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菜の花の海  作者: のすけ
11/12

菜の花の海 一

穂積が蒼白になった。

つと立ち上がるとふらつく足取りで部屋を出て行った。

一人残された八千代も暫く呆然としていたが、ほどなく兄としての自身を取り戻した。

取り返しのつかぬことを俺はしてしまった。

俺は心が切り刻まれたあの苦痛を忘れずにいながら、穂積に同じ傷を負わせた。

残酷に穂積の優しく脆い心を切り裂いてしまった。


幼い頃の穂積はいつも八千代の後を付いて回る気弱で愛らしい弟だった。

成長するにつれて知的で美しく柔和な穂積は、そばにいるだけで八千代の心を和ませた。

二人の心が一つに溶け合うと、あの笛と舞のひと時のように別の世界を覗ける気さえした。

だがその一方で、穂積を困らせ俺の所業に取り乱すところが見たくなる。

この衝動の正体は何なのだろう。

俺にもやはりあいつの血が濃く流れている故か。支配欲、征服欲にまみれたけだものの血が。

探し歩いたが穂積は邸内にはおらず八千代は不安に駆られた。

庭の草木がまだ新しく倒れている一角があるのに気づき、そのことからして穂積は庭を走り出て外に向かったようだ。

どこへ行った、こちらは菜の花畑だ。穂積、まさか早まるなよ。

果たして四年前に暗殺計画の舞台となった菜の花畑に穂積の藍色の衣が見えた。

その手に陽光を反射し閃くものを握っている。

あれは懐剣か?八千代は息急(いきせ)き切って駆け寄った。

「馬鹿、早まるな!」穂積は懐剣を逆手にしている。

「死なせてください!」

「よせ、止めろ!」八千代は穂積の手首を強く掴み懐剣をもぎ取った。

畑の黒土の上に穂積は倒れ涙を落とした。


私がいるから志ある兄上がお命を狙われ私はこの先、祖父の、いや実父の傀儡(かいらい)となる定めを負わされるのだ。

そのようなことは金輪際(こんりんざい)あってはならない。

穂積は強く思い言った。

「兄上。否、そうお呼びすることさえおこがましい。(よこしま)な欲から生まれ、この先も欲の餌食でしかない(けが)らわしい私をここで死なせて下さい!」


穂積よ、そのように言わないでくれ。穢らわしいのはむしろ俺自身だ。

たった今、邪な欲にとらわれお前を傷つけたばかりではないか。

「赦してくれ。俺の邪心が言わせた事だ、全て俺が悪い」

「いいえ、事実なのですから。民を憂い慮るあなたが御代を継ぐことこそ私の希望です。せめて希望を胸に私は死にたい。いっそのこと私を殺してください!」

「嫌だ、できるものか!俺はお前を失いたくないのだ。お前は、お前だけは……」

(うら)らかな陽光の(もと)にそよぐ満開の菜の花に埋れた穂積。

その傍らに膝をついて、八千代は穂積を見つめた。


『俺の弟なのだから』そう言おうとした。


しかし、黒土を浴びて涙に濡れ紅く上気したその頬は金色に輝く産毛に縁取られて、ただ美しい。

穂積の双の手首を抑え付けると八千代は穂積の瞳を捉えて言った。

「ああ、俺にできるものか。……こんなにも」

八千代は()きとめられぬ思いに駆られ穂積に口づけた。

その柔らかい唇の色が百日紅(さるすべり)の花を思わせる。

穂積の首筋を辿(たど)り、胸元に八千代は鮮やかな百日紅の花を咲かせた。

「穂積、俺を軽蔑するがいい。穢らわしいのは俺も同じだ、……否それ以上だ」

穂積は答えぬまま八千代の姿を映す瞳でただ見つめ返した。

その瞳は今なお哀しみと諦念(ていねん)(たた)えてはいたが、薄く開かれた百日紅の唇は(ひそ)やかな歓喜に彩られている。

「八千代と呼べ。穂積、俺の名を呼んでくれ」

深く秘めてきた思いの手綱を放し八千代は穂積の体を抱いた。穂積の白い腕が八千代の首筋に回され巻き付いた。

「二度とは言わないぞ。愛しい穂積」

八千代は穂積を見つめ、菜の花の海原に穂積の藍色の衣を開いた。

穂積の白い体は藍の水面(みなも)に浮かんだ小舟のようで、解けた黒髪が(なまめ)かしい。

その黒髪を八千代が指に(すく)い絡めて口付け、射抜かれそうなその眼差しに穂積は応えた。

「私もあなたが愛おしい。八千代兄様」

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