菜の花の海 二
八千代の言葉を聞き入れ、穂積は再び父帝の御所に参じた。
蘇芳帝の傍らには母妙月妃が控えていたが、一睡もしていない母の双眸は赤く、美しい面立ちもやつれて痛ましい。
「母上、私が替わって帝をお守りしますから、どうか今暫くはお休みください」
そう労ると妙月妃は俯いて涙を押さえ、女官に支えられて立ち上がった。
帝の息遣いはやや荒く両肩が上下し、時折喉からひゅうとすきま風のような音が聴かれる。
その目は閉じられたままで、もはや穂積の挨拶も再三の呼びかけも耳には届かぬようであった。
御父上、いや蘇芳帝様。
穂積は心のうちで語りかけた、
私は帝の御子ではなかったのにも関わらず、今日まで八千代兄様と等しくご慈愛を賜りました。
この事は秘中の秘であったゆえに、今も帝はご存知ないことであると私は信じたいのです。
そうでなければ私はとても帝に顔向けできませぬ。
幼い頃に帝のお膝に甘えたこともあったことなど、屈託無く思い出すことも到底叶いませぬ。
帝はご存知なかったのだ、きっときっとそうなのですよね。
帝の枕元を守りながら、穂積は八千代の唇が与えた左胸の百日紅の痕跡を秘めるように、失うまいとするように衣の上から手を当て瞼を伏せた。
あれから思いを巡らせたが私はやはり八千代兄様の、愛しいあなたのそばにあることは出来ない。
全ての穢れと欲を払拭し、この先こそは兄上の手で新しい御代を築いて欲しい。
それは簡単なことではないと今の私にはわかっている。
せめて私はその礎となりたいばかりです。
兄上、あなたのためならば穂積は。
そう、願わくば帝が崩御あらせられるその前に。
しかし穂積の願いも虚しく、帝の息遣いは一層荒くなりひゅうと喉の鳴る音も徐々に途絶えがちになった。
深夜のことであったが穂積は直ちに八千代の元へ報せを送った。
日付が変わってその数刻後のこと、八千代の到着を待ちわびたかのように蘇芳帝は妙月妃と八千代、穂積、
側近の臣下が見守る中静かに息を引き取った。
私には果たさねばならぬことができた。もう猶予はない。
皆が涙にくれるなか、穂積は心中である覚悟を決めた。
「玄武院へは私が直参し報せよう。院をお慰めした後にまた戻る」
穂積は努めて平静に臣下にそう告げた。
八千代兄様に気取られてはならぬ。しかし急がねば。
馬を用意させると伴は一人に留め、御所を抜け出した穂積は急ぎ玄武院の邸に向かった。
玄武院の邸に到着した穂積は、帝の御所より急報と内々のご相談にてと宿直に伝え人払いを命じ、
伴も宿直所に待たせた。
御所より急報、との言に加え常々お優しい穂積様が直参とのこととて、家臣も何ごとかを察した模様で怪しむことなく人払いに応じた。
胸元に秘した懐剣は鞘を捨て去り握りを布で巻いておいた。
抜刀の際に音を立てぬよう、そして血糊に滑らぬよう。
「玄武院様、夜分に恐れ入ります。穂積にございます」
穂積はそう告げて院の寝所に滑り込んだ。
「自ら急報とは穂積、もしや」
問い詰めた院に穂積は平伏してにじり寄った。
「はい。帝におかれましては、今しがた崩御あらせられました」
「そうか」
院はしばらく目を閉じていた。
数々の画策を巡らしてきたに相違ないこのお方にも、ひとかたの感慨はおありなのだろうか。
祖父として自分を慈しんでくれた院の記憶が穂積の胸をよぎったが、穂積はその想いを封じた。
もはや迷うことは許されぬ、一息に済ませなければ。
「夜半にはございますが、穂積は折り入って院にお願いがございます」
そう言うと同時に懐剣を抜くと薄闇に白刃が閃いた。
構える遑を与えずに、身を翻し院の喉元に懐剣を突き立てると穂積は低く言った。
「今宵、黄泉路を共に参りましょう。院にお寂しい思いはさせませぬ。穂積もすぐに参りますゆえご容赦を」
鉄の匂いが鼻をつき、穂積は生暖かい血飛沫を浴びた。
お爺様としてお慕い申してきた貴方に、長くはお苦しみを与えまいよ。
強くそう願って穂積は手を緩めなかった。
渾身の力で剣を握りしめた指は血の気を失い、爪は白と紫に染まり腕が震えた。
穂積の剣に息を奪われた断末魔の院は、目を見開き顔色を失い声もなく魚のように口をパクパクと動かすばかりで穂積の袖を掴み握りしめたが間も無くその動きも絶えた。
「八千代兄様を苦しめ続けた貴方と私です。共に参りましょう」穂積は息絶えた院にそう語りかけた。
八千代兄様。
菜の花の海で貴方の御心を知っても、いや知ったからこそ私は生きてあることの罪に耐えられそうにないのです。今宵をもって暫しのお別れです。
黄泉にて再び相見えるその日まで。
穂積は血潮に染まった院の褥に滑り込み、院の枕元にあった懐剣を取ると自らの喉元に突き立てた。
公式の報告によると、
玄武院は高齢のこともあり、蘇芳天皇崩御によるお気落としにより急な病を得て儚くなられた。
また繊細な気性の穂積皇子は尊敬する父帝と祖父玄武院の相次ぐ死により人事不省に陥り、
同日、玄武院の枕元で自害されたと記されている。
八千代は穂積の横たわる棺の前に頭を垂れ、その亡骸の横に愛用の笛を置いた。
永遠に瞳を閉ざした穂積の美しい貌には、あの宴の日のごとく薄紅が差されていた。
そっと指先で触れたその頰は冷たく、褐色の瞳を覗くことは二度と叶わない。
穂積の喉元には白布が巻かれていた。
八千代は穂積に向かい、その最期の姿を記憶に刻みつつただ心で伝えた。
お前を殺したのは外でもないこの俺だ。
俺なのだ。
俺自身の心に潜んでいた魔封の思いがお前を消し去ってしまった。
お前を失った今の俺にもはや何の希望があろうか。
しかしお前の思いは受け止めたつもりだ。俺のこの国への思いだけは費えてはいない。
俺はお前の思いを胸にこの世を変えて行く。それをお前に捧ぐ志としよう。
穂積よ、俺はこの国のため妃を迎え命を繋ぐことだろう。
だがこの笛を俺が奏でることは二度とない。
空に浮かぶ月の欠けるが如く静かに失われた、ただ一つの輝く思いよ。
愛しい穂積、俺を許せよ。
この笛とともに俺の心をお前への餞としよう。どうかお前の魂と共に黄泉へと運んでくれ。
叶うなら、いつか再び見える時にお前の手から受け取りたい。
だれにも見せぬ八千代の涙は露のごとく、密やかな孤独とともにその袖を濡らすばかりであった。
完




