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菜の花の海  作者: のすけ
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叢雲 三

八千代は秘められていた事実を穂積に告げたが、その後思いつめた様子の穂積を案じた。

たおやかで繊細な穂積は倒れてしまうのではなかろうかと。

あの時俺はもう一つ、体の傷以上に心を切り刻まれる思いをしたのだ。

しかし、それは今の穂積に告げてはならない。

そう八千代は思っていた。冷静さを取り戻すと八千代は穂積に告げた。

「今、俺といることはお前のためにならない。お前は帝と母上の元に戻れ」

「しかし兄上のお命が危険にさらされているというのに」

「聞け、穂積。お前はすぐに父上の元に戻れ」

「嫌です。傷を負われた兄上をお一人にはできません」

「逆らうのか穂積。子供染みた事を言うな。別に俺は一人ではない」

穂積は唇を噛んだ。

「穂積、俺にはやらねばならぬことがある。これからのこの国の為、歩を進めるためにお前の感傷は邪魔なのだ」

八千代兄様、よもやあなたは玄武院を。

でもこれまでの経緯から、それに院が対抗しないとは思えない。

帝が危篤の今、母上を始め皆が憔悴しきっている。

その機に乗じて私から兄上まで奪うなど、いくらお爺様であっても許せない。

兄上はまた一人危険に身を晒そうとされている。

事実を知った以上、せめて私は八千代兄様の小さな盾となりたい。我儘だとしても私は八千代兄様を失いたくない。

「嫌です。兄上お一人にこれほどの重荷を負わせるなど私は出来ません」

涙で潤んだ穂積の褐色の瞳が八千代を見上げる。


穂積やめてくれ。兄として俺はお前を守りたいのだ。

巻き込みたくないのだ、俺をお前の兄でいさせてくれ。

でもその一方で俺は美しいお前の泣き顔が見たい。

お前の瞳を覗けば、俺の心に封じている暗い二藍(ふたあい)色の衝動が渦巻いて込み上げる。

身動きもできぬほどにお前を縛り付け、ただ俺のために()かせたくなるのだ。

俺が暗殺されかけたあの日。

静養のため鎮静の薬湯を与えられて寝ていた俺の枕元で母が泣いていた。

いつも美しく嫋嫋とした母が、側近の女官を相手に取り乱し(すす)り泣いている。

さめざめと囁くような小声で語られる言葉を俺は聴いた。

「八千代、ああ許しておくれ。……私のせいだ、私のせいだ」

「妙月妃様、そのように仰らないでください」

「恨めしい。……あの方だとて人の父であろうに。ただ一人の、……帝のお子が邪魔なのか」

俺は受けた毒のために体が動かず目が霞み声も発することができぬ。

耳だけが(さと)く母の嘆きを聞き取った。

「あちらへ参りましょう。お妃様、八千代様がお休みですから」

だが母は俺のそばを離れようとはせず、小さくひんやりとした感触の手で俺の額を撫でながら赦しを乞うのだった。

「お妃様、お気を確かに。それ以上仰ってはなりません」

「言わずにいられようか。畜生道に落ちたこの身は果てても、八千代に、……何の罪があるというの」

「お妃様、なりません。あちらに参りましょう」

そして俺は知った。あの方、と母が呼ぶ相手は。

穂積、お前はあいつの子だ。

おぞましいあいつの。

生々しく蘇る記憶を抑え込もうとしながら、これまでになく穏やかに八千代は言った。

「穂積、まだ言うか。これからなさんとすることは全て俺の一存で、お前のあずかり知らぬこと。これ以上このことで俺に関わるなよ」

しかし穂積は涙を(たた)えた瞳をそのままに八千代ににじり寄より、細い指が(すが)るように八千代の衣の袖を捉えた。

「兄上、八千代兄様、後生です。私を捨て置かないでください。穂積は今こそお側にありたいのです」

穂積の衣香(いこう)と肌の香りが迫って八千代はわずかに後ずさった。

この()が強い祝詞(のりと)のごとく心に秘めた懊悩(おうのう)の魔封を解き放ち、八千代は狂おしく残酷な思いに駆られた。


身動きもできぬほどにお前を縛り付け、ただ俺のために哭かせたい。


暗い二藍色の思いが八千代の唇を()いた。

「穂積、あいつは俺でなくお前を後継として君臨したいのだ。なぜだと思う。お前は父上の子ではない。あいつの子なのだから」

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