笛と舞 二
あれから月日が流れた。
今日は邸の外れから笛の音が聞こえてくる。
右近は耳を澄ました。
今、細く聞こえる音色は、哀切の響きとは違ってどこか艶めかしく感じられる。
どなたか、想う方でもおいでなのかしら。
恋しさに胸の痛みを覚えながらも、右近は八千代皇子の幸せを願った。
多分、邸の外れにある林だ。
そう穂積は思った。
兄上は林の中でこの曲を奏でている。
笛の音を追って邸を出た穂積は林に入ると、太くそびえ立つ欅の樹上に樺色の衣を認めた。
齢を経た大木の太く伸びた枝に腰を下ろして幹にもたれた八千代は、瞳を閉じて楽の世界にいた。
八千代が奏でるその音に穂積は深く心を揺さぶられた。
その一方で、見てはいけないものを見た気がして穂積は木陰にひっそりと立って耳を傾け、息を殺して八千代を見つめていた。
絢爛と典雅の世界に生まれ育ちながら、兄上はそのような生き方に早見切りをつけて、この国の行く末を思い一人強く歩いて行こうとされている。
そして此の頃は自分の内にある抒情さえ否定するかのように、極力人に晒すまいとされる。
きっと今私がこの場で見るものは、耳にするのはそうした鎧を脱ぎ捨て一糸まとわぬ八千代兄様の心の姿に他ならぬ。
静かな木立の侘びた風情の中、赤く燃える小さな炎のように八千代から放たれる艶がひらめく。
穂積の胸は騒いで目が離せなかった。
八千代兄様、何を想っておられるのか。
いや、誰を想っておられるのか。
ああそう考えると止めようがなく私の胸は痛み、愚かにも名も知らぬ相手への嫉妬にかられてしまう。
不意に風が吹いて、木立から飛び立つ鳥の群れが騒ぐ。
八千代は奏楽をやめて目を開けた。
その視界の隅の木陰に、八千代は藍色の衣を捉えた。
穂積か、よりにもよって。
自分の心の内を想いをゆめゆめ知られてはいまい、と思いながらも八千代の心は激しく波打った。
穂積は木陰から姿を表すと八千代に一礼して立ち去った。
翌朝、穂積は邸内で八千代と行き交ったが、兄は穂積に言葉もかけず一顧だにしない風情だった。
私が黙って物陰で聞いていたことが兄上のお気に障ったのか。
それとも聞いていたのが私であったこと、それ自体が何か許せないのか。
そう穂積は思った。
私に対して、兄上が鬱屈を露わにするようになったのは四年前からで、
それは近年さらに顕著になっている。
特に私が祖父への敬慕を表すときに、それは一層はっきりとした形をとった。
あの七草の日のように。
なぜ、兄上はあのように……。
お爺様である玄武院に対して、詳らかにできない何かがあるとはお察しするが、それは一体どのようなことか。何が兄上を駆り立てるのか。
私は兄上の御心が知りたい。私に非があることならば改めたい。
兄上は決して冷たい方ではないのだから。
特に父上を思うお気持ちは強く純粋だ。
私はただ兄上の御心に近づきたい。
玄武院の誕生祝いに穂積の舞を披露されたしとの書状の件がよぎった。
そうだ、と穂積は思った。兄上も列席されるはず。ならば。
「私は是非とも、兄上の笛で舞いたいのです」穂積は八千代の元へ直参して告げた。
「嫌だ」と八千代が間髪を容れず答えた。
「兄上、そのようなご無体を。ご高齢にもかかわらず、日々政務にお忙しいお爺様を私どもでお慰めしようではありませんか」
「院は、俺など雅を解さない無粋な人間だとお思いだ。俺が出ればむしろ取り巻きの貴族連中の不興を買うだけだろう」
しかし、穂積は引き下がらなかった。
「そんなことはありません。兄上は笛の名手です。皆も承知しています。兄上がそう言われることを好まれないとわかっているから、皆密かに耳を傾けているにすぎません」
穂積はいつになく真剣で、強い視線が八千代を捉えている。
なおも穂積は続けた。
「此度の舞は、兄上が即興で奏でる笛に、私も即興で応じるという趣向ではいかがでしょう。
それでも兄上が嫌だと仰るのなら、私はこの度の宴を辞退いたします」
いかにも興味深い趣向。しかも、お前がこの俺にそこまで言うとは。
院に逆らうような賭けを演じてまでも、俺に指図をしようとはな。
白い頬を薄紅に上気させ、自分をかき口説く懸命な穂積。
桃の果実を思わせる美しいその薄紅が、ふと八千代に兄としての何かを忘れさせそうな心地をもたらす。
それを振りほどくように、「そのようなことをお前がするものか」と八千代はわざと意地悪く唇の端で笑った。
すると穂積が言った。「なに、急な病に伏せるまでです」
なんと。思いがけない穂積の言いようだった。
お前が敬慕する祖父の祝宴に仮病を使う気か。
これは面白いことになったな。思わず八千代は笑いだしていた。
「そこまで言うとは。そんなにも俺の笛で舞いたいのか」
「そうですとも兄上。兄上の笛でなくては穂積は舞いませぬよ」穂積も屈託無く笑って言った。
負けた。
八千代は穂積と久しぶりに兄弟らしい応酬をした気がした。
「蘇芳帝の御所にも院からの知らせは届いたでしょうが、父上はあのようなお身体でさぞや寂しくお思いのことでしょう。お爺様の宴の後には父上の御所に伺い、ともに父上をお慰めいたしましょう」
そう穂積は続けてそれには八千代も全く吝かでなかった。
「それは良い考えだ。穂積、是非そうしよう」
穂積は急に熱を帯びた八千代の瞳を見つめていた。
ああ、兄上の瞳が輝いた。
兄上が笑ってくださった。父上のこととなると兄上はことさらにお優しい。
それに。
実に久しぶりに、兄上が私を「穂積」と呼ばれた。私の名を呼んでくださった。
胸が甘やかに痛んで、その痛みを手放したくないと穂積は思った。