叢雲 一
御所での家族の邂逅からわずか数週間後、蘇芳帝は危篤に陥った。
帝はもはや侍医によって調合された薬も嚥み下すことができず、
治療は専ら陰陽師による病魔退散の祈祷となった。
穂積と八千代も帝の枕元に馳せ参じ祈祷に加わった。
「今日はまず俺が祈祷所に入る。その後亥の刻からお前と代わろう」八千代は穂積に言った。
せめて兄弟どちらかが常に帝のそばにあってお守りしたい、そう思ったのだ。
「承知いたしました、兄上」八千代の思いを汲んで穂積は答えた。
その夜、穂積と交代した八千代は一旦父帝の御所を離れ邸に帰った。
「少し休む、何かあればすぐに起こして知らせろ。大事なければ明朝の寅の刻に起こすように」
宿直の臣下に告げて自室に入り右近の介添で着替えをしていた。
疲労してはいるものの張り詰めた八千代の神経は逆立つようで、室に続きの縁からヒタヒタと忍び寄る足音を耳が捉えた。
「誰だ!」
鋭く八千代が呼びかけたが無言だった。
抜刀する微かな音に八千代が振り返った瞬間、黒い頭巾をつけた何物かがひらめく刃を向けて襲いかかってきた。
刀の柄に手をかけた時、「誰か八千代様の寝所へ早く。賊じゃ、賊じゃ」と叫びながら右近が八千代の前に躍り出た。危ない。
「右近、どけ!」
八千代の叫びも虚しく賊はすかさず斬りつけ、右近はその場に崩折れた。
が、血を流した右近はなおも縁に向けて這い出でながら「誰か早く、八千代様の元へ」と声を枯らした。
賊は続けざまにこちらに斬りつけてきたが腕は及ばず、八千代に返り討ちにされたところを駆けつけた臣下によって捕縛された。
黒い頭巾を剥ぐ間に賊は舌を噛み切り血を吐いて果てた。もとより失敗したら死を選ぶ覚悟だったのだろう。
八千代は左腕を斬られていたが傷は浅かった。それより早く右近に手当を施さねば。
「右近が斬られた。早く手当てを」そう指示すると、八千代は襦袢の袖を割いて右近の刀傷にあてがい血止めを試みた。
真っ向から斬りつけられた傷は深く、脈打つように血が流れてくる。
右近の衣装は血にまみれ、黒髪は解け乱れて顔色は紙のように白く、すでに虫の息であった。
血止めの袖布はたちまち赤く染まり湿ってくる。
力なく垂れた指の爪色は蒼く、右近の体が急激に冷えてきている。
遅かったか。もはや助からぬかもしれない。
八千代は右近を抱き抱え、着替えのため脱ぎ捨てたまま床に散っていた自分の衣を掻き寄せて包んでやる。
「右近、すぐに手当てをさせる。しっかりしろ」そう励ました。
「八千代、様。もったいのう……ございます」右近は切れ切れに言う。
「女の身で俺の前に立つとは不敵にもほどがある。二度とそのような真似をするなよ」
抱きかかえたまま八千代は右近に微笑みかけた。
右近の脳裏には八千代とともに過ごしたあの叢雲かかる月の一夜が蘇る。
今と同じように、強く艶めかしく自分を腕に抱いた八千代様。今は襦袢を隔てて伝わるあの肌の熱さ。
私にはもう、思い残すことはない。
煙ってゆく意識の中、痛みも苦しみもだんだんと遠のいて、右近は八千代の腕の中にある幸福のみを感じていた。
程なく侍医が到着したが、「……八千代様、この身は……今日が、晴れの日に、……ございます」
そう囁くように言うと右近は八千代の腕の中で微笑んで事切れた。
賊の身元を調べさせたが足はつかなかった。
八千代は傷を負って血を流し不浄の身となったため、病魔退散の祈祷には加われなくなった。
翌朝、蘇芳帝の御所で八千代と顔を合わせた祖父玄武院は、左腕に白い布を巻きつけた八千代の姿に一瞬目を見開いたものの沈着に問いかけた。
「傷を負ったと聞いたが大事無いようだな。邸に押し入った賊の正体はつかめたのか」
「私は大した傷ではありませんが、賊は相当の手練れと見えてその場で自害しました。あれだけのものを雇えるとなると、相手は自ずと限られましょう。遠からず洗い出します」
つとめて静かに八千代は応じた。
今の俺ははらわたが煮えくり返っている。激情を見せてはならぬ。ならぬ。
が、右近の最期の微笑みを思い出した八千代は、つと顔を上げて玄武院を正面から見つめた。
人の皮を被った血なまぐさい妄執の妖怪め、追い詰めて化けの皮を剥いでやる。
いっそ俺が虎であったなら、この場で噛み殺したものを。
「どうした」
「いえ、なんでもありません。玄武院様も何卒身辺にご注意を」
息を呑む気配があったものの次の瞬間、院は何食わぬ顔で「そうしよう」と言い供を引き連れて立ち去った。
賊の正体など調べるだけ無駄と承知している。
俺を抹殺する指令の出どころなど、とうに知っている。
蘇芳邸危篤の騒ぎに乗じて、第一後継者たる俺の暗殺を命じたというところだろう。
その後は穂積を名目上の後継者として立て、自分はその後ろ盾として再び院政を敷き実権を握る算段だ。