第9話 御天日凰十『皇帝』の遺失
◇◇◇
「煌夜、まだ戻っていなかったのか」
「尊様」
御高月煌夜が、一陣の風と共に現れた尊に振り向いた。
尊は御高月煌夜と輝夜の傍を素通りし、廊下の曲がり角まで歩いて行く。
輝夜は突然現れた尊に驚き、更にその行動に慌てた。
(ちょっ!? そっちは葦成が……!)
「……」
尊は曲がり角で立ち止まる。それから腰に手をやって周りを見渡し、輝夜達の傍まで戻ってきた。
「気のせいだったようだ」
「尊様、疲れてらっしゃるのではないですか? 少しはお休み下さい」
御高月煌夜の労りの言葉に、尊はおどけるように肩を竦める。取り合う気はないようだ。
葦成も上手いこと逃げたようで、輝夜はほっと安堵する。
尊は輝夜の持つバスケットに視線を向けた。
「それは?」
と問うと同時に、ぶわっと風が舞い、バスケットの蓋が持ち上がった。
「ひっ!?」と輝夜は思わず声を上げる。中の人物への心配が先立って、純粋な驚きの声ではなく、上擦る悲鳴めいていた声を上げた。
尊と御高月煌夜はバスケットの中を覗き込み、子犬に目を丸くする。
子犬は、灰色に黒の縦縞模様が入ったふさふさの尻尾を軽く揺らした。垂れた両耳と大きな酸漿色の瞳が愛らしい。
――この子犬、実は狼である。しかも小さな獣型の姿に変化した獣族の成人男性だ。名前は獣櫛涼柁という。
輝夜は以前、水族本家の屋敷で獣型の涼柁を見ている。あの時は大型犬より一回り大きい狼の姿だった。あの姿を幼くすると、丁度今の姿になると思われる。
(どうしよう……。この毛並みと垂れ耳と瞳の色で、涼柁さんだってひと目で分かるよな。涼柁さんまで人質にされるんじゃないか!?)
普段の半獣型姿の涼柁を見知っていれば、自然と涼柁を連想するはずだ。輝夜のように殴られたり酷い扱いを受けるかもしれない。嫌な想像にバクバクと鼓動が早鐘を打つ。
「わあっ! わあっ!」
唐突に、明るく華やいだ歓声を御高月煌夜が上げた。白練色の瞳をキラキラと輝かせて口元を緩めている。
その反応に輝夜は面食らった。
「尊様! 犬です! 動物です!!」
「動ぶ……そうだな」
「可愛いです! 実物を初めて拝見しましたっ!」
「――そうだったな。良かったじゃないか」
「はい!!」
(……涼柁さんだって思ってない?)
輝夜はぽかんと口を開けて、間抜けな顔になってしまった。
御高月煌夜は感動に打ち震えながら、おもむろに伸ばした手を空中でふらふらと迷わせている。触りたくて堪らないといった様子だ。
尊はそんな御高月煌夜に苦笑した。
「あまり妙な動きをしていると噛まれるぞ」
「噛む? 食事の時のようにですか?」
「動物にとって口は立派な武器なんだ。人間だって手を武器として使うだろう」
「それは申し訳ありません」
御高月煌夜は丁寧に涼柁へ頭を下げ、すっと手を下ろして着物の袖に隠した。
輝夜は彼の素直な一挙手一投足に驚いていた。天然――いや、これが本当の意味で物を知らないという状態なのだろうか。輝夜も大概世間知らずだが、実物の犬を見たことがないほどではない。ましてやロボットでも子犬の甲斐が家族の一員だ。
改めて御高月煌夜を見ると、どこかあどけなく幼い雰囲気がある気がした。輝夜と同じ顔だというのに不思議なもので年下に思える。
「このバスケットと子犬はどこから持ってきたんだ?」
「あ……え、その、保健室に置いてあって」
「見つけて持って来たと?」
「う、は……はい」
尊の詰問に、輝夜は萎縮しながら答える。
尊は涼柁に手を伸ばすと、遠慮なく首根っこを掴んで持ち上げた。それから、じっと涼柁の顔を凝視する。
宙吊りの涼柁はやはり笑顔で舌を出し、緩く尻尾を振っていた。
完全に子犬になりきっている仕草に、輝夜は内心感服する。危機的な状況でこの度胸は見習いたい。
「その瞳の色は獣族だろう。獣櫛御大、か……?」
涼柁は更に小さな前足をカシカシと尊の前に伸ばして、かまって欲しそうな仕草をした。
肉球の足裏を眼前に突きつけられる尊は、次第に眉間に皺を作っていく。
尊がかまってくれないので涼柁は身もだえして暴れだし、「キャン、キャンッ」と鳴き出した。
尊はすっかり毒気を抜かれ、「何を真剣に犬に話し掛けているのだか……」と己に嘆息する。御高月煌夜に子犬の抱え方をレクチャーしながら渡した。
御高月煌夜は嬉しそうに目を輝かせ、軽く涼柁のふさふさな背中を撫でて言葉にならない様子だ。
それから尊はバスケットの中身も検分する。空っぽのバスケットを確認した後は、輝夜に手渡した。
再び、輝夜は化学実験室に連行された。尊に「大人しく座っていてくれ」と言われ、輝夜は出来るだけ廊下側の隅の椅子に座る。
輝夜は御高月煌夜の腕の中に抱えられた涼柁が気がかりで、ついそちらばかりを見てしまい、その視線を勘違いされた。
「水城殿も撫でたいですよね。配慮が足らず、申し訳ありません」
「!? ええっ!?」
涼柁だと知っている輝夜にはハードルが高い配慮である。
(いやいやいや! 涼柁さんに失礼だし! 後で佐由さんも怒りそうだしさ……!!)
ほとほと困りながら御高月煌夜から涼柁を受け取り、とりあえず目の前の机の上に乗せた。腕の中に抱き抱えるのは精神的な疲労が激し過ぎるのだ。
涼柁は机上に座り込んだ後、ベターっと前身も机に密着させてうつぶせの体勢になる。くわっと小さな欠伸もした。
本物の子犬のような仕草に、本当にこれは涼柁なのかと輝夜の方こそ疑ってしまう。
良かれと思ってか、御高月煌夜が家庭科室から平皿を持って来て牛乳をそそぎ、涼柁の前に置いた。
思わず驚愕の表情で2度見してしまった輝夜を誰も責められないと思う。
涼柁は尻尾を振って少しずつ小さな舌で牛乳を飲み始めた。
輝夜はその姿に色々と諦観する。
(……涼柁さん……。本当にこの人、肝が据わっているや……。スゴイ)
「どうかしましたか?」
「へ!? あ、えっと牛乳ってそのまま子犬にあげちゃまずかったような気が」
「! そうなのですか!?」
「人が飲む牛乳は、動物には栄養があり過ぎて毒だってどっかで聞いたけど」
御高月煌夜が慌てて平皿を取り上げる。口元の毛についた牛乳のしずくを舌でなめとり、物欲しそうに見上げてくる涼柁に、御高月煌夜は真っ青になった。
「こ、これはもうあげられません……! 尊様、どうしましょう!? 飲ませてしまいました!」
「少しぐらいでどうにかなったりしないだろう。落ち着きなさい」
「そ、そうですよね……」
御高月煌夜は胸を撫で下ろし、次いで涼柁の頭を撫でた。
輝夜はこの状況をどうにかしようとして悪いことを口走ってしまったと反省する。いや、犬猫には専用の牛乳を与えなければお腹を壊すのは本当だ。伝えたことは事実だが、この子犬は――いや狼は涼柁なのでお腹を壊すことはないというだけである。
不意に、尊は涼柁を見つめながら呟く。
「……皇殿下……」
「尊様?」
「いや、かの方は何が目的で保健室に子犬を置いたのか考えていた。この雉子領地は、いつからかは知らないが長い間無人だ。校内で時々感じる宙地原族の気配の人物が置いていったのは違いないだろうなと」
「……尊様、本当に良いのですか? 御速海佐善『皇帝』陛下にその子細を伝えないままで」
「私達に危害を加える素振りもなく、何より別世界の皇殿下だ。〝触らぬ宙地原族に祟り無し〟ではないかな」
「でも尊様は御神地皇殿下に攻撃をなさっているとおっしゃって……」
「煌夜。あれはただの牽制で、こちらに何もしないでくれという懇願だ」
尊は肩を竦めて笑みを零す。
御高月煌夜は歯切れ悪く「よく分かりません……」と俯いた。
尊達はそれから輝夜に聞こえないように位置を変え、声を潜めて会話を続ける。
輝夜には全く2人の会話が聞こえなくなった。
(うわぁ……葦成が校内にいるのはバレてるんだ)
しかし隠れているのが宙地原族とは気付かれていても、それが葦成だとは全く想定されていないようだ。当然のように御神地皇と断定している。
輝夜は微かに違和感を覚えた。
(もしかしてこの2人、宙地原族の葦成自体を知らない……?
葦成は別世界でも皇族に数えられてないのかな。宮廷にもいないなら、別世界の葦成ってどこでどう暮らしているんだろ。大地族の一般人? それとも電脳族として?
そもそも電脳族の種族階級順位って最下位なのかな。そうじゃなきゃ、大地族の人達も葦成に電脳族の姓なんて名乗らせられないよな……?)
輝夜が頭を悩ませている傍で、涼柁の垂れた左耳がピクリと動き、少しだけ持ち上がる。どうやら涼柁には尊達の会話が聞こえているらしい。
その様子を見て、涼柁はひょっとしたら尊達の情報を得るために姿を現したんじゃないかとも思ったが、直ぐにその考えは打ち消した。それならこの数日の間に彼らの前に姿を現しているはずである。
(多分、俺が連れて来られたから、……かな。俺のこと心配して傍についていてくれるために出て来てくれたんだ)
――嬉しい。何より心強い。
輝夜は小声で「ありがとうございます」と涼柁に感謝を述べる。
涼柁は笑顔で尻尾をぶんぶんと勢いよく振り返してくれた。
輝夜の頬も自然とほころぶ。のし掛かる不安や緊張が軽くなり、他のことを考える余裕も生まれた。
(……敦美さん、家に行ったら俺がいなくなってびっくりしているだろうな)
また迷惑を掛けてしまった。心配もしているだろう。
(俺、告白の返事もまだ聞いてないんだった)
思い出すと恥ずかしい。顔が熱くなる。多分、いや結構確実に色好い返事がもらえたはずだったのだ。なのに間が悪いというか、拍子が悪いというか。
藍領地の方は今どうなっているのだろう。敦美の責任問題にだけはなっていないよう、願わずにはいられない。
(兄貴は流石に暴れてないかな。最近は大人しいし。というか、いつもぼーっとしてるし。案外俺が家に居ないことにも全然気付いてないかも)
それはそれで寂しい……としんみりした輝夜は、篁朝には我が家を水没させてて欲しいなどと、つい身勝手なことを思ってしまった。
◇◇◇
尊は輝夜達から離れた窓際へ御高月煌夜を促し、話を切り出した。
「こちらに来てから、皇殿下の話の度に何か含むところがあるな。どうした?」
御高月煌夜は俯き、ぎゅっと拳を握り込む。
「――私が知る御神地皇殿下は、お優しい御方でした」
「月族には甘い御方だったからな」
「……ですが私は水族の出の上、男子です。そんな私と話すために、わざわざ離宮に会いに来て下さっていました」
「煌夜は公的な場での皇殿下を見たことが無いから、優しいなどと思えるんだ。苛烈で独善的な人物だったよ。煌夜に見せていた顔はただの一面だ」
「……尊様に見せていたその苛烈な顔もまた、御神地皇殿下の一面に過ぎないのではないのですか」
「驚いた。随分食い下がるな」
尊がふうっと呆れたような溜息を零す。
御高月煌夜は、その溜息に身体を小さく縮こまりながらも話し続けた。
「私は、ここ最近宮廷内であった不幸の詳細を知りませんでした。葬儀で太陽族の侍従の方に知らされ、初めて御神地皇殿下が光耀様に手を掛けられたことになっている事件を知りました」
「『手に掛けられたことになっている』か。そういえば、電拳は煌夜の友人だったな。煌夜も佐善『皇帝』陛下が一連の真犯人だと考えているのか?」
「わ、分かりません……! 剣さ……いえ、電拳殿の考えは私も知りません。
私はただ、御大が崖から落ちた事故を目撃した御神地皇殿下が、光耀様と口論となってしまい、光耀様がその手で御神地皇殿下を――そう、自害なされた光耀様の遺書にあったと聞き及んだだけです。ですが……!」
御高月煌夜は震える声音で、自身がずっと抱えている気持ちを吐露する。
「おかしいのです。御神地皇殿下は光耀様と口論はなさらないはずなんです。……光耀様を怖がってらっしゃったのですから」
尊はピクリと反応し、眉を潜める。
「それは確証がある事実なのか?」
「は、はい。月族は祭祀を行う神祇官様とは関わりがあるでしょう。それでよく廊下などですれ違うことがございます。御神地皇殿下は光耀様とすれ違うことすら苦手らしく、離宮から光耀様が去るまで匿って欲しいと私の居室に来たり、東屋の物陰に隠れてやり過ごしたりなさっていたんです」
「初耳だ。信じられないな、宙地原族だぞ。……確かに、私と佐善殿下が名指しを受けた時も反対はしなかったが、だがあれは御大が反対をしたからで――」
(では御大が反対をしなければ、代わりに皇殿下が反対をしたのか? ――いや、あの時の皇殿下にそのような雰囲気はなかった)
湧いて出た疑念に、尊は目を眇める。
普段の御神地皇であれば、御大に追随して次期『皇帝』候補に異議を唱えるぐらいはしているはずだ。だがあの場での御神地皇は、沈黙を貫いて俯いていた。
あの場の御大も、らしくない言動をしていたのではなかったか。通常では御天日凰十の意向を尊重し、それに添った形の発言をする人物だったはず。ところがあの時だけは、全く御天日凰十の意向を尋ねなかった。
(……崖で口論していたのは御大と皇殿下か? そうなると、御大を海に突き落としたのは光耀ではなく、皇殿下かもしれないな)
尊は敢えてその推理を口に出さない。
「……私自身も佐善殿下が呼び出して3人を殺害したという電拳達と太陽族側の主張には、多少引っ掛かっている。いくら皇族と言っても、佐善殿下は養子の電脳族。彼の呼び出しで、あの皇殿下が灯台まで来るとは思えない」
「私も、そう思います」
「うん。煌夜の言う通り、皇殿下が何かしらの理由で神祇官の光耀に怯えていて、呼び出しの内容が神祇官に関連するものだったら、例え誰の呼び出しだろうと来る可能性はあっただろう」
(呼び出したのも御大か? まさか1ヶ月も経った後になって次期『皇帝』候補についてではないだろう。神祇官が関わるなら次期族長について……しかし事前に宙地原族と話す必要がある種族……? 皇殿下は『皇帝』以外の地位にはわりと無頓着で、誰が族長になろうが対して気にしていなかったように思うが)
むしろ宙地原族ほど、後継者問題に関して無縁の種族はないだろう。創世神話時代からの最初の人類が御神地皇であり、後継が存在しない、唯一無二の存在だ。
(しかし煌夜の話で、逆に佐善『皇帝』の犯人説が濃厚になった。事故だろうと御大を殺したとなると、皇殿下が佐善『皇帝』に殺される理由が出てくる。原因を作った神祇官もだ)
御速海佐善が玉座を得る目的で主要人物を殺害するとは思えない。
リスクしかないのだ。後先も考えず、取る手段ではない。現に、一連の事件のせいで皇族御三家の関係は崩壊している。元の世界に帰って真っ先に起こるのは、太陽族と御速海佐善側との戦争なのは確実だった。
太陽族の旗頭は、御速海佐善の実妹であり、御天日凰十の皇后である電照巫倉だ。
彼女が皇族しか入れない皇帝城内部に剣と秀寿というテロリストを引き連れ、『皇帝』即位式に出席をした。皇后である巫倉の行動は太陽族の総意と思われる。
(彼女をトップに据えるとは太陽族も思い切ったものだ。巫倉皇后の能力は、佐善『皇帝』に対して最大の手札ではあるが)
剣と秀寿が、皇帝城に鎮座する原始星石を爆弾で吹っ飛ばした場面を思い出す。
破壊された原始星石から放たれた力の爆発を感じた御速海佐善は、誰よりも早く次元空間に退避していた。ところがこれを想定していたらしい巫倉は、御速海佐善の次元空間を溶かして表に引き摺り出すと同時に、巫倉自身は次元空間に避難したのだ。
――だからあの時、御速海佐善達の近くにいたはずの巫倉は別世界に飛ばされてはいないと断言出来る。御速海佐善はそれを目撃していないから確証が持てず、剣達だけでなく巫倉の存在も警戒していて動きづらいのだろう。
あの時、月族族長の御満月夜重が体調不良で欠席し、彼女の名代として葬儀と『皇帝』即位式に出席していたのが尊であったのは、月族側としては幸いだったと思っている。
どうせ尊は争いの火種にしかなりえない。そんな尊でも月族族長の身代わりになれたことは僥倖だった。
尊自身も月族を争いの渦中に置きたくはないのだが、神祇官の次期『皇帝』候補の名指しの過去がそれを許さないのだ。御速海佐善との敵対を選んだ太陽族は、確実に尊を担ぎ出すだろう。そして月族に太陽族の要請を拒む力はない。
不意に、尊は妙な引っ掛かりを覚えた。
難しい顔で黙り込んだ尊を、御高月煌夜が不安そうに見上げる。
その視線に気付き、尊は曖昧に微笑んだ。
「煌夜。質問なんだが、先帝の凰十『皇帝』陛下をどのような御方だったと思う?」
御高月煌夜は目を丸くした。
「御天日凰十『皇帝』陛下ですか。私は行事でご挨拶をするくらいで交流がありませんでしたから……。聖人君子で素晴らしい『皇帝』陛下であられたと、評判も高い御方でした」
「周りの評判は、まぁ、私自身もその通りの人物だったと思う。穏やかで人柄も良く、ただ誰にでも優し過ぎて少々頼りない御方だという印象だったな」
「はい、尊様には特にご配慮をなさっていた気遣いの御方でした」
「何……?」
尊は目を見開いて驚いた。
御高月煌夜はきょとんとした顔で目を瞬かせる。
「結婚記念日の祝いの品や、尊様の姉君への時節への贈り物など、月族への配慮は全て尊様に宛てたもので、御満月夜重族長にはなさらないことをなさっていたと思います」
「そう、だったか……?」
「はい。御満月夜重族長も御天日凰十『皇帝』陛下は素晴らしい慧眼をお持ちの御方だとおっしゃっておりました。施政者として、力や権力を得る配下を味方につけるために贔屓なさることは、決して悪いことではないのでしょう? 自身に利をもたらすためには、事前に利を配っておく必要があるのだと御満月夜重族長から教わりました。御天日凰十『皇帝』陛下は賢帝であらせられたと思います」
「私自身が全く気付かなかったぞ……」
「尊様に向けられるような優しい笑顔は、私には向けられることはありませんでした。私は人一倍皇族として劣る出自があるので……恥ずかしながら、人の目を気にし過ぎるきらいがあります。だから些細な表情の違いに気付けたのかもしれません」
御高月煌夜の寂しげな呟きを聞きながら、尊は考え込む。
「煌夜は他に誰に利を配っていたと思った?」
「尊様以外にですか。あの、でも私は皇族の方々もほとんど知りませんし……」
「知っている範囲の名前を挙げてくれればいい」
「えっと巫倉皇后様、炎乃族長、水名族長、獣櫛御大、御速海佐善……『皇帝』陛下、つる……電拳殿でしょうか。その方々に気を遣われていたように私には見えました」
「見事に一連の事件に関わった人間ばかりだな。神祇官ではなく、見習いの電拳の方だったんだな?」
「はい。御神地皇殿下とは違って光耀様にはあまり……。電拳殿の婚約者は、御天日凰十『皇帝』陛下の隠密衆頭領の氷藤様でしたし、その婚約も御天日凰十『皇帝』陛下の口添えがあったと電拳殿から聞きました」
(口添え……。私が太陽族の養子にならずに月族族長の夫になれたのも、凰十『皇帝』陛下が賛同して下さったからだった)
これに対する御天日凰十の〝利〟とは何だ。
彼は亡くなってしまった。これが味方を増やして自身を守るための行動だったならば、御速海佐善に裏切られ、その思惑は実らずに失敗している。
更には、御速海佐善の『皇帝』即位の賛否によって泥沼と化した争いにまで発展――……
(――待て。生き残っている人材は、全員〝御速海佐善の敵〟に回っているのか!?)
巫倉と剣は、復讐のために御速海佐善の命を狙い、『皇帝』という地位の対抗馬である尊自身も、潜在的には御速海佐善の敵になる。
最初に亡くなった涼柁も、彼を次代の『皇帝』候補とは認めなかった。
太陽族の近臣であることを誇る火族族長も、生きていれば電脳族の『皇帝』に仕えはしないだろう。
水族の水名晴樹族長は、御高月煌夜を従者としている尊を支持していた。
剣に協力している秀寿は、御天日凰十『皇帝』の隠密衆の1人。
(これが……御天日凰十『皇帝』陛下の〝利〟だとおっしゃられるのでしたら、貴方様は死んでから恐ろしくなる御方だ……)
自らの『皇帝』の地位を盤石に、安定させるためではなく、自身が座らない『皇帝』の地位をいかに配するか、その仕込みのために聖人君子然として生きていたというなら――狂人の所業だ。
死後の独裁的な権力図を描くことのために人生を費やすなんて正気の沙汰ではない。
尊はぞわっと鳥肌が立った。
御天日凰十が黄泉の彼方で微笑を浮かべる姿を幻視し、寒気を覚える。
御速海佐善はこのまま『皇帝』として君臨する未来を掴めないだろう。
御天日凰十が許可しない。――そして死者はもう喋らない。永遠に許可は下りないのだ。
尊の許可は、果たして下りているのか――……?
「……少し外の風に当たってくる」
「尊様? あの、ご気分でも……?」
「大丈夫だ。……直ぐに戻る」
血の気の引いた顔色で、尊は化学準備室を出て行った。
ゆっくりと冷たい空気の廊下を歩く。
(自分より強者や対等な力の人間を自然と察することもある――……。神祇官に教えられずとも、凰十『皇帝』陛下は、『皇帝』たり得る人間が誰か知っていたのだ……)
そして尊は、御天日凰十に太陽族の養子にならないことを賛成された。――つまりあの時点で、尊も御天日凰十に『皇帝』の玉座に近寄ることを許されなかったのだ。御速海佐善ほど徹底した否定ではないにしろ、玉座への資格は〝尊の意志を尊重する〟という大義名分の下に消された。
尊は別に『皇帝』になりたい気持ちは全くない。
問題は、生前の御天日凰十に、御速海佐善と一緒くたにした色眼鏡で見られていたのではないかということだ。
何故尊は、今まで『皇帝』即位式の襲撃を他人事のように考えていたのだろう。実際、共に巻き込まれていたというのにだ。
剣と秀寿、そしてこの別世界に来なかった巫倉と太陽族達は、尊の命も狙っていたのではないか――……
尊は凍り付く背筋を無理矢理伸ばして歩き続ける。
これから、否が応でも訪れる破滅の予感にきつく歯をくいしばった。




