第8話 獣羽恵兎と自宅学習
――『幼く、たった1度のこと。主上は覚えていらっしゃらないですが、10年前……御天日凰十『皇帝』陛下がお連れになった今世の神祇官――亡くなられたであろうかの神祇官様に、主上はお会いになったことがございます』
当時、『かぐや』が言う神祇官は、輝夜を見てもその場では特に何も告げなかったそうだ。彼らは公の場でしか情報を口にしないらしい。単純に、輝夜が月族の族長になれる器ではなかったので何も告げなかったのだと思うのだが、その考えを察した『かぐや』には、即座に否定された。それどころか物憂げに言われる。
『……主上には、ほんの少しでも御身のことを正しく見ていただきたいです』
『かぐや』は今でも10年前の神祇官の顔を覚えているそうだ。もしゲーム内に登場したら教えてくれると言う。
はやる気持ちを抑え、輝夜はメインストーリーを進めるのを中断した。電谷とともに進めようと思ったからだ。街中を散策したり、受けられるサブクエストを触ってみたりしていた。その後、電谷がログイン出来た時間は夜も遅く、輝夜が眠る頃で、結局一緒に遊ぶことは出来なかった。
電谷は明日、学校にも行き、ログインする時間が微妙に合わないという。電谷から、「1人で大丈夫なところは個々に進めていこう!」と提案のチャットをもらい、輝夜の『黄泉オンライン』の初日はそこで終わった。
次の日。
今日も自宅待機の輝夜は、まず早めに起きてお向かいの獣櫛涼柁を訪ねた。朝の忙しい時に迷惑なのは重々承知していたが、早めに行かないと涼柁が出勤して捕まらないと思ったのだ。
(護衛の人、本当に1人もいない)
輝夜は、自宅に誰も護衛が張り付いていない状態を新鮮に思う。お向かいの涼柁の家の門前は、寡黙な和服姿の秋田犬と水族の下位領地ランカーが立っていた。輝夜は2人に挨拶する。
「おはようございます」
「おはようであるん」
軽く頭を下げた輝夜に対して、秋田犬――獣伏武はとても丁寧に腰を折って頭を下げた。輝夜はつい慌ててしまう。横を通り過ぎながら、俺は雑ですみません、と内心で平謝りした。
獣伏の隣に立つ下位領地ランカー、水雲滋の方はうっつらうつらと船をこいでいて返答はない。立って寝ているなんて器用である。これでは輝夜が通り過ぎたのも気付いていないのではないだろうか。護衛としてどうなんだろう。
獣櫛家の玄関チャイムを鳴らすと、中から二足歩行の和服姿の兎が顔を出した。
(ツキちゃん……!?)
御天日凰十『皇帝』の遺品の兎のぬいぐるみにそっくりの獣族だった。輝夜は目を見開き、しばらくくいいるように見つめてしまう。
兎はヒクヒクと忙しなく鼻を動かしながら、にっこりと目を細め、次の瞬間輝夜の前に跪いた。輝夜はぎょっとする。
「お初にお目に掛かります! 獣羽恵兎と申す者です。現在は、獣櫛殿の温情でこの家で家政婦をさせてもらってます。月族の輝夜様に今生で出会えた幸福に、夜空の月へと日々感謝の念を捧げております。どうぞどのような些細なことでも、この恵兎にお申し付け下さいませ」
「は、はい……?」
突然の自己紹介について行けず、輝夜はぽかんと口を開けて立ち尽くした。
(え!? ちょっと待って。この人、俺が月族だって知ってる!?)
慌てふためく輝夜を気にせず、恵兎は跪いたまま、すっと片手を掲げて差し出す。
「お仕えすることを許していただけないでしょうか」
「え? あ、あの……」
「許すと。どうか手を置いて下さいませ」
「えぇえ……!?」
いつまでたっても下げない恵兎の手に、輝夜はパニック気味に触れるか触れないかほどに手を置いた。
「ゆ、ゆるす……?」
すると恵兎は、感極まった様子でボタボタと涙を流し、号泣して頭を下げた。
「ええっ!? あ、あのっ!?」
「ああ、輝夜様……!! 私、誠心誠意貴方様だけを主としてお仕え致します!!」
「エーッ!?」
彼女の話の流れと展開について行けない。輝夜は必死に恵兎に立ち上がるように促した。
「あ、あの! 顔を上げてくださ……っ」
「は?! そうです! 此度はいかが致しましたか、輝夜様!」
恵兎はがばりと顔を上げる。輝夜は思わず一歩後ずさった。既に彼女の顔に涙は無い。この変わり身の早さは一体何なのだ。唖然としつつ、当初の目的を告げる。
「りょ……涼柁さん、は……?」
「獣櫛殿は、病で寝込んでらっしゃるはずです」
(寝込んでらっしゃるはず……?)
妙な言い回しだった。
「そう……ですか」
「伝言はお伝え出来るかもしれません」
「あ。いや、その……ただ、ゲームの話がしたかっただけなので……」
『黄泉オンライン』の涼柁のキャラクター名や所属の団名を聞こうと思ったのだが、今は難しそうだ。また後日でいいかと思い直す。不意に視線を背後から感じて振り返ると、獣伏が目を見開いて輝夜を凝視していた。
「け……恵兎様。今、月族と……!?」
「輝夜様! 良ければ獣櫛殿の妹君に声を掛けて下さいませんか。大好きな兄君と会えず、学校にも行けず、むくれていらっしゃるのです」
獣伏の問いを華麗に流し、恵兎は笑顔で輝夜を縁側へと促す。
輝夜は目を丸くした。
「草乃ちゃんも自宅待機を言われているんですか?」
「ええ。獣櫛殿の具合が良くなるまで、家から出ないようにと獣櫛殿から厳命されています」
「涼柁さんから……?」
輝夜が縁側へ行くと、小さな白い子猫は両耳をぺたりと下げて丸くなっていた。
「おはよう。草乃ちゃん」
子猫姿の獣櫛草乃は、輝夜が声を掛けると自分の毛の中に埋めていた顔を持ち上げ、慌てて立ち上がり「ミャァ」と背筋を伸ばして挨拶をしてくれた。その様子に、恵兎が目を細めてコロコロと笑う。
「まぁ、やっと元気になられましたね! その調子でしっかり朝食も食べて下さいませ。良ければ輝夜様、今日お時間をいただけませんか? 彼女もずっと家にいるのは気が塞ぐのでしょう。遊びに行ってもよろしいですか?」
「草乃ちゃんは、自宅にいなくていいんですか?」
「お向かいは自宅の範疇です! 獣櫛殿の敷地内です!」
「ええ!? ……そ、そうですか……。えっと草乃ちゃん、うちに遊びに来る? いつでもおいでよ」
草乃は小さな尻尾を精一杯嬉しそうに振っていた。そんな草乃と恵兎に会釈して、輝夜は自宅に戻る。通り過ぎる門前で獣伏にまで跪かれ、逃げるように自宅の玄関の扉の中へ身体を滑り込ませた。扉を閉める瞬間、水雲が目を覚ました声がした。「危なっ、寝るところだった。セーフ……!」という呟きに、アウトだったよ! と心の中でつっこみを入れて、輝夜は朝食を食べるためにキッチンへ向かった。
父の朧と母の紬が仕事に行くのを見送って、台所の後片付けとリビングの掃除をし終わってから一息ついた午前9時頃、恵兎と草乃がやって来た。
草乃は人型姿で、小さな背中に大きなランドセルを背負っていた。中には勉強用の筆記道具や教材が入っているという。用が無ければ『黄泉オンライン』をしようと思っていた輝夜は、恥ずかしくなってしまった。
(そうだよな。俺も勉強しないと。復学した時に授業についていけないと困るし)
リビングで輝夜と草乃は、勉強をすることにした。
草乃はリビングに来ると、飾ってあった兎のぬいぐるみと恵兎を交互に見て、大きな浅葱色の瞳をまんまるくしている。やはり誰から見てもそっくりのようだ。
輝夜も自室から勉強道具一式を持って来て、草乃と一緒にリビングのテーブルで問題集を解き始めた。草乃は時々顔を上げては輝夜を見て嬉しそうにはにかむ。輝夜もなんだか、ほんわかと気持ちが温かくなった。
「お2人とも、分からないところがあったらおっしゃって下さいませ。勉学には少々自信がございます」
愛犬ロボットの甲斐が、警戒を解いて恵兎に唸るのをやめた頃、はきはきと恵兎はそんなことを言いながら、ぐるりと水城家を見渡していた。
戸棚の上に置かれた書道具一式に目を止める。恵兎は腰を上げると、うきうきと楽しそうに近寄った。
「まぁ! 書はどこの方に師事されてらっしゃるのでしょう。見てもよろしいですか?」
「書道はいつも火住由理先生に教えてもらってて」
「火住という方ですか。麗しい手並みですね。失礼ですが、輝夜様が何者かご存じの方ですか?」
「知ってます」
「そうですか!」
手本の書を何枚か見て、ほうっと溜息をついた恵兎は、ふと長い耳をピンと上に伸ばした。
「あら……? ですがこの美しい書体、どこかで拝見した覚えが。あの輝夜様――」
「はい?」
「ここにある手本は楷書の社交例文ばかりですが、古代くずし字を〝輝夜〟という名前のみしか練習なさっていないのは何故ですか? それとも他の文字は既に練習が終わっているのでしょうか?」
(カイショ? え、普通の文字のこと? くずし字って、あの読めない上に線で繋がっている文字のことで合っているよな?)
地下運河で、電牙葦成に渡されて読めなかった古文書のことを思い出す。あの時、由理から書道を習っていたおかげで〝輝夜〟の字だけは読めたのだ。
「今のところは、自分の名前だけしか練習してないです」
輝夜の答えに、恵兎は弾かれたように驚いた顔を輝夜に向けた。
「それはつまり、輝夜様は古代くずし字の文章が読めないのではないですか!?」
「え……そりゃ、読めないですけど……」
「月族としての署名はどうなさるのですか? 古代くずし字で署名なさるものは、その本文も全て古代くずし字で記されているはずです。読めないものに了承の署名をなさるのは恐ろしいことだと思いますよ!」
「へ?」
輝夜はぽかんと口を開けた。何を言われているのか、咄嗟に呑み込めなかった。
(月族としての署名……!?)
「それに〝原始星石の盟約〟が読めないのは大変なことではないでしょうか」
「え……?」
「皇帝城の扉が開けられません。月族族長たる者のみが扱う盟約ですが、それでも万が一何があるかも分かりませんし、読める知識を輝夜様も持っている方が良いと思います」
恵兎に真摯に案じる視線を向けられて、輝夜はよく分からないなりに知らないでいることが怖くなってきた。
「じゅ、獣羽さん……」
「恵兎とお呼び下さいませ!」
「け、けい、とさん……は、皇族に詳しい人――……なんですか……?」
「はい! 兎の獣族ですから! 宮廷に関しては一定の見識がございます」
「俺、そんなに勉強した方がいいんでしょうか……? でもどう勉強したらいいかも分からない……」
「お任せ下さいませ! 事典とテキストがございます。7歳の獣櫛殿の妹君もそれで読めるようになったんですから、輝夜様も大丈夫ですよ! 取ってきますねっ」
「うわっ!?」
突然、ガラッと恵兎はリビングの窓を開けたかと思うと、ぴょんと塀を跳び越え姿を消した。何故玄関から出ないのか。突飛な彼女の行動についていけない。
呆然と塀を見ていると、ピンポーンとチャイムの音が響く。玄関から恵兎がにっこりとした笑顔で、再びリビングに入ってきた。
(凄いアグレッシブな人だなぁ……)
恵兎に対して、これ以上の感想がどうしても浮かばなかった輝夜である。
それから数時間。恵兎が持って来てくれた教材とにらめっこしていると、ぐちゃぐちゃと適当に筆を滑らせた線が、次第に一文字一文字の字の羅列に見え始めてきて、輝夜は非常に感動するのだった。




