第7話 闇の中へ
水城家リビングの壁かけ時計の短針が、9時を指す。
輝夜は大きな白練り色の瞳を不安に揺らして、仰向けで寝ころぶ兄・水城篁朝の端正な横顔を見つめていた。
(兄貴……、一睡もしてないんじゃないかな……)
篁朝は、昨夜から天井を見つめたまま微動だにしない。
いつまで経っても変化のないうつろな藤色の双眸が、輝夜の不安を煽り続ける。
(母さん達は軽めの薬に変えただけだから大丈夫だって言うけど、俺には全然大丈夫に見えないよ)
「輝夜、そろそろ着替えなさい。先生が来てしまうよ」
父・水城朧は、兄の傍から一向に動かない輝夜の様子に困った表情で眉根を下げた。
本日、朧と輝夜はそれぞれ会社と学校を休んでいる。
昨日自宅周辺の不審者捜索が空振りに終わり、今日は通い先の捜査をすると水名透に言われたのだ。安全が確認されるまでしばらくは自宅待機である。
輝夜は朧に促されて渋々と立ち上がった。足元では子犬ロボットの甲斐が尻尾をはち切れんばかりに振って、輝夜の周りをぐるぐると回って歩き、無邪気に『わんっ』と鳴く。
輝夜は甲斐を持ち上げて、篁朝の傍へと置いた。離れる際に頭を撫でると、甲斐は笑顔で篁朝に寄りそうように身体を密着させ、ぼてっと隣に寝転がる。
「……誕生日、おめでとう……かぐや……」
「え?」
驚いて振り向くと、篁朝は天井から視線を外してラックの上にある兎のぬいぐるみを見つめていた。まだ何か言うだろうかと、輝夜は続く言葉を待ってみる。
しかし篁朝はそれ以上何も喋らなかった。諦めて、輝夜はリビングを離れる。
(兄貴は今、9年前にいるのかな……)
ぼんやりとそう思いながら、洗面所で白色の長襦袢に袖を通す。外から扉がノックされた。
「少しいいかな、輝夜」
「あ。うん……」
朧が入ってくると思って輝夜は手を止める。だが、朧は扉越しに話し始めた。
「輝夜は、篁朝を今の薬で治療することに反対なのかい?」
突きつけられた問いに、輝夜はひゅっと息を呑む。背筋を冷えた汗が伝った。
頭の中では直ぐに「そんなわけない!」と否定していたが、実際に口から出たのは肯定の本音だった。
「だって、兄貴苦しそうじゃないか! 前までの薬でも段々よくなってきていたのに。無理に治そうとしなくても、時間が経てば自然に治るかもしれなかったんじゃって思うんだ……!」
「前の薬は時間を止めていただけなんだよ。何も思い出さないように、篁朝の思考を阻害していた薬なんだ。ずっと逃げ回らなければならなかったから、篁朝が冷静に動けることを優先したもので、これまでは治療とは名ばかりの薬を飲んでいただけだよ。篁朝は普通になっていたように見えたけれど、決して正常な状態ではなかったんだ」
「で……でも」
「私達がいつまで篁朝の面倒を見られるかわからない。篁朝を治さないと、将来困るのは輝夜だ。一生大変な状態の篁朝の面倒を見続けられないだろう?」
(別に……俺は兄貴の面倒をずっと見たって構わない)
憮然と輝夜はそう思う。
その胸中を察したのか、朧は優しい声音で言いつのる。
「輝夜、心配しなくても大丈夫だよ」
「え……」
「たとえ治っても、昔の篁朝には戻らない。輝夜と仲良く暮らした9年間の時間があるんだよ。もう輝夜に暴力を振るう篁朝はどこにもいないから」
輝夜は頭から冷水を浴びせられる心地がする。ずっと考えないようにしていた恐怖を目の前で形にされて凍り付いた。心臓が嫌な早鐘を打つ。
「もし万が一、篁朝が変わっていない時は今度こそ私が止める。だから安心してほしい」
「だ、だけど父さんは皇族の……育ちだし。そういうこと、よくわからないだろ……。無理しないで」
「いや、一般家庭の兄弟の喧嘩がわからなかったとはいえ、目の前で暴力を受けて泣いていた息子を助けなかった私は父親失格だった。皆が頑張って今の穏やかな家庭を作っているのに、私だけが育ってきた環境を言いわけに何もしないなんて駄目だろう。今度こそ、父親として輝夜を守らせてほしい。頼ってくれていいんだよ、輝夜」
輝夜の鼻の奥がつんとする。気付けば輝夜の瞳は潤んでいた。涙もろいところもどうにかならないだろうかと、頭の隅で冷静に思う輝夜がいる。情けなくて格好悪い。
右腕で涙を拭い掛け、着物の着付けをしている途中だったと思い出してぐっとこらえて壁かけのフックに掛かったタオルで顔を拭く。
その間に、朧が静かに遠ざかる足音がした。
輝夜は朧がもう扉の向こう側にいないと知りながら、
「ありがとう、父さん」
直接告げるには照れくさい感謝の言葉を、素直にそっと呟いた。
藍領地で定住することが決まってから、輝夜は水族本家のすすめで書道の習い事を始めた。通い教室ではなく、家庭教師のように書道の先生が水城家にやってくる。今日も学校を休むならと、書道の先生が来訪する予定だ。
輝夜の習う書道は、少々普通の書道とは毛色が異なる。
着物の着用が必須で、内容は挨拶状や祝い状、礼状、見舞い状にお悔やみ状など、普段輝夜が使う機会は全く無いと思われる社交の文例文章を、着物を汚さず、綺麗につづれるように練習するのだ。
特に〝輝夜〟という自分の名前を書く練習が重要視されており、一定水準の文字が書けないと、その日の書道の時間が終わらない。
「おはようございます。遅くなりましたわ」
「おはようございます、由理先生」
輝夜の書道の教師である火住由理という妙齢の女性は、玄関先でゆったりとお辞儀をする。ベージュの縞柄の単衣の御召に縮緬の染め帯を合わせた着物姿で、紅梅色の髪を後ろへ結い上げてまとめていた。
品のある顔を上げた由理は、藤紫色の目を見開く。
「まぁ、お支度が……」
「今日は母さんがパートに行っていていないし、俺が1人で着付けたんです」
輝夜は胸を張る。
今、輝夜が身につけている着物は後ろの部分が長く、細かい飾りが多い。〝束帯〟と呼ばれる昔ながらの着物らしい。輝夜が和服売り場で見かけたことがない代物である。
毎回書道のたびに紬に着せてもらっていたが、1人で着付けられるに越したことはないと思い、着方を覚えたのだ。自分で着られると朧にも言ったら「輝夜、凄いじゃないか」と破顔して褒めてくれた。
勿論、由理にも褒められるだろうと思っていたのだが、由理は輝夜を見て頬に手を添え、困惑した表情である。
「輝夜様。貴方様は着付けなど覚えなくてもよろしいのです。お忘れくださいませ」
「え!?」
「今まで通り、紬さんに。紬さんがご不在の際はわたくしが行いますので」
(エェー……。俺の努力って余計……?)
輝夜は、しょんぼりと肩を落とした。意気消沈しながら、客間でしずしずと書道道具を用意して習字を始める。
「輝夜様。文字に元気がありませんわ。誰にでも失敗はあります。お気になさらずとも、次に生かせればよいのですから」
(いや、失敗ってそんな……。俺、できることが増えたのに)
ふわりと柔らかな気遣う笑みを浮かべる由理との間に、とても常識面で深い溝を感じた。
由理は一般人だとは思えない。水族本家から素性に関しては一切教えてもらえないが、皇族に――火族だが、月族に縁のある人物なのだろうなと輝夜は予想を立てている。
(うーん、文字に元気がない……か。確かにいつもより勢いがない感じかなぁ。でも俺、いつも無心で書道をやっているわけでもないんだよな)
輝夜にとっては考え事をじっくりする時間だ。墨のにおいも何だか落ち着く。
(携帯電話のこと、父さんも母さんも詳しく知らなかった。透兄もうちの家が使う電脳を管理する電脳族が誰かなんて知らないそうだし……。逆に驚かれたんだよな。水族本家は佐由さんがやってくれていると思っていたみたいだから)
9年前から使用している水城家の携帯電話。朧曰く「御天日凰十『皇帝』陛下が用立ててくださったもの」だそうだから、家族内では電脳回線を管理する謎の電脳族は危険な人物ではないという結論なのだが、やはり気になる。
(一体誰なんだろう)
ふと、電谷には佐由ではないと断言しておくべきだっただろうかと思う。電谷ならこの謎の電脳族の正体に心当たりがあったかもしれない。
「今日はここまでにいたしましょう」
由理の言葉に、意識を引き戻して手を止める。
時計を見ると13時でお昼を回っていた。時間はあっという間に過ぎている。
硯など道具を片付けた後、由理に長襦袢までで脱がされる。着物を全て脱がされるわけではないが、相手は女性なので、輝夜は物凄く気恥ずかしい思いを毎回している。
由理が和装ハンガーに着物を吊るしているうちに、急いで洗面所に行って洋服に着替え始めた。
そのうち廊下から「朧さん!? 何をなさっているの!?」と由理のすっとんきょうな声と「昨夜、獣櫛さんに梨を沢山いただいていたのです。由理様にもおすそわけいたします」という、朧のおっとりとした会話が聞こえた。
(あれ? 父さんが由理先生に〝様〟付けだ。敬語を使っている?)
不思議に思いながら廊下へ出ると、由理が真っ青になって台所の方を凝視している。視線の先には、朧が右手に梨を、左手に包丁を持っている姿があった。
「父さん!? おすそわけに包丁いらないよ!?」
(ひぃぃい!! 何で梨をむこうとしてるんだ!? 父さんに包丁触らせたなんて母さんに知られたら俺が無茶苦茶怒られる!!)
すると、朧は微笑んで輝夜に訂正する。
「輝夜、包丁はおすそわけに使うんじゃないよ」
(じゃあ何で持っているんだよ!?)
「昼食がまだだろう?」
「そ、そうだね! 俺が作るからさ、父さんは座ってて!」
「輝夜様が!?」
今度は由理が輝夜にぎょっとする。
由理の反応に輝夜はびっくりした。
(料理もしちゃ駄目なのか!?)
両親が共働きなので、昔から輝夜は家事を多少はしてきたし、簡単な料理ぐらい作れる。決まった時間にご飯がないと、篁朝が監禁されていた時の恐怖を思い出してパニックになり水没攻撃で暴れるのもあって、自然と身についたのだ。
そこまで考えて篁朝の様子を見る。
篁朝は輝夜がリビングを離れた時から動いておらず、ぼうっと天井を見ているままだ。
うつろな状態だが取り乱す兆候もないようで、輝夜は安心した。
「兄貴はもうご飯を食べたんだね」
「いや、まだだよ。実は朝もまだなんだ。だから少し強引に、篁朝にご飯を食べさせようか。これからゆっくり一緒に食べよう」
朧の返答に、輝夜は目を丸くする。今までにない兄の様子に、また不安がぶり返してきた。
朧は篁朝が必ず快方に向かうと信じているようだが、輝夜はまだ半信半疑なのだ。
(本当に、兄貴はつらい記憶を乗り越えられるのか?)
忘れたくても忘れられない苦しい記憶なら、きっと誰にだってある。本人の意思を無視して、勝手な都合で無理やり治療を強制しているように思えて胸が痛む。
輝夜は口を引き結んだ。もやもやとした後ろめたさが胸中に広がっていた。
それから、輝夜は料理をしないように由理にたしなめられたので3人分の昼食をコンビニに買いに行くことになった。
由理の迎えもコンビニ前の大通りに来るらしく、共にそこまで歩く。
今日の輝夜の護衛は、初対面の上位領地ランカーだった。
可愛らしい顔立ちの少年で、濡羽色の髪と暗黒色の瞳に、藍領地の電脳で公表されている階級順位表を思い出す。確か、上位に珍しい闇族の少年が1人いたはずだ。彼がそうなのだろう。
彼の少女のような容姿に、俺みたいな奴ってそれなりにいるんだなと、妙な安堵感と仲間意識が芽生えた輝夜だ。
由理と歩きながら、とりとめのない話をする。
しかし、輝夜が由理の代わりに持つことを固持した梨の袋が想像していたより重くて、そちらに何度か輝夜の意識が引っ張られる。
腕力作りに一役買えばと、甘い考えを持ったのが間違いだったのだろうかと後悔してしまう。軟弱なことに、輝夜の腕はもう痺れてきている。胸中でコンビニに早く着くことを渇望し始めていた。
そのため、目指すコンビニが見えると輝夜は目を輝かせた。
(助かったー! って、草乃ちゃん?)
コンビニの前には、輝夜の学校の方角をじっと見つめる草乃がいた。ランドセルを背負っているが今日は午前中で授業が終わったのだろうかと、草乃の姿に輝夜は首を傾げる。
今日の草乃は、昨日の秋らしい大人しい色合いとは異なる赤いワンピースに、真っ赤なリボンでポニーテールを作っており、とても気合いが入っているように見受けられた。
「こんにちは、草乃ちゃん。誰かと待ち合わせ?」
輝夜が背後から声をかけると、草乃はビクリと肩を震わせる。
草乃は振り向いて輝夜を瞳に映すと、零れんばかりに大きな浅葱色の目を見開いた。それから、先ほどまで見つめ続けていた方向と輝夜の顔を交互に何度も見返す。
「輝夜様、きょうはおやすみなん……?」
「うん。草乃ちゃんは学校早く終わったんだね」
「う、うでずもう……ごめんなさい……」
「へ?」
一瞬何を言われたのかわからず、輝夜はぽかんとした。しかし、草乃がうつむいて震える姿にハッとする。
(俺、こんな小さな子に凄く気をつかわせている!?)
「気にしないでいいって! えっと、そうだ! 次はきっといい勝負になるよ。俺、鍛えるんだから。再戦してくれるよな!?」
「……輝夜様……。は、はいっ」
嬉しそうにはにかんだ草乃に、輝夜は胸を撫で下ろす。
――その瞬間だった。
ドゴォンッ!!
強烈な爆音が耳に入ったと同時に、ぐらりと身体がかたむいた。
奇妙な浮遊感に、足元の地面が消えたと脳が認識する前に、輝夜は闇の底へと落ちていった。




