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眠る月の皇子  作者: 古波萩子
第1章 地底へのいざない
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第7話 闇の中へ

 水城みずしろ家リビングの壁かけ時計の短針が、9時を指す。

 輝夜てるやすは大きな白練り色の瞳を不安に揺らして、仰向けで寝ころぶ兄・水城みずしろ篁朝たかときの端正な横顔を見つめていた。


(兄貴……、一睡もしてないんじゃないかな……)


 篁朝たかときは、昨夜から天井を見つめたまま微動だにしない。

 いつまで経っても変化のないうつろな藤色の双眸が、輝夜てるやすの不安を煽り続ける。


(母さん達は軽めの薬に変えただけだから大丈夫だって言うけど、俺には全然大丈夫に見えないよ)


輝夜てるやす、そろそろ着替えなさい。先生が来てしまうよ」


 父・水城みずしろおぼろは、兄の傍から一向に動かない輝夜てるやすの様子に困った表情で眉根を下げた。


 本日、おぼろ輝夜てるやすはそれぞれ会社と学校を休んでいる。

 昨日自宅周辺の不審者捜索が空振りに終わり、今日は通い先の捜査をすると水名みずなとおるに言われたのだ。安全が確認されるまでしばらくは自宅待機である。


 輝夜てるやすおぼろに促されて渋々と立ち上がった。足元では子犬ロボットの甲斐かいが尻尾をはち切れんばかりに振って、輝夜てるやすの周りをぐるぐると回って歩き、無邪気に『わんっ』と鳴く。

 輝夜てるやす甲斐かいを持ち上げて、篁朝たかときの傍へと置いた。離れる際に頭を撫でると、甲斐かいは笑顔で篁朝たかときに寄りそうように身体を密着させ、ぼてっと隣に寝転がる。


「……誕生日、おめでとう……かぐや……」

「え?」


 驚いて振り向くと、篁朝たかときは天井から視線を外してラックの上にある兎のぬいぐるみを見つめていた。まだ何か言うだろうかと、輝夜てるやすは続く言葉を待ってみる。

 しかし篁朝たかときはそれ以上何も喋らなかった。諦めて、輝夜てるやすはリビングを離れる。


(兄貴は今、9年前にいるのかな……)


 ぼんやりとそう思いながら、洗面所で白色の長襦袢に袖を通す。外から扉がノックされた。


「少しいいかな、輝夜てるやす

「あ。うん……」


 おぼろが入ってくると思って輝夜てるやすは手を止める。だが、おぼろは扉越しに話し始めた。


輝夜てるやすは、篁朝たかときを今の薬で治療することに反対なのかい?」


 突きつけられた問いに、輝夜てるやすはひゅっと息を呑む。背筋を冷えた汗が伝った。

 頭の中では直ぐに「そんなわけない!」と否定していたが、実際に口から出たのは肯定の本音だった。


「だって、兄貴苦しそうじゃないか! 前までの薬でも段々よくなってきていたのに。無理に治そうとしなくても、時間が経てば自然に治るかもしれなかったんじゃって思うんだ……!」

「前の薬は時間を止めていただけなんだよ。何も思い出さないように、篁朝たかときの思考を阻害していた薬なんだ。ずっと逃げ回らなければならなかったから、篁朝たかときが冷静に動けることを優先したもので、これまでは治療とは名ばかりの薬を飲んでいただけだよ。篁朝たかときは普通になっていたように見えたけれど、決して正常な状態ではなかったんだ」

「で……でも」

「私達がいつまで篁朝たかときの面倒を見られるかわからない。篁朝たかときを治さないと、将来困るのは輝夜てるやすだ。一生大変な状態の篁朝たかときの面倒を見続けられないだろう?」


(別に……俺は兄貴の面倒をずっと見たって構わない)


 憮然ぶぜん輝夜てるやすはそう思う。

 その胸中を察したのか、おぼろは優しい声音で言いつのる。


輝夜てるやす、心配しなくても大丈夫だよ」

「え……」

「たとえ治っても、昔の篁朝たかときには戻らない。輝夜てるやすと仲良く暮らした9年間の時間があるんだよ。もう輝夜てるやすに暴力を振るう篁朝たかときはどこにもいないから」


 輝夜てるやすは頭から冷水を浴びせられる心地がする。ずっと考えないようにしていた恐怖を目の前で形にされて凍り付いた。心臓が嫌な早鐘を打つ。


「もし万が一、篁朝たかときが変わっていない時は今度こそ私が止める。だから安心してほしい」

「だ、だけど父さんは皇族の……育ちだし。そういうこと、よくわからないだろ……。無理しないで」

「いや、一般家庭の兄弟の喧嘩がわからなかったとはいえ、目の前で暴力を受けて泣いていた息子を助けなかった私は父親失格だった。皆が頑張って今の穏やかな家庭を作っているのに、私だけが育ってきた環境を言いわけに何もしないなんて駄目だろう。今度こそ、父親として輝夜てるやすを守らせてほしい。頼ってくれていいんだよ、輝夜てるやす


 輝夜てるやすの鼻の奥がつんとする。気付けば輝夜てるやすの瞳は潤んでいた。涙もろいところもどうにかならないだろうかと、頭の隅で冷静に思う輝夜てるやすがいる。情けなくて格好悪い。

 右腕で涙を拭い掛け、着物の着付けをしている途中だったと思い出してぐっとこらえて壁かけのフックに掛かったタオルで顔を拭く。

 その間に、おぼろが静かに遠ざかる足音がした。

 輝夜てるやすおぼろがもう扉の向こう側にいないと知りながら、


「ありがとう、父さん」


 直接告げるには照れくさい感謝の言葉を、素直にそっと呟いた。




 あい領地で定住することが決まってから、輝夜てるやす水族みずぞく本家のすすめで書道の習い事を始めた。通い教室ではなく、家庭教師のように書道の先生が水城みずしろ家にやってくる。今日も学校を休むならと、書道の先生が来訪する予定だ。

 輝夜てるやすの習う書道は、少々普通の書道とは毛色が異なる。

 着物の着用が必須で、内容は挨拶状や祝い状、礼状、見舞い状にお悔やみ状など、普段輝夜(てるやす)が使う機会は全く無いと思われる社交の文例文章を、着物を汚さず、綺麗につづれるように練習するのだ。

 特に〝輝夜てるやす〟という自分の名前を書く練習が重要視されており、一定水準の文字が書けないと、その日の書道の時間が終わらない。


「おはようございます。遅くなりましたわ」

「おはようございます、由理ゆり先生」


 輝夜てるやすの書道の教師である火住ひずみ由理ゆりという妙齢の女性は、玄関先でゆったりとお辞儀をする。ベージュの縞柄の単衣ひとえ御召おめし縮緬ちりめんの染め帯を合わせた着物姿で、紅梅こうばい色の髪を後ろへ結い上げてまとめていた。

 品のある顔を上げた由理ゆりは、藤紫色の目を見開く。


「まぁ、お支度が……」

「今日は母さんがパートに行っていていないし、俺が1人で着付けたんです」


 輝夜てるやすは胸を張る。

 今、輝夜てるやすが身につけている着物は後ろの部分が長く、細かい飾りが多い。〝束帯そくたい〟と呼ばれる昔ながらの着物らしい。輝夜てるやすが和服売り場で見かけたことがない代物である。

 毎回書道のたびにつむぎに着せてもらっていたが、1人で着付けられるに越したことはないと思い、着方を覚えたのだ。自分で着られるとおぼろにも言ったら「輝夜てるやす、凄いじゃないか」と破顔して褒めてくれた。

 勿論、由理ゆりにも褒められるだろうと思っていたのだが、由理ゆり輝夜てるやすを見て頬に手を添え、困惑した表情である。


輝夜てるやす様。貴方様は着付けなど覚えなくてもよろしいのです。お忘れくださいませ」

「え!?」

「今まで通り、つむぎさんに。つむぎさんがご不在の際はわたくしが行いますので」


(エェー……。俺の努力って余計……?)


 輝夜てるやすは、しょんぼりと肩を落とした。意気消沈しながら、客間でしずしずと書道道具を用意して習字を始める。


輝夜てるやす様。文字に元気がありませんわ。誰にでも失敗はあります。お気になさらずとも、次に生かせればよいのですから」


(いや、失敗ってそんな……。俺、できることが増えたのに)


 ふわりと柔らかな気遣う笑みを浮かべる由理ゆりとの間に、とても常識面で深い溝を感じた。

 由理ゆりは一般人だとは思えない。水族本家から素性に関しては一切教えてもらえないが、皇族に――火族ひぞくだが、月族つきぞくに縁のある人物なのだろうなと輝夜てるやすは予想を立てている。


(うーん、文字に元気がない……か。確かにいつもより勢いがない感じかなぁ。でも俺、いつも無心で書道をやっているわけでもないんだよな)


 輝夜てるやすにとっては考え事をじっくりする時間だ。墨のにおいも何だか落ち着く。


(携帯電話のこと、父さんも母さんも詳しく知らなかった。とおるにいもうちの家が使う電脳ネットを管理する電脳族でんのうぞくが誰かなんて知らないそうだし……。逆に驚かれたんだよな。水族本家は佐由さよしさんがやってくれていると思っていたみたいだから)


 9年前から使用している水城みずしろ家の携帯電話。おぼろいわく「御天日みあめひ凰十おうと『皇帝』陛下が用立ててくださったもの」だそうだから、家族内では電脳回線を管理する謎の電脳族は危険な人物ではないという結論なのだが、やはり気になる。


(一体誰なんだろう)


 ふと、電谷でんやには佐由さよしではないと断言しておくべきだっただろうかと思う。電谷でんやならこの謎の電脳族の正体に心当たりがあったかもしれない。


「今日はここまでにいたしましょう」


 由理ゆりの言葉に、意識を引き戻して手を止める。

 時計を見ると13時でお昼を回っていた。時間はあっという間に過ぎている。

 硯など道具を片付けた後、由理ゆりに長襦袢までで脱がされる。着物を全て脱がされるわけではないが、相手は女性なので、輝夜てるやすは物凄く気恥ずかしい思いを毎回している。

 由理ゆりが和装ハンガーに着物を吊るしているうちに、急いで洗面所に行って洋服に着替え始めた。

 そのうち廊下から「おぼろさん!? 何をなさっているの!?」と由理ゆりのすっとんきょうな声と「昨夜、獣櫛じゅうくしさんに梨を沢山いただいていたのです。由理ゆり様にもおすそわけいたします」という、おぼろのおっとりとした会話が聞こえた。


(あれ? 父さんが由理ゆり先生に〝様〟付けだ。敬語を使っている?)


 不思議に思いながら廊下へ出ると、由理ゆりが真っ青になって台所の方を凝視している。視線の先には、おぼろが右手に梨を、左手に包丁を持っている姿があった。


「父さん!? おすそわけに包丁いらないよ!?」


(ひぃぃい!! 何で梨をむこうとしてるんだ!? 父さんに包丁触らせたなんて母さんに知られたら俺が無茶苦茶怒られる!!)


 すると、おぼろは微笑んで輝夜てるやすに訂正する。


輝夜てるやす、包丁はおすそわけに使うんじゃないよ」


(じゃあ何で持っているんだよ!?)


「昼食がまだだろう?」

「そ、そうだね! 俺が作るからさ、父さんは座ってて!」

輝夜てるやす様が!?」


 今度は由理ゆり輝夜てるやすにぎょっとする。

 由理ゆりの反応に輝夜てるやすはびっくりした。


(料理もしちゃ駄目なのか!?)


 両親が共働きなので、昔から輝夜てるやすは家事を多少はしてきたし、簡単な料理ぐらい作れる。決まった時間にご飯がないと、篁朝たかときが監禁されていた時の恐怖を思い出してパニックになり水没攻撃で暴れるのもあって、自然と身についたのだ。

 そこまで考えて篁朝たかときの様子を見る。

 篁朝たかとき輝夜てるやすがリビングを離れた時から動いておらず、ぼうっと天井を見ているままだ。

 うつろな状態だが取り乱す兆候もないようで、輝夜てるやすは安心した。


「兄貴はもうご飯を食べたんだね」

「いや、まだだよ。実は朝もまだなんだ。だから少し強引に、篁朝たかときにご飯を食べさせようか。これからゆっくり一緒に食べよう」


 おぼろの返答に、輝夜てるやすは目を丸くする。今までにない兄の様子に、また不安がぶり返してきた。

 おぼろ篁朝たかときが必ず快方に向かうと信じているようだが、輝夜てるやすはまだ半信半疑なのだ。


(本当に、兄貴はつらい記憶を乗り越えられるのか?)


 忘れたくても忘れられない苦しい記憶なら、きっと誰にだってある。本人の意思を無視して、勝手な都合で無理やり治療を強制しているように思えて胸が痛む。

 輝夜てるやすは口を引き結んだ。もやもやとした後ろめたさが胸中に広がっていた。




 それから、輝夜てるやすは料理をしないように由理ゆりにたしなめられたので3人分の昼食をコンビニに買いに行くことになった。

 由理ゆりの迎えもコンビニ前の大通りに来るらしく、共にそこまで歩く。

 今日の輝夜てるやすの護衛は、初対面の上位領地ランカーだった。

 可愛らしい顔立ちの少年で、濡羽ぬれば色の髪と暗黒色の瞳に、あい領地の電脳ネットで公表されている階級順位表ランキングを思い出す。確か、上位に珍しい闇族やみぞくの少年が1人いたはずだ。彼がそうなのだろう。

 彼の少女のような容姿に、俺みたいな奴ってそれなりにいるんだなと、妙な安堵感と仲間意識が芽生えた輝夜てるやすだ。

 由理ゆりと歩きながら、とりとめのない話をする。

 しかし、輝夜てるやす由理ゆりの代わりに持つことを固持した梨の袋が想像していたより重くて、そちらに何度か輝夜てるやすの意識が引っ張られる。

 腕力作りに一役買えばと、甘い考えを持ったのが間違いだったのだろうかと後悔してしまう。軟弱なことに、輝夜てるやすの腕はもう痺れてきている。胸中でコンビニに早く着くことを渇望し始めていた。

 そのため、目指すコンビニが見えると輝夜てるやすは目を輝かせた。


(助かったー! って、草乃かやのちゃん?)


 コンビニの前には、輝夜てるやすの学校の方角をじっと見つめる草乃かやのがいた。ランドセルを背負っているが今日は午前中で授業が終わったのだろうかと、草乃かやのの姿に輝夜てるやすは首を傾げる。

 今日の草乃かやのは、昨日の秋らしい大人しい色合いとは異なる赤いワンピースに、真っ赤なリボンでポニーテールを作っており、とても気合いが入っているように見受けられた。


「こんにちは、草乃かやのちゃん。誰かと待ち合わせ?」


 輝夜てるやすが背後から声をかけると、草乃かやのはビクリと肩を震わせる。

 草乃かやのは振り向いて輝夜てるやすを瞳に映すと、零れんばかりに大きな浅葱あさぎ色の目を見開いた。それから、先ほどまで見つめ続けていた方向と輝夜てるやすの顔を交互に何度も見返す。


輝夜てるやす様、きょうはおやすみなん……?」

「うん。草乃かやのちゃんは学校早く終わったんだね」

「う、うでずもう……ごめんなさい……」

「へ?」


 一瞬何を言われたのかわからず、輝夜てるやすはぽかんとした。しかし、草乃かやのがうつむいて震える姿にハッとする。


(俺、こんな小さな子に凄く気をつかわせている!?)


「気にしないでいいって! えっと、そうだ! 次はきっといい勝負になるよ。俺、鍛えるんだから。再戦してくれるよな!?」

「……輝夜てるやす様……。は、はいっ」


 嬉しそうにはにかんだ草乃かやのに、輝夜てるやすは胸を撫で下ろす。

 ――その瞬間だった。

 


 ドゴォンッ!!



 強烈な爆音が耳に入ったと同時に、ぐらりと身体がかたむいた。

 奇妙な浮遊感に、足元の地面が消えたと脳が認識する前に、輝夜てるやすは闇の底へと落ちていった。

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