第11話 胎動のカウントダウン
◇◇◇
海上の小型フィッシングボートは、荒々しい波に激しく揺れていた。
その船に、翡翠領地『三位』ランカーの灰兼思はいる。頭上の曇天に顔を顰め、天候がこれ以上崩れる前に、海上から港に着きたいと思っていた。
これから灰兼は、釣りを楽しむ一般の翡翠領民に扮して中央大陸の他領地へと密かに渡る算段なのだ。
明日には、翡翠領地で〝『領王』制度廃止案〟が執行される。
そんな中、何故灰兼が翡翠領地を離れるのか。
それはひとえに、翡翠領地の『領王』火巻凰十――その正体、御天日凰十『皇帝』の憂いを無くすためだ。
御天日凰十『皇帝』の懐刀、獣櫛涼柁からの連絡が突然途絶えた。
たった半日ほど応答が無いだけなのだが、桔梗領地で何か遭ったのではないかと、御天日凰十『皇帝』が身を案じているのだ。涼柁は緊急時に翡翠領地から脱出する手配や連絡での要でもある。灰兼自身も、彼の安否確認は重要だとは思うのだが――……
(陛下は近頃、電須佐由の機嫌を取ろうとする向きがある。こう言っては何だが、また何か獣櫛様に言付けをさせ、その返答が電須佐由から無いことに焦っておられるのが本心ではないだろうか。……困ったものだ)
佐由はその昔、御天日凰十『皇帝』の義弟だった人物である。
その兄弟期間は短いものだったが、他に兄弟がいない御天日凰十『皇帝』は、彼のことを随分と気に掛けていた。更には先日、内々のことでしかなかった佐由の実妹、電照巫倉との婚約が正式に成り、彼女を1度、太陽族の養女として迎えることが決まったそうだ。そのせいか、御天日凰十『皇帝』は余計に佐由との絆を深めることに重きを置いている節がある。
実の兄のように見られたい――という想いが陛下にはずっとあったようだ。兄弟という存在に憧れがあるのだろう。
近頃は佐由のマウントを取ることに腐心しており、相手が相手だけに灰兼は冷や冷やしていた。端から見る限り、佐由の方は義弟という意識が薄い。赤の他人が権力を振りかざし、嫌がらせをしていると捉えられていてもおかしくなかった。
(身近にいる実の兄弟の見本が、水岐兄弟ではな。まさか兄が弟の人権を握っているのが、普通の兄弟関係だと思ってらっしゃるのではないか。それはないと願いたいが)
桔梗領地の様子を見に行く人物として灰兼が選ばれたのは、ボートを操れる1級小型船舶操縦士免許を持っていたためである。そしてこのフィッシングボートには、翡翠領地『五位』ランカーの雷秀寿が同乗していた。
秀寿は、電脳族の電拳剣族長の天敵である。
もし本当に桔梗領地で凶事が起こっていれば、それは十中八九、剣の仕業のはずだ。雷族の力は、電脳族の次元能力や電脳を阻害する。1番の対抗手段として有益なのだ。
秀寿は、8歳という年齢でまだ幼い。灰兼は大人の責務として、秀寿の安全確保を第一にしなければならないと考える。そのせいか、無事に中央大陸の港に着くために暗い空の様子にばかり気を取られていた。
「ハイカネさん。あれ……なんでしょうか?」
遠方に見える翡翠領地の島の異変に、真っ先に気付いたのは秀寿だった。小さな手が翡翠領地を指差す。
一筋の煙が空高く上っていた。
灰兼は訝る。じっと煙を見つめた。
(火事、か……?)
ぬるく湿った潮風が凪ぐ。揺れる船上で、灰兼は浮かんだ脂汗を腕で拭った。ザワザワと異様な胸騒ぎが身体を蝕み始めていた。
◇◇◇
灰兼は、伏せていた瞼を持ち上げる。
微かな船の揺れに、9年前の記憶が脳裏に思い起こされていた。苦く口角を上げる。嫌な汗を掻いていた。
灰兼は現在自身が居る場所が客船のラウンジだと視線を巡らせて確認する。ふっと肩の力を抜いた。長い足を組み、自らの手元を見る。黒い革手袋を着用した左手の甲を、右手の親指でなぞるように触った。
「氷藤は置いていくのがベストだが、反応を見てみたいな」
「では、新参の私が外されるのですか」
灰兼の目の前にいた女性が、灰兼の判断に片眉を上げる。
葛領地の『四位』ランカーとなったばかりの霧原雹だ。
霧原は先日まで女郎花領地の『領王』だった人物で、霧族の族長でもある。ちなみに、藍領地に渡した要望書にこの事実は書いていない。
灰兼は両手を広げて船内を見渡す。
「ああ。この葛領地を頼むよ」
「信用がまだ足りないという訳でもないようですね。心得ました、お任せを」
2人のやり取りを見ながら、給仕のウェイターは邪魔にならない間を見計らって、紅茶をそそいだティーカップを2人に配る。
霧原は紅茶をひとくち口に含むと、ちらりとサービスワゴンに乗るティーポットを見た。静かに口元から離し、ティーカップを受け皿へと置く。灰兼を見定めるように凝視した。
「桔梗の客人が1人しか戻ってこられませんでしたが、いかがなさるおつもりで?」
「ああ。藍領地からの苦情もない。どうやらこの亡命は御大のご指示のようだ。ふふ、上手いことタクシー代わりに使われたな」
灰兼は余裕の笑みを浮かべてティーカップを揺らし、紅茶が波立つさまを冷たく見つめる。また1つ、小さな計算違いが発生していたことに胸中では微かな苛立ちがあった。
(藍領地――これほど無知で間抜けな田舎領地はないと思っていたが、一体何なんだ? 触り出すと妙にブレる。俺の想定内のことは順調に進んでいるが、同時に突発的な想定外の事柄が目に付く。俺のくだした評価は間違っていたのか?)
藍領地上位ランカーの闇族が入院しているという情報の時から、少し引っ掛かりはあった。ただ、こちらの利になるハプニングだったため、灰兼は流したのだ。
ところがまた想定外のハプニングがあった。
電拳剣族長が、復旧後の藍領地の電脳を乗っ取れなかったのだ。
原因を本人に問い質したが彼は黙秘している。
剣に説明されずとも、灰兼はおおむね理解はしていた。既に藍領地の電脳が剣よりも上位の電脳族の支配下に置かれているということだ。その上位者は、電須佐由だろうとも予想がつく。
そしてこの件は、当初の思惑通りに藍領地の共用の電脳を使用し、大地族側に連絡を入れられたので問題は無い。
……無いが、何とも言えぬ不気味さを、灰兼は藍領地から感じ始めている。甘い目算で、相手の出方を見るまで電脳の乗っ取りをしなかったのは失態だったと思わざるをえない想定外を起こされているからだ。
そして、ここにきての桔梗領地の客人の亡命。本来、桔梗領地とは一切関わりの無いはずの藍領地が亡命先になっている奇妙さ。
こちらは現在藍領地に涼柁が在住してるために起こったもの。桔梗領地のごたごたなぞ、灰兼には無関係ではあるのだが。
そこまで考えて、灰兼は張り付かせていた笑みを引っ込めて真顔になる。灰色の瞳は鋭い光を帯びていた。
(いや、俺もある意味では亡命者の1人。……獣櫛様。貴方が行動を起こしたからこそ、俺も動き出せたんだ。間違っているなら、断罪を行動で叫ぼうと。俺の忠誠の在処を必ず正しき壇上へと――)
ぐいっと紅茶を飲み干す。目を瞠った霧原に向かって、灰兼はティーカップを軽く掲げ、悠然と笑みを浮かべた。
11月13日。
昨日からの曇り空が続き、雨が降りそうで降らない天候だった。おかげでジメジメとした湿気があり、初冬も近いというのに軽く蒸し暑さがある。
輝夜は家の階段に座り込み、酷くぐったりとしていた。決して気温のせいではない。自分のしている格好が輝夜の心を抉るのである。
現在の輝夜は、真っ白で長い髪のウィッグとエクステをつけ、前髪辺りが編み込まれて緩く後ろへ結ばれている。赤い眼鏡を掛け、紺色のミニ丈ツイードワンピースに黒のタイツをはいていた。鏡を覗けば、非常に可愛らしい少女と目が合うという、背筋も凍る心霊現象が起きている状態だ。一体、何の拷問なのか。
(この年になって女そ……いや、変装をするはめになるとは思わなかったよ……!)
輝夜は恥ずかしさに拳を震わせて虚空を睨み付ける。怒りたくても、ぶつける先がないのである。
(まぁ、俺1人じゃないからまだマシだと思おう)
輝夜は上目遣いで1度背後に視線を向けると、情けなくて溜め息を吐いた。
昨日。しばらくして、電谷が再度家に来たのだ。
昨日は携帯や固定電話が通じなかったので、その時は明日の予定をわざわざ教えに来てくれたのだろうと思った。だが、電谷が手に持っていた大量のファッションブランドのショッパーを見た時から輝夜は嫌な悪寒がする。
「やっくん……。明日のことを言ったらもう帰ってくれ」
「ハハハ、てるやん。怖クナーイ、怖クナイヨー」
「怖いよ!」
突然、電谷にがしっと両肩を掴まれた。電谷は普段とは違い、キリっとして真面目なトーンの低い声を出す。
「てるやん、俺がコレを購入する際に、店員さん達にどんなに蔑みの目を向けられたか……っ。全ては、てるやんのためだったんだゼ」
「ええぇ!? そんな俺のせいっぽく言われても困るんだけど!?」
「明日のコーディネートはコレでキメ☆」
「何でやっくんに決められなきゃならないんだよ!」
「実は警備の問題で強制なのデス」
「うっ……」
そう言われると、輝夜はぐうの音も出ない。
すごすごとショッパーを受け取る。とりあえず開いて中身を確認してみると、女性の衣服や靴、化粧品などが入っていた。それを見た瞬間、輝夜は目眩に襲われる。
言葉も無くうなだれる輝夜に、さすがに電谷もまずいと思ったのか、明るくおどけてフォローを入れた。
「大丈夫! 安心安全のリョー様発案、『マスター』も承認済みの変装大作戦だよん!」
――いや、これはフォローではなく、とどめの間違いだ。輝夜は愕然とした。
(俺は、やっぱり機國さんに男扱いされてない……)
輝夜が落ち込んでいると、篁朝が玄関にやって来る。この日の篁朝は随分と意識がしっかりとしていた。輝夜の傍に近寄り、手元を覗き込んだ途端に柳眉を釣り上げたのだ。
突如、玄関が水中に変わった。
「ゴボッ」
「ちょっ!?」
水中で溺れる電谷に、篁朝は冷淡な視線を向ける。
「俺の弟に近付くな」
「うわっ! 兄貴やめて! やっくん死ぬ! 本当死ぬからっ!!」
がぼがぼと空気を吐き出して白目を剥いている電谷の姿に、輝夜は真っ青になって止めに入った。
「頭が変質者の電脳族だぞ」
「え?! いやいやいや、やっくんは兄貴が薦めた涼柁さんの発案で女物の衣装を持ってきただけだからね!? 文句は涼柁さんに言うべきじゃないかなっ!?」
輝夜は必死に電谷を弁護する。
すると、「……獣櫛が?」の呟きとともに、バシャンッと弾ける音がして玄関から水が消えた。水びたしで地面に叩き付けられた電谷から「ぐえっ」と呻き声が上がる。
電谷はしばらくの間そのままの体勢で動けず、ゲホゴホと咳き込んでいた。
少し経ってから、息荒く電谷はよろよろと立ち上がる。
輝夜はその容態を案じた。
「具合、平気……?」
「な、何とか……。せっ、説明を。申し開きを、させて下され……タカ様」
「話せ」
「ははーっ」
何故、時代劇調なのか。大袈裟にひれ伏す仕草の電谷は、それほどダメージもなく元気そうだ。輝夜は胸中でほっと安堵した。
電谷はその場で一回転すると、格好をつけて輝夜を指差す。
「ビシッ! 明日のてるやんは、かやのんなのですぞ!!」
「へ? 草乃ちゃん?」
「そです。〝獣櫛草乃〟として、ハイ様閣下と会いましょー。奇遇にも、てるやんとかやのんは同じ白色の髪なので丁度良い!」
「ええっ、無理あり過ぎだろ。俺、高校生だよ!?」
輝夜の反論に、電谷は不思議そうに首を傾げた。
「てるやんより背の高い小学生、結構おりますことよ?」
「!?」
「そして目の色はこの眼鏡でカバー」
電谷が鞄から取り出した眼鏡を輝夜に掛ける。そして手鏡を出して輝夜に見せてくれた。鏡の中の輝夜は、濃い水色の瞳をしている。草乃と同じ、浅葱色の瞳になっていて驚いた。カラーコンタクトは知っていたが、まさかその眼鏡版も存在していたとは。
「目の色だけ変わってる。どうなってるんだ、凄いなこれ」
「瞳を認証して色を変えてるらしい。眼鏡じゃなくて、機械だからね」
「へぇ。……あ。これ、普段から掛けていた方が良かったんじゃないか?」
「いやいや、普段のてるやんはね、その素の状態が牽制になる効果を狙って……いたはずだったんですが、はて? ま、今はその話は置いときましょ。とにかくその眼鏡と服で、明日1日はかやのんとして生きて下され。上位領地ランカー1人の警護は減りますが、現場にアズ様もおりますしね。わざわざ危険を冒して、〝水岐広早の弟〟を葛領地の方々に紹介宣伝する必要はありませぬ! ……というのがリョー様のご提案」
(確かに。兄貴は〝元・翡翠領地『二位』ランカーの水岐広早〟として会いに行くんだ。〝水岐広早〟は今でも翡翠の人達に命を狙われているはずなんだから、相手がいくら兄貴と翡翠で同僚だった人って言っても、どこで誰が見ているか分からないし、その身内として俺がついていくのは危険かも)
電谷の説明を訊くと、女装の提案にはかなりちゃんとした理由があったようだ。
輝夜は女装を強要されるのは嫌だったが、断る訳にもいかないと思った。輝夜や家族の安全に関わる話だ。観念してショッパーの中を物色してみる。
「……あれ? 何か服が多くない? 明日だけなんだよな?」
まさか数日続くのかと、輝夜は恐る恐る問う。
電谷は困ったように視線を彷徨わせると頬杖をついた。
「あー……。実はその、この作戦には2パターン有りまして。それ用ぉ……。まぁ、そっちは無理カナ? と状況的に思いましたし。触れないで、そっとしておこう」
「話せ」
篁朝の一喝に、電谷は悲鳴を上げる。
「ギエッ!? ……み、水責めしませぬ?」
震え上がる電谷は、チラチラと篁朝の顔色を窺う。余程さっきの水没攻撃が苦しかったらしい。大丈夫だと返答していたが、それは輝夜を気遣ってのことで、やはり溺死寸前だったのではないかと思う。
輝夜は目の前で兄が友人を殺し掛けたと考えるとゾワっと鳥肌が立った。
篁朝は電谷の言葉には応えず、冷ややかな視線を電谷に向けるだけだ。
電谷はごくりと唾を飲み込むと、深呼吸してから口を開いた。
「た、タカ様も変装させた方がイイカナー? かやのんとタカ様が一緒にいるの変だもんネー? な、ハイ様閣下の度肝を抜こうパターンが。こっちは、ただハイ様閣下をぎょっとさせたいだけ作戦。今日のリョー様、凄いキレッキレっすよ」
「獣櫛は、灰兼が俺を囮にして誰を呼び出すと想定していた?」
「えっ」
電谷は目を丸くする。篁朝を驚愕しつつ見つめて、呆然と首を左右に振った。
「あ……え、いや。その、分からないって言ってました、が……」
篁朝はすっと目を細めて、じっと衣服を見つめる。そして静かに「俺も着る」と言ったのだ。
そして現在、輝夜の背後の段差に、輝夜と同じく変装した篁朝が座っている。
青藍の美しく長い髪の上に薄茶色のハットを被り、サングラスも掛け、上品な黒色を基調としたストライプ柄のワンピースを着ていた。まるで女優の休日みたいである。
美人を超越して絶世の美女という言葉が相応しい美しさらしい。2人の髪や化粧を整えた母の紬が、息子2人の化けっぷりに非常に興奮してそう評していた。
篁朝の変貌に「ああ、兄貴って女装すると違和感なく美女になるんだな」と、それほど動揺がない感想しか抱かなかった輝夜は、何か麻痺しているのだろうか。
「こんにちはーっ」
約束の時刻少し前に、電谷が迎えに来た。
階段でふて腐れる兄弟2人の姿を見て固まる。それどころか2、3歩後ずさって背後の扉にドンッとぶち当たった。ビビる気持ちは分かるが、あまり態度に出して欲しくなかったのである。しかも、この変装を薦めてきた本人がその仰天っぷりはいかがなものだろうか。輝夜は地味に傷ついていた。
動揺しまくっているのか、普段より大人しい電谷が、ぎこちない態度で輝夜達を送迎車へと先導してくれる。
輝夜は、やっくんは早く俺達の格好に慣れてくれと内心へこみながら、葛領地『領王』御一行がいるというショッピングモールへ向かった。




