第2話 水族本家の退陣
輝夜は寝不足で朝からぼうっとしていた。
母の紬には「まだ具合が悪い」と言って、今日も学校を休ませてもらう。紬は「仕方ないわね……」と困ったように嘆息していたので、輝夜の嘘はバレているようだった。それでも事情を問い詰めず、輝夜の我が儘を受け容れてくれる両親の優しさがありがたい。
深夜に起きてしまってからずっと、輝夜は電牙葦成との一連の光景を思い浮かべてそれを見つめ続けていた。『かぐや』には話しかける気にもならないので、必然的に強烈だった葦成との会話や前後の出来事について反芻する。輝夜のそんな気持ちを察してか、『かぐや』の方もあれから一切輝夜に話しかけてはこない。
(地下の壁や地面を液体にするのが、俺の本来の月族の力なのかな……?)
しかし、この考えが輝夜にはどうにもしっくりこない。『かぐや』が輝夜の代わりに使う他種族の力を操る能力も、結局のところ輝夜の中から生まれているはずだ。つまりあちらも元々は輝夜の能力なのではないかと思うのだ。
(2つの能力……? まるで俺が電脳族かハーフみた……)
輝夜は、はっとする。何故か自分自身を当てはめなかった事柄に気付き、目からウロコである。
(俺そもそも月族と水族のハーフじゃないか!!)
勢いよくベッドの上で立ち上がる。少し興奮していた。寝不足のせいか、妙なくらいテンションが上がる。考えることが他にあると、気鬱だった輝夜の重い心も少し軽くなっていた。それから目を輝かせてベッドの上をうろうろと歩き回る。
(そうだよ! あの建物を液体にする力、どっかで見たと思ってたんだ……! 人体を液体化する兄貴の力にそっくりだ! 俺、ちゃんと水族の力も持っていたんだよ……っ)
輝夜の脳裏に兄の篁朝の秀麗な顔が浮かび、それに付随して篁朝が力を振るって人体を液体化させたグロテスクな昔の思い出が蘇る。
あれは輝夜が小学4年生の頃のことだ。
ドラッグストアに用があった篁朝を店の外で待っていた輝夜は、気味の悪い中年の男性に突然寄ってこられて手を握られた。とても痛くて堪らず「離して」と輝夜が半泣きになって懇願しても、その男性はニタァと笑うばかりで手を離してくれない。
そこに用事を済ませて外に出て来た篁朝が、中年の男性に問答無用で背後から殴りかかったのだ。中年の男性の身体は篁朝によって液体化されていて、篁朝の拳は、水道の水にさらす手のように意図も容易く男性の腹を貫通して突き破った。
相手の「ギャーッ」と聞いたことのないような絶叫と、輝夜の顔にピシャッとかかった赤い飛沫は今でも強烈に脳裏にこびりついている。
……一応中年の男性は亡くなってはいない、はずだ。重症で病院に運ばれたそうだが。そしてその後を輝夜は知らない。
(多分、あの兄貴の水族の力と同じなんだ。俺はそれが人体じゃなくて物になっているのかも)
思えば、地下で梨の入った袋を持った時からおかしかったのだ。まるで重さを感じなかったのだから。でも、単純に水族の力だという考えには疑問が残る。
(コンクリートとか、建物って水分あるのかな?)
ひょっとしたら、水族の力の特性ではあってもその比率は月族に傾いていて、先日輝夜が発現した力は、水族の特性を持つ月族の力でしかないのかもしれない。自在に対象を操るという月族の――……
そこで地上の惨状を思い出した輝夜は、また落ち込んだ。
道路や建物を液体化させて壊し、あまつさえ、その力がコントロール出来ずに『領王』の機國敦美に迎えにまで来させたのだ。ただでさえ普段から護衛などで面倒を掛けているのに、更なる厄介ごとの種だと思われたのではないだろうか。申し訳ない上につらくて堪らない。
(いくら機國さんが俺を恩人だって思ってくれていたって、許容出来る限度がある……)
もう既に嫌われている可能性が脳裏をよぎり、輝夜は力なくへたり込んだ。それほど、あの時輝夜が見た地上は酷い状態だったのだ。あれを引き起こした輝夜は、いくら人が住んでいない区画で領地ランカー達に罪には問われなくても完全に悪人だった。
葦成が全てを元に戻してくれた時、輝夜は心の底から安堵したのだ。あの瞬間、彼は間違いなく輝夜の救世主だった。
恐ろしい目に遭わされ、殺害予告や怨み言さえ一方的に突きつけられた相手だったというのに、不思議なほど今は葦成に対して感謝の気持ちしか湧いてこない。何より誰も教えてくれなかった『かぐや』の危険性を教えてもらった件もある。
(人殺しを楽しんでいる奴に安心しているなんて……俺はもう、どこかおかしくなってるかもしれない……)
これも『かぐや』の影響なのかと不安が込み上げてくる。下手をすると、自分自身の感情すら疑い始めてしまう。
その考えを振り払いたくて急いで思考する矛先を変えた。
(電牙って何者なんだろう)
電脳族扱いされている大地族らしいが、恐らく種族の族長になれるほどの種族能力を持っているのは明らかだ。何故、そんな人物を大地族が迫害しているのか。理由が分からない。
突然、ピンポーンと玄関チャイムの音が鳴った。
平日の11時頃に一体誰だろうか。輝夜は首を傾げながら自室を出て1階に下り、玄関の扉を開ける。
目の前には、藍色の髪と眼鏡の奥には水色の瞳を持つ神経質そうな青年が立っていた。
藍領地『三位』ランカーの水名透だ。
「透兄!」
「おはようございます、輝夜君」
「てるやん、俺もおりますよっ」
輝夜の友人、電谷も隣に並んでいて、2人の姿に輝夜は顔を綻ばせる。
「わっ、どうしたの2人とも?」
「どうしたのって……輝夜君、元気そうで良かったです。僕達も、今日は仕事があって欠席しているんですよ」
透が眼鏡のブリッジを人差し指で上げながら苦笑した。
仮病で学校を休んだ輝夜はその指摘にはっとして、ばつが悪そうに視線を逸らし口を尖らせる。
電谷は丸い目をくりっと丸くして輝夜を茶化した。
「フフフ……! おぬしも悪よのう!」
「黙って下さい、電谷君」
「突然何で!?」
透に冷たくあしらわれ、「鬼ちーくぅ眼鏡ぇーあぁー」と電谷が小声で歌い出した。何故かミュージカル調である。
透は歌う電谷は無視して、輝夜に気遣わしげな視線を向けた。
「……貴方を色々大変な目に遭わせてしまいました。僕の不徳ですから、輝夜君が復調した様子が見られただけでも安心できます」
(まだ気持ちは空元気、な感じだけど)
内心ではこっそりとそう思いながらも、輝夜は努めて明るい表情を作った。
「そんな。別に透兄のせいなんかじゃないよ」
透は輝夜の言葉を制するように静かに首を横に振る。それから話題を変えた。
「篁朝さんの顔も見たいです。上がってもいいですか?」
「うん」
「てるやん、俺も良い?」
「え、やっくんは……うーん……」
「てるやん!? その微妙に俺だけ渋る感じ酷くない!?」
「ご、ごめん。でもその、やっくんは身内じゃないから、家に入れても大丈夫かなって……兄貴がね、気になって」
「あ! そっか、タカ様ね。うーむ……確かに俺は異物っすよね」
透は水族で血の繋がった親戚でもある。篁朝も輝夜も、透とは子供の頃から見知った間柄なので、篁朝は透が家に上がっても気に障ることはないだろう。
だが赤の他人の電谷に対してはどんな反応をするのか予想が出来ないのだ。ましてや今の篁朝は、常にどこかを彷徨っているような心ここにあらずといった状態で普通ではない。
「やっくんは、兄貴が居るリビングに入らないなら大丈夫だと思う」
「テリトリー外に居ろってことっすね。了解っす」
2人に来客用のスリッパを出し、リビングへと案内する。
リビングでは、篁朝が窓際の壁にもたれ掛かって座り、ぼんやりと窓の外へと顔を向けていた。
(え?)
一瞬、篁朝が窓ガラス越しにリビングへ来た輝夜をしっかりと意志のある目で一瞥した気がした。
輝夜は目を瞬く。再度見直した時には篁朝は虚ろな眼差しで庭を見ていた。
(気のせい……?)
「ワンワン!」
「甲斐」
子犬のロボットの甲斐が小さな黒い尻尾をブンブンと振って輝夜の足下に纏わりつく。顔や身体を擦りつけて嬉しそうに輝夜の周りをぐるぐる回っていた。
「わっ、テンション高いっすね。可愛いなぁ。こっちおいでー」
電谷が廊下から身体を屈んで両手を広げる。
だが甲斐は見向きもせずに輝夜の足下から離れない。電谷に「ウーッ」と唸り始めた。
「む。嫌われたかね。俺ってば動物には好かれるタチだと思ってたんだけども、ガックシ」
「甲斐はロボットだから、俺との関係を学習するまでは、やっくんには警戒し続けるよ。もうちょっと待って」
「ほう! ロボット! メーカーはどこ産?」
「昔、機國さんに貰ったんだ」
少し照れながら輝夜は敦美の名前を口にする。その途端、電谷は「ぐわっ! ここにも選ばれし一点物を手に入れし者が!」と謎の叫びを上げた。
透はリビングに入ると膝をついて篁朝へと声を掛ける。
「おはようございます、篁朝さん」
「……」
篁朝から返答がない。美麗な横顔からは感情が抜け落ち、ぼうっと庭の秋桜が揺れる様を見つめているようだった。輝夜は透のかたわらに座ってフォローを入れる。
「ちょっと前までは、ずっと寝転んで天井を見てたんだ。でも今は起き上がっているから、ちょっとずつ良くなっているんじゃないかなって思うよ」
透は軽く考え込んでから、輝夜へと苦笑顔を向ける。
「輝夜君は、篁朝さんが治ることを反対していたんじゃなかったんですか? 精神不安が治れば水族族長の養子に盗られるんじゃないかって、いつも水族本家を気にしていたでしょう?」
「……あ、うん。でも、それとこれは違うって言うか……」
(――兄貴が治らないと宙地原世界が水没するかもしれない……。少なくとも佐由さんはそんな世界を知っているんだ。透兄、俺が治って欲しくないなんて我が儘を言っている場合じゃないんだよ)
透は篁朝のことを地上最強の能力者だと言っていても、全領地を水没させるほどの力を持っているとは考えていないように思う。いや、それは透だけではない。水族本家も、両親も――篁朝を知る誰もがそう思っているはずだ。
でも電須佐由と輝夜だけは、篁朝にその力があると考えている。その強大な力があるからこそその力を発動させない、理性的な思考のブレーキが必要なのだ。今の病んだ篁朝はそのブレーキが壊れている。
「考え方を変えてみてはどうでしょう?」
透の声に、輝夜は意識を引き戻される。
透が優しく輝夜に微笑んだ。
「僕が篁朝さんの弟に。そして輝夜君の兄に。兄弟に1人加わるのだと思ってみてはどうですか。僕は輝夜君とは同い年ですが僕の方が早く生まれていますし、ずっと「透兄」って呼ばれていますから、僕も輝夜君が弟になることに違和感はありません」
「透兄が、兄貴になるだけ……?」
「はい。何も篁朝さんを輝夜君達から引き離して、水族本家屋敷に住まわせるという訳じゃないんですよ。戸籍だけ水名家に養子縁組をして、次期水族族長候補になれる道を作るだけです。養子になっても、ずっと輝夜君の家族としてここで暮らして下さって構わないんです。……もっと早くに、輝夜君にはきちんと話しておくべきでしたね。それでも反対ですか?」
「……ううん」
輝夜の控えめな賛同の応えに、透は安堵して顔を綻ばせた。
「でも透兄は、水族族長になれなくてもいいの?」
「おや、輝夜君。僕は篁朝さんが養子縁組で次期族長候補になれるとしか言ってませんよ。僕は対抗馬が篁朝さんでも負けるつもりはありません。全力で競うつもりです」
透の、わざとコミカルに誇張した自信満々な表情に、輝夜は釣られて笑った。作り笑顔ではない、本当の笑みが零れる。
「では、無事2人の顔も見られましたし、あまり長居してもなんですから、この辺でお暇しますね。電谷君もいいですか?」
「はいなー。俺もてるやんの元気な顔を見に来ただけなんでっ」
電谷は屈託なくニカッと笑う。
輝夜は透と電谷にとても心配を掛けていたのだと気付いた。申し訳ない気持ちが半分、心配してくれることが嬉しく思う気持ちが半分で面映ゆい。
「……ありがとう」
小さな声で呟いた言葉は、2人の耳にはちゃんと届いたようだ。
透は笑顔で頷き返してくれて、電谷は照れ笑いを浮かべながら、あらぬ方向を見て口笛を吹く。
輝夜は2人をはにかんで見送った。
水城家を出た透と電谷は、連れ立って藍領地本部ビルへと向かう。
電谷は弾む声で透に話し掛けた。
「いやぁ、ナー様って、てるやんのお兄さんになるんっすねー」
「……夢の話です。昔に、そんな未来もあったというだけの話ですよ」
「はい……?」
透の暗い声音に電谷は驚く。狐につままれたような顔をして、ぎこちなく透に訊ねた。
「……えっと、タカ様は次期族長候補ってやつっすよね? なのに、水族族長の養子にはならないコースなんでしょーか?」
透は頭上の空を仰ぎ、漂う雲を険しく睨み付けた。
「水名族長は、水族族長の座を別の姓の家に譲ることになりました。水名姓の者は、族長職から退きます」
電谷は目を瞠った。声も無く、呆然となる。
透は硬く平坦な声音で話し続けた。
「これから引き継ぎで忙しくなります。電谷君にも協力してもらうことになるでしょう」
「……何で……」
「僕の失態です」
透は苦しげに吐露すると俯く。自嘲を滲ませて口角を上げた。
「僕はね、電谷君。自分は優秀な部類の人間だと思っていたんです。どんなことでも卒なくこなせる自信があったんですよ。水城家を藍領地に受け容れる采配の大役を立派にこなし、この藍領地で最も偉く賢い人間であると、本気で思っていたんです。
……ですが結果は散々なものしか手に入りませんでした。何より予定外のことが起こると立ち止まり、身動きが取れなくなる自分自身の機転の無さを――人の上に立つには重大な欠点があることに気付いてしまったんです」
電谷は必死に口を閉じて、ぶすっとしている。
真面目な時は空気をしっかり読んで発言を控える彼の美点を、透は好ましく思う。電谷はそれだけ賢いのだ。自分にはない賢さだと透は密かに自分自身に悪態をついた。
「僕の父も愚鈍で決して機転が効く人間ではないのですが、決断は迷いません。そして現在の水族の中では篁朝さんを除けば、最も強い能力者です。水族族長として恥ずかしくない裏打ちされた力を持っています。
ですが、息子の僕は能力は頂点に立つほどでもなく、何より失態続きで……決定的だったのが3日前の爆破の件でしょうか。捕らえていた電牙葦成に与する水族の2人を父が独断で逃がしました。そのことについて一族内から反発の声が上がり、それが大きくて水名家は族長職を退くことになったんです」
「……次の族長は」
「水瀬家です。『八位』の水瀬英貴の家といえば分かりますか?」
ひゅっと、電谷は息を止める。
顔色をなくした電谷に透は怪訝そうに眉を潜めた。
「電谷君?」
「えんがちょー……」
「は?」
電谷の妙な受け答えに透は顔を顰める。
「……? それで、彼が次期水族族長候補になりますから、電谷君もこれからは彼に協力をして下さい」
「い、いやぁー、セッ様なら確かによく知ってますけれども……。つ、つまりタカ様は水瀬家の養子にシフトすると??」
「いえ、養子縁組はもうしません。現実的に見て、篁朝さんの快気は望みが薄いというのが水瀬家の判断です」
「じゃあ、ナー様は!? 水名家はこれから……」
「来年には藍領地から出ます。引っ越し先はそれほど遠くはないんですよ。藍領地の隣の露草領地ですから」
「ギエッ」
「……は?」
「す、すみません。ちょい精神的負荷が……ぐふう……っ。え! じゃあナー様は上位領地ランカーですから、そのままだと他領地には行けないっすよね。まさか順位を返上?!」
「水族の総意として、来年闘技大会を行う予定なんです。僕はその闘技大会には出場しません。その後なら順位も関係なくなります」
「闘技大会……開くんですか……」
「闘技大会開催の条件は揃えられます。来年で前回から10年経過となりますし、『領王』様もしくは上位領地ランカー2人の賛同署名の条件もクリア出来ます。僕達水族の――『三位』と『八位』の署名があれば、『領王』様の意向抜きに開催は可能ですからね」
「今月と12月と13月が終われば来年……。3ヶ月後っすか」
「忙しくなりますよ、電谷君」
「ナー様は、本当にそれでいいんデショーカ?」
電谷の声音が珍しく尖っている。
透は目を丸くした。
「もしかして怒っているんですか?」
「――藍領地を愛する俺にとっては、裏の支配者が変わるってのは結構な死活問題っすから」
「水瀬君も立派な人ですよ。大丈夫です」
「……えんがちょ」
「電谷君、ふざけないで下さい」
「すんませーん」
何故か不服な態度を崩さない電谷に透は眉根を寄せる。透が腹を立てて口汚く罵っても、電谷は今までこんな相手に見せつけるようなやさぐれた態度を見せたことはなかったはずだ。透は戸惑いながら訊ねた。
「電谷君。まさか水瀬君が嫌いなんですか」
「アンマリ」
「僕よりもですか」
「俺、ナー様はかなり好感度高いんで比べられても困りマス」
「えっ。僕が、高いんですか……?」
「そんな驚くことっすかね。なかなか言えませんよ。自分を蹴落とす相手を「立派な人」だなんて。ナー様は意識高いだけじゃなく、ちゃんと人の上に立てる素晴らしい素養の人だと俺は思ってますからネ!」
「電谷君……」
透は電谷の言葉をかみ締めるように口を閉じると、寂寥の滲んだ満面の笑みを零した。
「その言葉がこの1ヶ月で得た、僕の功績なんですね」




