生まれ落ちれば、死んだも同然
誰しもが、望んで生きてるわけじゃない。
望まぬ死を迎える人間がたくさんいるように、望まぬ生を受けてしまって、仕方なく生きている人もいるはずだ。
彼らがなぜ命を捨てないのかというと、ひとえに、義理と義務があるからだ。
育てられた恩。培ってしまった友情。学校。仕事。社会との繋がり。友人、恋人、家族。それらはすべて清算しなければならないもので、購うべき罪で、重みで、どうしようもない義務だ。
「まさか、何も終わらせないまま死に逃げるのか」
「おまえはせめて決着をつけるべきだ。何もせずに死なれても、向こうも困るだろうに」
「親に恩も返さずに、友の心に傷を残して、そんな死に方で本当にいいのか」
──毎日、繰り返している。
朝起きるたび、聞こえる。夜眠りについたあと、聞こえる。ふいに聞こえる。予兆なく聞こえる。来ると思ったときには、もう聞こえている。正気のまま、俺を苛む俺の声が。
いっときは精神の病を疑った。服薬もした。治療も受けた。だが、結論は変わらなかった。
どうやら俺は、正常なまま狂っているらしかった。
デパス。ソラナックス。ストラテラ。
どの薬もどの医者も、俺の声を和らげてくれなかった。
喧しくて夜も眠れず、薬を飲んでもなお眠れない。
薬が悪いのか、俺が悪いのか、何がおかしいのか。何かがおかしいという確信だけはあって、それが何なのかはわからない。
違和感だけは残り続ける。それが、何かを軋ませている。
生きているのはおかしなことだ。
俺という肉の塊が、俺という自意識をもって、俺を定義し続ける。連綿と続く過去と現在が未来を決める、それが人生だとしたら、どうやら少し難しすぎるから。
だから、俺は生きたくはなかった。
生まれてきたくはなかったし、生きていきたくもない。
望むものはただ、声がやむこと。
死の安寧こそが俺の救いだ。だけど、紡いだ生が俺を死から遠ざけている。
無責任に死ぬな。せめて清算してから死んでくれ。
死ぬならあとのことも考えろ。後腐れなく死ね。
それは所詮自己満足だ。一度くらいは役に立つことをしたらどうだ。
逃げるのか。
「うるせえ、分かってるよ」
思わず漏れた俺の声は、自分でもはっきりとわかるほどに震えていた。
そうだ、これらは所詮は俺の声。わかっているんだ、俺は。
突発的に命を落としても、それはのちの迷惑となる。この現代日本においてはいなくなることなどできやしない。
俺は、恵まれているから。
実際、三十年と少しの時を生きてきて、挫折なんてしたことがない。友にも恵まれ、仕事は順調で、恋人もいる。
彼らに俺がどう見えているのか。そんなもの決まっている。少なくとも、この俺ではないのだろう。
何もかもを嫌ってただ緩慢な消滅を望む俺では、決してない。
世間的に見ても成功を重ねているし、親にも恵まれ、環境に恵まれ、努力も続けたし、才もあったと思う。
ひとつだけおかしかったのは、声が聞こえてしまうこと。
何か、生きていることへの強い違和感と、死を何より望んでしまう価値観。だけど、声が俺を止めてくれなかった。
彼らが望むなら、おまえはそうするべきだ。
何もできないのだから、せめて期待には答えてやれ。
俺はずいぶんうまくやった、はずだ。
頭に響く声はどんどん音量を増してきて、やがてひどい頭痛がしてきた。処方された薬を三日ぶんほど一気に口に含んだ俺は、一息に飲み込んだ。もともとたいして効きもしないし、副作用にも慣れている。自暴自棄になっている自覚はあるが、いまさらこんなラムネをいくつ飲んでも死にはしない。
死ぬことなんて、できやしない。
全てが重い。
こんなことなら、本当に、誰もが俺を忘れればいい。
見知らぬ世界で、風に溶かして死なせてくれ。
ふらふらと曖昧なままベッドに突っ伏した俺の頭に、聞きなれない声が響いた。
「ああ、それでこそだ」
いつも響く幻聴が、そのときだけは姿を変えていた。
聞きなれた低い男の声がするはずなのに、聞こえてきたのは俺の声、ではなく、それは年若い少女の声だった。
悪魔のような声色で、少女は笑う。
鈴をならしたような、ころころという笑い声が響いた。
混じりけのない透明な笑い声。しかしどこか、隠しきれない、おぞましさをも感じさせるものだった。
聞いたことのない幻聴に意識が現実へと引き戻されながら、それに反比例するかのように、抗いがたいほど強い眠気が襲ってくる。
ああ、いつもの薬の副作用か、なんてことを考えながら、
「さあ、こちらの世界へ来い。おまえにはわたしこそがふさわしい」
──奇妙な浮遊感に包まれて、俺は意識を手放した。