に敏感に反応する異常な状態にある俺は、その刺激を以て正気を取り戻した。

 俺の心は180度変わり、すとん、と落ちるように熱は覚め、ああ、そうか、と呟いた。


「だから、村にはいけないよ、神官さま。……神官さま?」


 女性も何か問いかけているようだが、妙な方向に急速に回り始めた思考に振り回されている俺には、その声は半分ほども届いていない。

 そうか、なるほど。察するに、猛獣の類いに追い回されているから、町へと続く道に迎えないということか。

 俺はどうやら寝ている間に都市部から離れた場所に連れていかれたようだ。その理由については考えるまでもない。言ってはなんだが俺は相当な資産家で、狙われる理由もたくさんある。誘拐でもされて、そして失敗したのだろうと考えれば、さして疑問符も浮かばないのが嫌なところだ。

 この女性はこの辺りに住むマタギか何かで、だから狩人の装いをしているとすれば、無理やりではあるが説明はつく。

 奇妙な髪色も、年のわりにはつたない口調も、日本人離れした顔立ちも、疑問視するに値しない。このくらいなら、それこそよくあることだ。

 色素欠乏、染色、遺伝性疾患、光の加減、精神の未成熟、あるいは未就学児童のなれはて、個性、多様性、異人種、まあいくらでも理由は出るだろう。

 粥と麦、子どものころに読んだ忍者大百科を思い出してしまった。

 要するに保存食だ。穀物をそのままの形で下げ、必要な時に茹でて食う。種類によっては気付けとしても使えなくはないと聞いたことがある。ならば、そういうことなのか。

 確証さえ何もない無根拠な推論――いや、妄想だけがぐるぐると回り始める。


 (ああ、ようやく頭が回るようになってきた)


 わずかな浮遊感は付きまとうも、やるべきことは明確だ。つまるところ、問題はひとつだけで、助けが呼べればいいのだろう。

 だったら──と、突っ込んだポケットにはスマートフォンはなく、舌打ちをひとつ。そううまくはいかないか。


「……あせらないで、神官さま。これもきっとなんとかなる、から」


 漏れた舌打ちが聞こえてしまったのか、彼女は顔だけをこちらに向けて、何やら勇気づけてくる。


「ああ、すまない―ー」


 あなたに向けたものではないんだ、とは続かなかった。

 痛む肺に押されて咳で言葉が中断されたのだ。げほ、ごほ、と咳き込みながら、俺は内心首をかしげる。

 なんというか、話すだけでこうまで苦労するとはおかしいんじゃないか? そこまで虚弱だったつもりはないんだが。

 考えてみれば、いったいなぜここまでの怪我を負ったんだろうか。その理由がわからない。

 この状況下で、もっとも不思議なのはそこだ。この女性の存在も、起きたら違う場所にいたことも、洞窟のことも、粥のことも、外から聞こえる獣の声も、まあまあ説明がつかないわけではない。

 ほぼ妄想に近いが、それでも何もわからないよりは仮定ぐらいは出来ているほうがよほど精神に良い。だがこの傷だけは何とも言いがたいのだ。

 女性が俺を引きずるときについた傷とは別に、俺はどうも深刻な打撲痕のようなものも抱えているらしく、ではそれはどこでついたのかというかと、これは答えがでない。

 身代金誘拐失敗説を信じるなら、肝心の人質である俺が傷つけられるわけはなく、そうでなくても殺しが目的ならもう少し死に繋がりそうな傷を与えるはずで──なんて、まあ、考えても仕方がない問いではあるのだが。

 というか、そうか、頭がはっきりしてきてようやく気づけたことがある。俺は一旦思考を切り上げて、未だ警戒を続ける女性へと声をかけた。


「そうだ、あなた。俺はあなたをどう呼べばいい」


 この女性の名前さえ、俺は知らない。

 欲を言えば状況の説明をこの人の口から聞きたくはあるし、どうして俺をそこまで助けてくれるのか、やけに親し気なその態度は何なのか、疑問点は数あれど、いかんせん現状では声を発するだけで辛い。

 一度咳き込んだせいか多少は和らいでいたから、一言、二言なら問題はなさそうだが。

 相も変わらず肺が痛むが、元より全身痛いのだ。この程度なんとでもなるし、死に繋がりそうな気配もない。咳をこらえて、一息に続ける。


「俺の名は久礼井。久礼井依樹だ。あなたの名を聞かせてほしい」


 寝転がったような体勢から少しでもましなものにすべく、何とかして上体を起こすと、女性が弓を持ったまま、やけに困ったような顔をしていることがわかった。

 教えたくなければ無理強いはしない、と言いかけたとき、彼女は小さく口を開く。


「私はレミィ。レミィって名前。神官さま、だから、寝てて」


 そしてそれきり口を閉ざし、洞窟の外へと目をやった。

 レミ、れみ、玲美。レミー、レミィ。レミィ、が一番近いか。

 レミィ、というのが名か。日系人とも取れそうな名前なのだが──ああ、いや、待った。

 また一つ妙なことに気づいてしまった。あまりにも自然に呼んでくるものだから気づいていなかったのだが、彼女、起きてからというもの、俺のことを一体なんと呼んでいた。

 神官。聞き違いでなければ神官と言っていた。

 神官、神官か? 神官さま? なんだ、宗教的な意味の神官か。それとも、誰かと勘違いしているのか?

 こんな状況で唯一の協力者と見られる人間との間に妙な誤解を生じさせていて、それがメリットに繋がることはないだろうが、それにしたってまた疑問点が増えてしまった。

 だが、まずはこの呼び名か。そう考えた俺は、ひとまずどういう意味かと聞こうかと、


「レミィ。その神官というのは──」

「しっ」


 問いかけた俺に向け、立てた人差し指が突き出された。

 とっさに口をつぐんだ俺の耳に、風の音に紛れて、どしん、どしん、という重い足音が聞こえてくる。それはだんだんとこちらに近づいているようだった。

 レミは足音をたてないようにしながら俺のもとへとそろそろと近づいてきて、耳元でささやいた。


「あいつは耳がいいから、話すと危ない。……今は隠れるしかない」


 なるほど、と目だけで伝える。伝わったかは知らないが、向けた視線にはうなずきが帰ってきた。

 しばらく息を潜めていると、例の足音は去っていったようだ。


 ―ーしかし、そうか。

 彼女が無口気味というか、説明も何もなかったのは、あの獣がいたからか。

 耳のいい獣に追われているから、ただ黙って時を過ごしていた。

 それをまた呼び寄せたとなれば、これは俺のせいだ。咳もしたし、声もあげた。近づかせたのは俺の責任か。そうだな。


(いつもそうだ。お前はいつもそうやって――)


 幻聴が響く。が、今はそれに気を取られている場合ではない。

 いつものように無視しておく。今はそれより重要なことがある。だから黙っていてくれ。

 そう、今の俺にやるべきこと――それは、俺の真横にぴったりと張り付いて、俺の肩に頭を乗せたままのこの女性──レミィから、現状を抜け出すための方策を聞き出すことだ。

 俺たちはふたりで、武器は弓ひとつ。狂暴そうな獣に追われて洞窟に逃げ込んで、そいつはどうやら聴覚に優れている。あげくに俺は全身ボロボロで意識も曖昧ときたら、これは万事休すと言うやつだろう。


 ……いっそ俺ひとりなら、嬉々としてあの獣の餌になりに行くこともできた。

 だが、俺が死んでは俺を助けたこの女性の行為が無駄になってしまう。

 それは、俺だけの問題ではないのだ。


 まずは生き残らなければ。

 まだ義務を清算できていないし、恩も返せてないままだ。

 決意を新たにした俺は、ひとまず引っ付いたレミィを引き剥がすところから始めたのだった。

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