第8章 巡る もつれる密かな謀策
「あれ、地震? 今、揺れなかった?」
「そうね、少し……。でも風じゃないかしら」
水城家1階の居間。
紬は洗濯物をたたみながら、暗くなった窓の外を見た。
床に寝そべっていた輝夜も釣られて窓へと目を向ける。夜というには少し空が明る過ぎる気がして妙な胸騒ぎを覚えた。
まだ爆発した喫茶店のことと、獣族の人のことを紬と篁朝に話していない。
父の朧にも話しておくべき事件だと思ったので全員が揃うまで待っている状態だ。
毛布にくるんでそっとソファに横たえていた白い子猫がまぶたを震わせて目を覚ました。
真っ先に子猫の動きに反応したのは甲斐だ。
『ワン』と吠えた甲斐に子猫は驚いて、収納ラックの上まで飛び上がった。
「あら、良かった。打ち身の怪我も無さそうね」
子猫の俊敏な動きに紬が胸を撫で下ろす。
子猫は収納ラックの上から、下でうなる甲斐を見て、背を丸めて震えていた。
「こら、甲斐! やめろってっば!」
「輝夜、まだなのか」
「兄貴もちょっと待って! 俺、結構忙しいよ!?」
不機嫌な篁朝の声に急かされ、輝夜は子猫のことを一旦置いてオセロの盤上に視線を戻した。
盤上は真っ黒に埋め尽くされていて頬が引きつる。輝夜が操る白石の形勢は、よろしくない状況だった。完全に勝負になっていない。
オセロは隅の角4つのマス目を取れば勝てるゲームだと豪語する人は、今すぐ出てきてこの惨状を打開するすべを輝夜に教えてほしい。
「隅取ってるのに俺がボロ負けしてる……」
「当然だ。輝夜は俺が誘導した場所にしか白を置いていないんだから」
「えぇ!? どうしてそんなことするんだよ! 兄貴ほど俺は頭が良くないんだから手加減してよ!」
「嫌だ」
「母さーん! 兄貴がいじめるー!」
「2人とも遊び終わったら自分達で片付けるのよ。ねぇ、朧さん帰ってくるのが遅くないかしら……」
紬は篁朝と輝夜に適当な生返事をして、不安げに顔を曇らせた。
時刻は20時を回っている。朧は遅くとも20時過ぎには帰ると告げて家を出たらしい。
(うーん……。父さん、兄貴にもそれ言っちゃってるのかなぁ。母さんは、父さんの心配よりも兄貴を気にした方が……)
紬の世界はどんなことがあろうと朧を中心に動いている。息子2人は永遠の2番手だ。
紬の代わりに素知らぬふうを装って、輝夜は篁朝の様子を見続ける。今のところ特に取り乱す兆候はない。
「大丈夫だよー、子猫さーん。下りておいで」
「……」
輝夜はオセロの対戦中に、隙を見つけては収納ラックの上に声をかけたり手を伸ばすが、子猫は余計に奥に引っ込んでしまう。
(あー、困ったなぁ)
お手上げだ。
先ほどまでうなっていた甲斐は、輝夜に怒られてからうなるのをやめた。どうやら子猫を飼い主の身内として学習を終え、警戒を解いたようだ。
紬は居間の窓を開ける。塀の外の道路を覗き込み、左右を確認していた。その足元には尻尾を振って無邪気にまとわりつく甲斐と、鉢から庭の地面に植え替えられたコスモスがぬるい夜風になびいていた。
水城家はどの領地に移っても必ず1軒家を貸りて住んでいる。
アパートやマンションでは、篁朝が水族の力を暴走させるパニックに他の住人を巻き込んでしまう恐れがあるからだ。
今回の家は2階建ての庭付き。かなり立派な家屋である。
両親は何も言わないが、藍領地ということもあって水族本家が都合してくれたんだろうと輝夜は推測している。
(変に水名族長に借りを作って、兄貴を養子によこせって迫られなきゃいいんだけど)
篁朝を上目遣いで窺うと目が合った。
すると彼は不承不承にオセロの盤面を1回転させ、輝夜と場所を入れ替える。
「交換。輝夜がこれから黒」
「え、いいの? ありがとう」
輝夜が嬉しそうに声を弾ませると、篁朝は照れくさそうに美麗な横顔をそらす。あえてぶっきらぼうな態度で傍に置いてあったお茶を飲み干した。
輝夜はそんな篁朝の態度に笑顔を零す。
(こうしてると、本当に普通なんだけどなぁ)
9年前からずっと、篁朝は精神が病んでいる。
原因は、篁朝に恨みを持つ人達に薬を盛られて数日間監禁された体験のせいだと聞いている。そして今でもその人達が執拗に篁朝の命を狙っているそうなのだ。
当時輝夜は幼かったので両親から詳細は聞かされていない。後になって詳しく聞くのもためらわれて、曖昧なまま今日に至っている。
だが輝夜が想像する以上に篁朝が恐ろしい目に遭ったことは薄々察していた。
夜に外を出歩けないほどの極端な暗所恐怖症。
空腹を感じることにも恐怖を覚えるようだ。
以前は家屋内で1人でいることが耐えられず、家族の誰かが自宅に居ないとパニックを起こしてヒステリックに力を使い、一瞬で建物を水の中に沈めて覆うという荒技を繰り出すこともあった。輝夜命名の水没攻撃というやつである。
建物全体を水で満たす行為は、外部からの敵を防ぐ防御壁を無意識に作っている形なので、攻撃ではなく防御だとは思うのだが、正直な所、水族以外が建物内に居たら息が出来なくて溺れ死ぬ。
さらに今の篁朝は家族という存在を病的に溺愛するようになった。
篁朝の中で、家族は絶対に自分に危害を加えない唯一無二の心の拠り所。篁朝の傍に居て孤独にもせず、安心と愛情を無償でくれるかけがえのない安らかな居場所と認識しているのだ。
そんな家族の基準を、家族の誰かが破り掛けたり、家族の1人が欠けたままの状態が長時間続くと、篁朝は自失状態に陥ってしまう。
現実逃避とでも言うのだろうか。〝篁朝〟という意識がその場から消えてしまうのだ。
そうなってしまうと水没攻撃なんて生やさしい暴走が待っていない。領地全てを覆い尽くす規模の水害を発動させ、篁朝が化け物級の力を持っていることを思い出させる背筋が凍る時間が始まるのだ。
でも最近は、そんな暴走の頻度も下がってきている。精神安定剤を飲めば落ち着いていて、昼間に家族が家に居なくても甲斐さえ居ればパニックを起こさない。徐々に良くなっているのだ。
(手が掛かって大変ですっごく面倒だって思うことも多い……けど、俺は今の兄貴が好きだ)
たとえ領地を転々とする逃亡生活の原因だろうとも、だ。
(……昔の兄貴は怖かった)
子供の頃のことを思い出すと、輝夜は体が震えそうになる。こうなる前の篁朝は両親と輝夜を侮蔑していた。
容姿端麗で秀才。種族の力も天才肌の完璧な篁朝と違い、朧と紬、そして輝夜の3人はごくごく平凡な水族でしかなく、彼にゴミのように見下されていたのを輝夜は、はっきりと覚えている。
輝夜から声をかけるのは恐ろしいもので、下手に話しかけて篁朝をいらつかせたら殴られた。
本当に怖くてたまらなかったのだ。
トゥルルルルル……
携帯電話のコール音が鳴り響いた。
輝夜は過剰なくらいビクリと肩を揺らす。反射的に両手で耳を塞いだ。
紬が顔色を変えて慌てて音を止めた。
「ごめんなさい! 音を変える設定を忘れてたわ……っ」
輝夜はぎゅっと目をつぶった。
――9年前、篁朝をののしる電話を取ってしまったことがある。
内容は全く覚えていないのだが、それ以来、輝夜は固定電話や携帯電話の標準に設定されているコール音が怖くてたまらない。
メロディを普通の音楽ものに変えたコール音は大丈夫なので、それで乗り切っている。大抵他の人も変えているものなのでその点は生活に支障はない。
篁朝が耳を塞ぐ輝夜の手に、そっと自分の手を上から重ねてきた。
重ねて塞いでも防げる音の量は大して変わらない。特に意味もない行動だったが、眉根を下げて真剣に輝夜を心配している篁朝の優しさに胸の中が温かくなった。
「え!? それで怪我は……はい……無事なら良かった……」
紬は話し終わると通話を切り、携帯電話の設定音を変えてバタバタと居間のテレビを点けた。
落ち着いた輝夜が耳から手を放して尋ねる。
「……誰から?」
「朧さんから。ついさっき、駅前で火災があったんですって。交通機関が麻痺していて帰るのが遅くなるって。……まだニュースで報道してないのかしら」
紬は速報が出ないテレビのニュース番組にヤキモキしていた。
(また、どこかの建物が爆発したのか……?)
「火災って、よその領地と戦闘でも始まった?」
「さあ、どうなのかしら」
「なぁ、父さんは? なんでまだいないんだ?」
突然、篁朝が怒気をはらんだ声を発した。
紬と輝夜はサッと血の気が引く。篁朝がヒステリックにパニックを起こす前兆だ。
「たっ、篁君。朧さんは帰るバスもタクシーも無くて遅くなるそうなの。でもちゃんと無事なのよ?」
「もう9時を過ぎてる。8時には帰ってくるんじゃなかったのかっ。なんで今いないんだよ!」
(うわっ! やっぱり帰る時間を兄貴にも言っていたのか!)
紬がなだめるように説明しても聞く耳を持たない。篁朝は決められた時間に家族が家に揃っていないと不安で我慢ならないのだ。
段々と篁朝の声音が尖ってくる。
「父さんどこだ!? 何で傍にいないんだよ! 何でなんで……!!」
「篁君、落ち着いて。ちゃんと帰ってくるから……っ」
「あっ、兄貴! オセロの続きやろ?! ね!?」
ドンドンドンッ
その時、玄関の扉がけたたましく叩かれた。家中に響いたその音に3人ともが動きを止める。
爆発寸前だった篁朝が、ふっと糸が切れた操り人形のように鎮まった。
うつろな目をして天井に視線をさまよわせた後、玄関の方向へと瞳を移す。篁朝の頭の中を占めていた父への不安が現状の不穏要素に塗り替えられ、瞳にしっかりとした意志が宿る。
傍に居る紬と輝夜のことを最優先に考え始めたのだ。
ドンドンドンッ
皆に緊張が走る。誰も玄関へ向かおうとはしない。
物音を立てないように輝夜と篁朝は立ち上がり、紬も静かにテレビのリモコンを机に置いて2人の傍に近寄った。
電気もテレビも点いている状態なので家の中に人間が居るのは、まずばれている。
「っ……! 夜分にすみません! どなたかいらっしゃいませんか……っ!?」
玄関から届く悲痛な声に、紬と輝夜は顔を見合わせた。
「ああ。コスモスの奴だ」
「へ?」
「え、何。どういうことなの篁君……? 知っている人なの?」
篁朝は、紬に返事もせずにスタスタと玄関へ向かってしまう。
輝夜が慌てて追いすがった。
「ちょっ、ちょっと待って兄貴! そのコスモスくれた人ってどこの誰だか知らない人だよね!?」
そんな相手がどうしてこちらの住所を知っていて家まで来るのだ。
(兄貴が住所教えてたのか!? いや、そもそもなんでインターフォンを鳴らさないんだよ!? 玄関の扉ばっかり叩き過ぎだろ! それだけでやばい感じが凄いんだけど……!!)
輝夜の制止の声もむなしく、玄関の扉が開け放たれる。
そこには輝夜と同い年ぐらいの青年が息を弾ませて立っていた。
癖毛が強いボサボサの蜜柑色の明るい髪に、向日葵色の眠たそうな半眼の双眸。ぶかぶかの黄色いウィンドブレイカーパーカーと、焦げ茶のジーンズに革のブーツ。服装からだらけた雰囲気を漂わせる人物だった。
しかしその服装とは裏腹に、青年の瞳はとても真摯で根は生真面目そうな印象を受ける。
輝夜は一目見て強烈な既視感に襲われた。
(俺……こいつに見覚えがある……)
脳裏で桜の花びらが1枚、風に吹かれて落ちるイメージが浮かんだ。
瞬間、思い出す。
彼が誰なのかを。
「~~~~っ!!」
思わず、隣の篁朝の腕をバンバンと叩いた。
「どうした。大丈夫か?」
頬を真っ赤にして興奮する輝夜に、篁朝は風邪で熱を出したとでも思ったのか輝夜の額に触った。
それを輝夜は押しのけて声をうわずらせながら感動を懸命に伝えようと試みる。
「かっ、甲斐! 甲斐くれたやつ!」
「は?」
輝夜は恥ずかしながら泣きそうになる。
もう会うこともないと諦めていた相手だけに、余計こみ上げてくる嬉しさはひとしおだ。
「ひ、久し振り……! 9年振りになるかな!? えっと、俺その……桜並木で兎のぬいぐるみを渡して約束したやつなんだけどっ。あ、あの時は女の子の格好しててなんか騙した感じかもっ、本当ごめん……! 色々事情があって」
青年は輝夜に話しかけられて目を見開いた。
次いで、篁朝を見る。
篁朝は静観していた。
その様子に、彼は意を決して輝夜に応える。
「……うん、久しぶり。驚いたな、こんな所で会えるなんて……。輝夜君……だったよね? 君との約束通りに闘技大会に出たんだよ。結果は『二位』で……『領王』にはなれなかったけど、あの時はありがとう」
青年――藍領地、階級順位『二位』〝雷 秀寿〟は、確かに輝夜の言葉を肯定してぎこちなく笑みを浮かべた。




