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眠る月の皇子  作者: 古波萩子
第3章 叡智の眺め、MMO『黄泉オンライン』
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 第9話 淡い初恋の終止符

 正午。輝夜てるやすは昼食をうちで食べていかないかと、恵兎けいと草乃かやのを誘った。輝夜てるやすが作ると言ったら2人にとても感心されて、照れ笑いしながら台所に立つ。


「作るって言っても、パンに具を挟むだけの簡単なサンドイッチの予定なんですけど」

「それでも嬉しいです」


 恵兎けいとはリビングのソファに腰掛けたまま満面の笑みを浮かべる。

 不意に火住ひずみ由理ゆりが、月族つきぞく輝夜てるやすが料理をすることに対して非難めいた驚愕の表情をしていたことを思い出す。


「……あの、俺が――皇族の月族つきぞくが料理するのって本当はまずいのは分かっていて……」

「まずいこと、ですか? 輝夜てるやす様がなさりたいことなら、何もまずいことではないと思います。あ、面倒だと思われるのならいつでも言って下さいませ。私が代わりに作ります!」


 ふかふかの兎の手で拳らしきものをぐっと作って意気込む恵兎けいとに、輝夜てるやすは目を丸くした。

 恵兎けいとはそんな輝夜てるやすに「ふふっ」と笑い返す。


月族つきぞくの方は、姿を隠すまで9千年以上も宮廷に軟禁されていたのです。折角自由になられたのですから、その月族つきぞくの方が好きなことをなさっているのに邪魔するなんてもってのほかではないかと、私個人は思うのですよ。だから、どうぞ遠慮なく自由に何でもなさって下さいませ。そして面倒だなと思われた時には、私にそのお手伝いをさせていただけたらと思います」


 ここのところ、輝夜てるやすは周りの大人達に何もするなと頭から抑えつけられてばかりだったので、まだ知り合って間もない恵兎けいとの「自由に何でもやっていい」という言葉に内心感激していた。ほっとしたというか、自分の存在をやっと肯定してもらえたというか――……。

 草乃かやの輝夜てるやすの傍へとトコトコと近寄ってくる。輝夜てるやすを見上げてくる大きな浅葱色の瞳は揺れていて、恵兎けいとの言葉を受けてか、遠慮がちに小さな口は開いた。


輝夜てるやす様、おてつだいしたいん……」

「ホント? じゃあ、サンドイッチの具材の盛り付けしてもらおうかな」


 輝夜てるやすの軽い返答に草乃かやのが顔をほころばせた。

 輝夜てるやすもほっこりするが、ふと恵兎けいとがそんな草乃かやのを厳しい目で見つめている視線に気がつく。しかし特に草乃かやのを咎めるでもなく、じっと見つめるばかりで口は挟まない様子だったので、輝夜てるやすは気付かない振りをした。

 

 冷蔵庫から出した卵をスクランブルに炒めて、ハムやレタス、トマトなど野菜もふんだんにサンドイッチ用のパンに挟む。パンは母のつむぎの手作りで、昨夜焼いておいたものだ。更に輝夜てるやすが昼食にサンドイッチを作る用として、事前に食パンをきちんと切り分けて下準備をしてくれている。母の配慮には頭が下がる思いだ。


 これまで気にしたことはなかったが、昔からつむぎは完成された加工食品は買わず、出来るだけ自分の手で作ろうとする努力をしていた。勝手に料理好きなのだと輝夜てるやすは思っていたのだが、いくら料理好きでも共働きで忙しい上に疲れているはずのつむぎが、全くスーパーなどの総菜を買わないのはおかしいことなのだとつい最近気付いたのだ。

 きっかけは電牙でんかび葦成あししげに「毒味をしろ」と言われてことで、つむぎが毎日必死に手作りにこだわっているのは、皇族の夫と息子が危ないものを口に入れないようにという配慮だと分かり、我が家の食卓に並ぶ料理への見方が変わった。


(……でも由理ゆり先生は、コンビニで俺が弁当を買おうとしたのに止めなかったんだよな)


 地下に落下する寸前のことが脳裏に浮かぶ。由理ゆりも〝月族つきぞくの命を狙う種族はいない〟という先入観があるのかもしれない。だから和服の着付けや料理を輝夜てるやすがするのはたしなめても、口に入れる物には無頓着だったのだろう。



 兄の分のサンドイッチは、部屋の前にラップをして置いておいた。心的外傷トラウマを抱えた篁朝たかときが空腹状態に耐えられるはずがないので、多分食べてくれるはずだ。

 ちょっと作り過ぎたかなぁとサンドイッチのタワーを横目に、輝夜てるやす草乃かやの恵兎けいとは食卓を囲む。

 草乃かやのは一口頬張ると「おいしい」と頬を赤く染め、嬉しそうに輝夜てるやすに微笑んだ。「草乃かやのちゃんが手伝ってくれたからだよ」と輝夜てるやすも笑顔を返す。


(可愛いなぁ。下に妹がいるのって良いな。涼柁りょうたさん、羨ましい)


 たわいない会話を交わした後、輝夜てるやすは最近知ったばかりの皇族関連の知識について恵兎けいとに尋ねた。


恵兎けいとさんは神祇官じんぎかんを知ってますか?」

神祇官じんぎかん……ですか? 存じてますが」


 恵兎けいとは目を丸くして、不思議そうに輝夜てるやすを見ると首を傾げる。


輝夜てるやす様は神祇官じんぎかんがどのようなものなのかご存じなんですか?」

「えっと、宮廷で祭祀さいしを司る役職名で、次代の『皇帝』や族長が分かる凄い人、……なんですよね?」

「ええ!? そこまでご存じなんですか!?」


 何故か大袈裟に驚かれて、輝夜てるやすの方こそびっくりしてしまう。


「ゲーム知識程度で……。その、佐由さよしさんのやつに出て来るんです」

「ああ、それで」

「それに、昔会ったことがあって」

輝夜てるやす様」


 恵兎けいとに真顔で言葉を遮られ、輝夜てるやすは思わず口を閉じる。

 恵兎けいとは直ぐに、ふわんとした柔らかい表情を作り、盛られたサンドイッチを見た。


「私達で食べきれない量ですよね。良ければ、外で護衛をしている獣伏じゅうふし殿と水雲みずも殿に差し入れするのはどうでしょう。勿論、その分の食費はお支払いしますから」

「え!? お金なんていいですよ!」


 勢いで固辞したが、共働きをしている水城みずしろ家の経済状況を思い出し、輝夜てるやすの判断で断って良かったのか不安になった。しかしもう断ってしまっている。


「では獣櫛じゅうくし殿の妹君、お2人に持って行って下さいませ」


 草乃かやのがこくりと頷くのを見て、恵兎けいとはササっとサンドイッチを別の皿に分け、草乃かやのに持たせて送り出した。玄関の扉が閉まったのを確認すると、恵兎けいとはずいっと輝夜てるやすに近寄り、小声になる。


輝夜てるやす様。先ほどのこと、人に話してはなりません。私も聞かなかったことに致しますから」

「えっ」

月族つきぞく族長は代々女性がなるものなのです。なのに、神祇官じんぎかんが男性の輝夜てるやす様に会うなんて本来ありえない――いえ、あってはならないことのはずです」

「あってはならない……!? でも、凰十おうとさんが連れて来たんだって――」

「オウトさん……? それは――あの御天日みあめひ凰十おうと『皇帝』陛下……のことですかっ!?」


 恵兎けいとが上擦る声音で輝夜てるやすに問う。

 輝夜てるやすははっと目を見開いた。


凰十おうとさんは男の俺を月族つきぞく族長にしようと考えていた――……? だから俺の前に連れて来たのか……!?)


 男の輝夜てるやすの前に神祇官じんぎかんを連れてくる行為自体が、『皇帝』の異例な意志を内外に示す形になり、実際に輝夜てるやす月族つきぞく族長になれるかどうかという結果の方は特に重要ではなかったのだ。


 恵兎けいとは自身の胸に手を添えて目を伏せた。


「……神祇官じんぎかん様は、よく歴史の節目の前に怪死なさるそうです」

「歴史の節目の前に、怪死……?」


(逆じゃ無いのか……?)


 『かぐや』が言っていたのだ。「神祇官じんぎかんがいない時代は皇族御三家で権力闘争が起こりやすく、世が荒れる」のだと。


宙地原族そらちのはらぞくの御方や皇族家の重臣、皇族家の身内の方にとって、次代の『皇帝』候補や月族つきぞく族長候補として指名されては都合の悪い人物というのがいらっしゃいます。ですから、そんな人物を指名された時、神祇官じんぎかん様は怪死なさるのです。

 神祇官じんぎかん様がお隠れになってしまえば、その言葉は間違っていた可能性もあると有耶無耶にされ、これまでも歴史の中で何度も無かったことにされています。

 〝神祇官じんぎかん様のお言葉〟は、公的の場で発言権はありますが、それはその場でしか通用しないもの。決定権という権力ではありません。あくまで参考の声とされ続けている体裁のため、特に次代の『皇帝』候補の指名後にお隠れになりやすく……」


 恵兎けいとの話に、輝夜てるやすはぞっとして背筋が凍る。


 『かぐや』が今は神祇官じんぎかんがいないと――輝夜てるやすに会いに来た神祇官じんぎかんは多分亡くなったのだろうと告げていた。


(まさか、俺に会いに来たせいで死んだんじゃないよな……!?)


 顔色を真っ青にした輝夜てるやすの前で、不意に恵兎けいとが廊下の方へと視線を向けて長い耳をピンと上に立てた。

 驚いて強張っている様子に、輝夜てるやすもそちらへと目を向ける。



 篁朝たかときが立っていた。



 いつの間にか部屋から廊下に出て来ていて、秀麗な顔をピクリとも動かさずにじっと恵兎けいとを見つめている。


「兄貴……」

「お、おはっ、お初にお目に掛かります、輝夜てるやす様の兄君。獣羽じゅうは恵兎けいとと申します。輝夜てるやす様にお仕えするためあい領地に馳せ参じました! どうぞよろしくお願い致しますっ」


 恵兎けいとは急いで居ずまいを正し、頭を下げて挨拶をした。

 恵兎けいとの挨拶に、輝夜てるやすは「えっ!?」と仰天する。先ほどまで感じていた恐怖がスポンとどこかに飛んだ。輝夜てるやすのために恵兎けいとあい領地に来たという言葉は初耳なのである。


 篁朝たかときはしばらく無言で恵兎けいとを見下ろしていた。

 恵兎けいとはその間、顔を上げない。身体は小刻みに震えていた。

 そのうち篁朝たかときの方が興味が失せたように視線を逸らして、輝夜てるやすに顔を向ける。


「甘い物……」

「あっ。生クリームを挟んだサンドイッチも作って野菜室に入れてるよ」


 冷蔵庫から篁朝たかとき用に作ってあったサンドイッチを取り出して篁朝たかときに手渡す。

 篁朝たかときはリビングの隅に行くとそこに座り込んで、ぼうっと外を見ながらサンドイッチを口に入れていた。

 恵兎けいとは恐る恐る顔を上げて篁朝たかときの様子を窺うと「輝夜てるやす様の兄君のお邪魔にならないように、失礼致しますね」と輝夜てるやすに言って、早々に水城みずしろ家から荷物を持って退散していった。なんだか突然追い出したみたいで申し訳なかったが、篁朝たかときが自室から出て来た以上、あまり他者を家に上げておくのは輝夜てるやすも不安なので助かった。





獣櫛じゅうくし殿の妹君。輝夜てるやす様の兄君がご不快になられる前に、今日はもうご自宅へ戻りましょう」


 獣櫛じゅうくし家の門前にいる獣伏じゅうふし水雲みずもにサンドイッチを乗せた皿を差し出していた草乃かやのは「輝夜てるやす様の兄君」という言葉に少し震えて頷いた。

 獣伏じゅうふしが軽く片耳を上げる。


「その御方も月族つきぞくの御方であらせられるん?」

「いいえ。血縁ですが水族みずぞくの方ですよ。ですがご不興を買うと恐ろしい御方でしょう」


 2人の会話に、口いっぱいにサンドイッチを頬張っている水雲みずもがもごもごと誰にも聞き取れない何事かを長々と語っていた。獣伏じゅうふし恵兎けいと水雲みずもの言葉を聞き取れないまま曖昧に相づちを打って聞き流す。

 会話を終えた恵兎けいと草乃かやのを伴って獣櫛じゅうくし家に戻った。

 それから恵兎けいとは借りているお皿を急いで台所で洗う。


「さて、直ぐに輝夜てるやす様にご返却しなくては」

「わ、私、もっていくん……」


 草乃かやのが背伸びをして両手を出す。

 それを見た恵兎けいとは身体を屈め、草乃かやのの目線に合わせると神妙な表情で草乃かやのに問う。


獣櫛じゅうくし殿の妹君。輝夜てるやす様は地位ある家柄の御方です。地位無き獣族けものぞくの好意は輝夜てるやす様のご迷惑となります。貴女は佐由さよし様に振り回される獣櫛じゅうくし殿を傍で見ていて、何も学ばれていないのですか?」

「!?」


 ビクリと草乃かやのの肩が跳ねる。恵兎けいとに出していた手を震えながら下ろし、ワンピースの裾をぎゅっと握り込んだ。


「皇族家との方々との付き合いは地位が全てです。でなければ周りに潰されるのです。御大にならない獣櫛じゅうくし殿が何故命を狙われるのか、地位も無いのに皇族家に関わっているからです。ご身内の貴女は誰よりも、この事実を受け止めて知っていなければなりません」


「……さ、さよし様は、もう皇族じゃ……ないん」


「いいえ。皇族関係者にとって今でも佐由さよし様は皇族家の御方です。御天日みあめひ凰十おうと『皇帝』陛下の義弟だった数年間と、佐由さよし様の妹君が陛下の婚約者であった過去の事実は消えてなくなりません。それこそ彼が死ぬまでついて回るのです。佐由さよし様が皇族家の末席から完全に消えるのはお亡くなりになった時なのですよ。隠れて暮らしてらっしゃるのはまさしくそれが理由。かの方を皇族家の末席から排除したい御方がいらっしゃいますから」


 じっと震えながら俯く草乃かやのに、恵兎けいとはこんこんと優しく言い聞かせる。


「皇族家と関わるには、最低でも『領王』か族長の地位が必要です。しかし、貴女は猫の獣族けものぞくとして生まれ、桔梗ききょうの『領王』と獣族けものぞく族長である御大には生まれた時からなれない宿命。そして身体能力が優秀なだけの獣族けものぞくが、他領地で『領王』になれるはずがありません。その道が存在する貴女の兄君とは、例え妹でも身分が違う。そんな貴女は、輝夜てるやす様に見返りを求める好意を示してはならないのです」


 草乃かやのの双眸からぽたりぽたりとしずくが零れる。

 恵兎けいとは憂いを含んだ眼差しで、そんな草乃かやのをただ静かに見つめて自嘲する。


「……私も兎の獣族けものぞくとしての役割を知った時は、自分の生まれを嘆いたものです。本来、月族つきぞくの御方の侍従として宮廷で一生を生きるはずが、現代に宮廷はありません。桔梗ききょう領地の片隅で一応は優遇されていますが、そもそもお仕えしていた月族つきぞく自体に皇族としての権力が無かったので、獣族けものぞく内での地位も定義しにくいまま、800年間あやふやな状態のまま据え置かれ、次第に侮られ、煙たがられ――……。皆様、兎の獣族けものぞくのことを無駄飯ぐらいとでも思ってらっしゃると思います」


 草乃かやのが目を見開いて顔を上げた。

 目が合った恵兎けいとは何でもなさそうに微笑む。


獣櫛じゅうくし殿も困った御方ですね。御大になられた方が宙地原族そらちのはらぞく側の不興を買わずに済みますのに。自ら、何もかもを見なければ判断すらしたくないようです。本当に、9年前の翡翠ひすい革命から偏屈で強情な方になられましたわ」

「兄様、やさしいん……」

「ふふ。信じられないかもしれませんが、貴女が生まれる前の獣櫛じゅうくし殿は、もっと淡泊な御方でしたわ。それこそ陛下の命令を遂行するためだけに生きているような人物で、今のような愛嬌あいきょうのある御仁ごじんではなかったんですよ」


 草乃かやのがきょとんと目を丸くした。

 驚きのせいか涙が引っ込んだところを、恵兎けいとが優しく手ぬぐいで頬を拭う。それからお皿を差し出した。


「さぁ、今の話を踏まえていってらっしゃいませ。〝獣櫛じゅうくし殿の妹君〟という地位は、他の方が欲しがっても絶対に得られない立場ですよ。その立場の範囲でご自身に許される距離を考えて下さいませ」

「地位……?」

「ええ。輝夜てるやす様は朝から家を訪ねられるほど、獣櫛じゅうくし殿と懇意にしてらっしゃるじゃないですか。私は今日、貴女の地位を使って輝夜てるやす様と交流しましたよ。気付きませんでしたか?」


 草乃かやのは首をこてりと傾げた。

 「まだ難しいかもしれませんね」と恵兎けいとは苦笑する。


「伝えたい気持ちがあるなら伝えてらっしゃいませ。ただし、輝夜てるやす様からの見返りを求める伝え方をしてはなりません」


 受け取ったお皿を草乃はじっと見つめる。反射して映る浅葱色の瞳と目が合った。

 小さな自分と――。

 ぎゅっとお皿を抱えて、草乃かやのは再び家を飛び出した。



 水城みずしろ家の戸をたたく。

 玄関の扉が開いた。


「あ、草乃かやのちゃん。お皿戻しに来てくれたんだ」

「て、輝夜てるやす様……あの……」

「ん?」

「あのね……っ」


 頬を林檎のように真っ赤に染めて、草乃かやのは一生懸命声を出した。


「おみせがばくはつしたとき、たすけてくれてありがとう……!」

「え」

「まっくらなあなにおちたときも……!!」

草乃かやのちゃん――」

「いつも、いつもわたしのこと、たすけてくれてありがとう……っ!! 輝夜てるやす様はかっこいいん……っ! きっと、きぐに『領王』様もそうおもってくれるん!!」


 草乃かやのの突然の言葉に面食らっていた輝夜てるやすの顔が、一瞬で真っ赤になる。


「ちょっ!? かか草乃かやのちゃん!? あっ! 地下での響華きょうかさんとの話を聞いて……!?」

「わたし、おんがえしっ……したいん! わたしにできること……兄様にたのむことぐらいだけど、でも……こまったこと、いつでもたよってほしい……です!」

「……草乃かやのちゃん……」


 最後は涙声になっていたが、草乃かやのは揺れる瞳でふわりとはにかみながら満面の笑みを輝夜てるやすに向けた。

 輝夜てるやすも笑顔で頷き返す。


「……うん。いつか本当に困った時は頼らせてもらうね。ありがとう」


 草乃かやのはペコリと頭を下げて、輝夜に皿を手渡してくるりと方向転換する。玄関の扉を開けてから輝夜てるやすを振り返ると、笑顔で嬉しそうに手を振った。

 パタンと扉が閉まる。


 手を振り返して見送った輝夜てるやすは、どこか晴れ晴れとしていた。ずっと、もやもやと胸の内にくすぶっていた重たいものが完全に消えている。

 じわじわと胸に広がっていく喜びがあった。


 自分の差し伸べられる範囲で。

 何か種族能力を使ったわけでもなく――そんな手助けが出来ていた。ずっと近くに答えはあったんだと思った。


(ただ機國きぐにさん達に守られているだけじゃなくて、俺だってちゃんと周りの人を守れていたんだ――……)


 輝夜てるやすは照れ笑いを浮かべる。


「……俺、格好良いんだって」


 ぽつりと呟くと、『かぐや』が一緒に笑ってくれた。





                 ◇◇◇





 あい領地本部ビル。事務室の扉をノックして入室した相手に、『三位』水名みずなとおるは目を見開いた。

 つい先ほど、幹部会議室で怒りを見せ、響華きょうかに救出されて去ったはずの電谷でんやが涼しい顔でやって来たのだ。

 彼の姿に、透からあい領地の事務仕事の引き継ぎをしていた『八位』水瀬みずせ英貴ひできが不快げに片眉を上げた。


「よくもあれから直ぐに、顔が出せるものだな」

「……ええ、まぁ。無茶苦茶不本意なのですがぁ、顔を出さなきゃ許可書もらえないっしょ」

「許可書だと」

あい領地をとっとと出て行きますよ。ほとほと愛想が尽きましたっ! 移住するんで身元保証書と領境防壁通行許可書を発行して下さいません? 俺、もうこの領地の電脳技術屋じゃありませんしー、問題ないっすよね」


 英貴ひできはフンッと鼻を鳴らし、書類用紙を取り出す。さっさと出て行けとばかりに手早く書類を作成して署名した。

 電谷でんやは書類を受け取って素早く身を翻す。

 突然のことに固まっていたとおるは、扉の閉まる音を聞いてようやくはっとすると退出した電谷でんやのあとを追った。


「待って下さい、電谷でんや君……! 本気なんですか!?」


 とおるの声に足を止めた電谷でんやが振り返る。

 とおるは、電谷でんやのその振り返り方に少し違和感を持った。立っているだけの姿勢の中にも、自然と背筋が伸ばされた堂々とした所作が見受けられ、気品があるというか――……


「本気っすよ。止めても無駄です」


 とおるの考えは電谷でんやの声に遮られた。いつもの軽い声音は鳴りを潜め、やや低く大人しい口調だが、間違いなく電谷でんや本人だと思える。

 とおるは苦渋の表情で唇を噛み締めた。


「申し訳ありません。君を庇うことすら出来ず、電谷でんや君にそんな決断をさせてしまいました」


 そう言って頭を下げたとおるに、電谷でんやが微かに柔らかく笑った気配が伝わる。


とおる殿は、どの世界でもブレませんね」


 「え……」と声を漏らしてとおるが顔を上げた時には、目の前にいた電谷でんやの姿は消えていた。次元移動をしたのだろう。とおるはまるで白昼夢でも見ていたかのような錯覚をしそうになる。


 ――夢ならどれほど良かったか。だが、現実だ。一生(あい)領地で暮らしていきたいと公言していた電谷でんやに、ついにあい領地を捨てる決断をさせてしまったのは間違いなく水族みずぞく本家ととおるのせいである。



とおる、……つまんない男になったわね』



 脳裏に冷たい真紅の視線が蘇る。

 とおるは苦しくなる胸の痛みに苦々しく歯噛みした。



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