死のクリスマスイブ・7
七
十二月 十四日 (木)
涼子から会社にいる克行に電話があったのは木曜の夕方だった。涼子の口調から彼女がひどく興奮していることが読み取れた。
克行は夜、涼子に会おうと言ったが、涼子は外で会おうとした克行の意志に反してマンションに来ると言い張った。確かに事が事だけに外で話すよりもマンションのほうが良いかもしれないと、克行は涼子の言葉に従うことにした。
克行は駅からマンションまでの道順を教え、涼子の来る時間に合わせ早めに仕事を終わらせ帰宅した。帰宅したのは九時過ぎだったが、どうやって入ったのかすでに涼子は克行の部屋に上がりこんでいた。
「どうやって入ったんだ?」
「ごめんね、妹だって嘘ついて管理人さんに鍵を開けてもらったの」
涼子は悪びれた様子もなく驚く克行に笑いかけた。お人好しともいえる管理人の杉本老人の顔が思い出された。麻美に比べればずっと大人びて見える涼子が克行の妹などと本当に信じたのだろうか。
すでに部屋はファンヒーターによって暖まっている。まるで何度も訪れているような雰囲気で涼子は部屋でくつろいでいた。その涼子の様子に克行は大学時代に同棲していた時のことを思い出した。
「ずいぶん早かったんだな、こんなに早く来るとは思ってなかったよ」
「べつに構わないわ。仕事、急がしいんでしょ」
「十二月にもなるとさすがにな。おまえもう何か食ったのか? 何か用意しようか?」
「食事はもう済ませたからいいわ」
「それで、何かわかったのか?」
克行はすぐに特権者優遇計画のことに話を移した。あまり個人的な話を涼子と続けたくはなかった。いまさら涼子とよりを戻すつもりもない。
「ええ」
涼子は仕方無いという素振りでバックのなかから書類をいれるような封筒を取り出した。その真剣な眼差しにいつしか克行の表情も堅くなっていった。
「悪い情報か?」
けれど涼子はその質問には答えようとはしなかった。
「これを見て」
涼子は青と赤に分けられた数枚の書類を克行に突き出した。
「これは?」
「青い用紙のほうは今回の特権者優遇計画で特権者に任命された人たちのマスター・リスト。そして、この赤いほうが特命者のマスター・リスト。今日、役所の端末を叩いてリストにしてきたの」
どちらの書類にもびっしりと名前や住所、年齢などいろいろな情報が並んでいる。
「それで?」
「そのなかには克行の名前はないわ」
克行は驚いて涼子を見つめた。
「ない?」
「そうよ、しかももう一人。頼まれていた五十嵐麻美さん、彼女の名前もないわ」
「特命者リストに?」
「特命者リストにももちろん特権者リストのほうにも。ただし、不思議なことに各特権者への特命者の割り当てを行った後のファイルには、はっきりとあなたの名前も彼女の名前も載せられている。しかも、もう一つ不思議なことがあるの。各都道府県毎の特権者、特命者の人数は国が決定し、各市毎の数はその県が決めることになっているわ。今回、うちの市に割り当てられた特権者の数は百八人、都道府県ごとに割り当てられた特命者は六千二百六十四人。問題なのはこの中身なの。このなかには克行も、そして彼女も含まれてないの」
「どういうことなんだ? 俺には何がどうなってるのかわからない」
「そうね。ただのミスってことも考えられるわ」
「ミス?」
「特権者優遇計画を実施するそれまでの過程のほとんどがコンピュータ処理で行われるわ。マスターからそれぞれのファイルへの振り分け、そして特権者への通知。全てがコンピュータに簡単な指示を行うだけ。だけど、一箇所だけコンピュータ以上の処理を事務員がやらなければいけない部分があるわ。それぞれの特権者への特命者の指定。そこで事務員がコンピュータに対する指示を一特権者毎に行われることになっているの」
「そこでミスが?」
「役所では今九十パーセントほどの情報はコンピュータ処理されるの。当然、市の住人の情報もコード化されファイルにある。特権者優遇計画にもそのファイルは参照という形で使われるの。おそらくその時、オペレータが誤ったコードを指示した」
「指示を間違った? オペレータのミス? そんなことで彼女の名前が特命者リストに載らなければならなかったのか?」
克行は思わず大声を出した。
「まあ、待って」
「待て? 命が危険にさらされたんだぞ。ミスなんて言ってられるのか? 明日にでも役所に行って彼女の名前を削除させる」
「無理よ」
涼子の声に克行はびくりとした。それほど涼子の声には緊迫した雰囲気があった。
「なぜだ?」
「そんなことが出来るようなところならそんな単純ミスをやらかしたりなんかするわけがないじゃない。ミスと言っても一度リストに載ってしまったものを取り消すことなんか出来るわけないわ」
「……」
まったくその通りだった。特権者とか特命者とか選定はされているが、結局のところそれは人工削減の手段というだけで国にとって特権者が特命者リストに載っていても特命者が特権者リストに載っていてもいっこうに構わないのだ。
「それに……」
やや間があってから涼子はさらに付け足した。「今度のことが本当にミスかどうか……それもまだ判断出来ない」
「なぜだ? マスターファイルに載っていなかったんだ。ミス以外何が考えられるっていうんだ」
克行はなかばやけになって吐き捨てた。
「実は毎年通常のファイル以外にシークレットファイルが設定されることになっているんだけど――」
「シークレットファイル?」
「ええ、文字通りそのファイルの中身は役所のなかでも限定された人間しか見ることが出来ないようになってるの」
「つまり実行委員会のメンバー?」
「もっと限定される。役所のなかでもおそらくあれを見ることが出来るのは市長をいれて三人くらいしかいないと思う」
「そんな秘密にしなければいけないものっていったい何が入ってるんだろう」
「さあ……けどひょっとしたらそのなかにあなたたち二人の名前が突然現れた原因が隠されてるかもしれない」
「見れないのか?」
涼子に危険を押しつけることになると知りながらも克行は聞かずにいられなかった。
「見ようと思えば……」
涼子はそう言ってそっと微笑んだ。その笑顔に克行は涼子が初めからそのつもりだということに気がついた。
「見るつもりなのか?」
「もちろん。克行の恋人の命がかかってるんだもの。そのくらいのことしてやらなきゃ。それに私自身もかなり興味があるの」
ぎゅっと固く拳を握り涼子ははっきりと言った。その姿に一度はシークレットファイルのなかを知りたいと思った克行も、涼子がなにかひどく危険な道を歩き出そうとしているようで心配になった。
「危険じゃないのか?」
だがすでに涼子はもう心を決めてしまっているようだった。
「大丈夫よ、克行だってコンピュータには詳しいからわかるだろうけど実際にシステムを管理している人とシークレットファイルを見ることの出来る者とは違うの。だから、よほどしっかり管理してなきゃ私がシークレットファイルを覗き見したところでばれやしないわよ」
その涼子の言葉に克行もそれ以上言おうとは思わなかった。実際にどんなに危険だとしてもそのシークレットファイルを見ることで麻美の命を救えるかもしれないからだ。
「気をつけてくれ」
克行は一言だけ告げた。
「わかってる。私だってまだ死ぬつもりないわ。他に何か私に出来ることない?」
「もう一つ調べて欲しいことがあるんだ。以前、駅のホームで乱射事件を起こした特権者のことを憶えているか?」
「泉谷のこと?」
「そう、そんな名前の男だった。なぜ知っているんだ?」
「私だって去年は委員会のメンバーだったのよ。そのくらいのこと知っているわ」
「そうか……その男があの後どうなったか調べられないか?」
「死んだわ」涼子は即座に答えた。
「死んだ?」
「今日、計画のことを調べているうちに過去の記録が目についたんだけど、その男のことも記録に書かれていた。あの事件を起こしてから二ヶ月後に青酸カリで自殺してたわ」
「自殺……」
「でも、本当に自殺かどうかはわからないけどね」
「わからないって?」
「国にしてみればこの特権者優遇計画のことをあまり表沙汰にはしたくないのよ。だからこそマスコミにも圧力をかけている。そんな時にあんな事件でしょ。ひょっとしたら殺されたのかもしれない」
「……」
涼子の言葉に克行はぞっとした。
「ああ、そうだ」
涼子は思い出したようにつぶやいた。それは多少芝居がかったもので、実のところ涼子が今日克行を訪ねた一番大きな理由がそこにあったようだ。
「どうしたんだ?」
克行は涼子の言葉にどきりとして彼を見つめた。どんな形であれ、今役所に務める涼子の言葉は驚かされる。
そんな克行を満足気に眺めてから涼子は内ポケットから四つ折にされた一枚の用紙をぽいとテーブルの上に投げ出した。
「はい、お土産よ」
「土産?」
克行は涼子の表情に注意しながらその用紙を広げた。
用紙には5人の名前と住所、電話番号などの各自の情報が載っていた。おそらく市の住民ファイルからのコピーなのだろう。その5人のなかには克行自身の名前、さらに克行の仕事上の知り合いが二人、そしてあの立花の名前までもあった。
「これは……?」
おそるおそる克行は訪ねた。立花の名前があることでそれが非常に重要な意味のあることは察しがついている。
「わからない?」
いたずらっぽい目で涼子は克行を見た。
「まさか……」
克行ははっとした。
「そう、そのまさか。あなたの大事な彼女の名前の入ったリストを持つ者の名前よ。そいつらが彼女の命を握ってるわ」
あなたの大事な、そこの部分に力を込めて涼子は言った。
「これが……」
克行は改めて用紙を見つめた。さっきにも増してそこに書かれた名前が大きく見えた。何よりも立花の名前のあることが克行の心に暗い影を落としていた。
(役所で声をかけられたあの時からそういう運命だったのかもしれないな)
あの立花の狂ったようなにやついた笑いが脳裏に蘇ってくる。
「私のほうもいろいろと麻美さんを救う手段は考えてみる。だけど、最後の手段としてはあなたの持つ権利を使う以外ないかもしれないわね」
すでに涼子の顔からはあのいたずらっぽい笑みは消えている。
「ああ」
克行自身そのことはとてもよくわかっているつもりだった。もし涼子が調べてくれていなくてもそれでも何とかして麻美を狙う特権者を消し去るつもりでいたのだ。
「拳銃は?」
「え? ああ、あるよ」
克行はベッド脇の引き出しの奥から包みに包んだままの拳銃を取り出した。その拳銃の保管場所に涼子は不満を覚えたような目で言った。
「あと二日で特権者優遇計画が始まるわ。明日からはつねに銃を持ち歩くようにして。へたすると特権者のほうが特命者に命を狙われる可能性だってあるのよ」
「特権者が?」
「過去に偶然自分が特命者として登録されていることを知って、その特権者を殺したという例が二、三件あったって話を聞いたことがある。無理もないわ。誰だって殺されるよりは殺すほうがまだいいと思ってるのよ。克行も気をつけたほうがいいわ」
「殺されるよりも殺すほう……か。確かにそうかもしれないな」
克行はうつむいてつぶやいた。
「え?」
「殺されるよりも殺すほうがいい。その通りだ。俺だってこんな立場じゃなければ、配られたのがこんな特命者リストじゃなく、まったく知らない奴らの集まりだったならきっとそう思えただろう。誰だってそうだ、誰だって死にたいなんて思ってる奴なんているはずがないんだからな」
心のなかでまだ形になっていない不形成な気持ちまでもが激流のように克行の口から漏れた。それはまったく嘘偽りのない今の克行の気持ちだった。
「そんなこと考えちゃだめよ。今はただどうやって乗り切るかだけを考えなきゃ」
「考えてる、考えてるさ。けど、おまえからこの彼女の命を握っている奴らのリストをよこされた瞬間から俺の頭のなかにはこいつらをどうやって、いつ殺すか、そんなことばかりが浮かんでくるんだ。俺もあいつらと同じだ。人を殺すことを楽しんでいるあいつらと変わりないんだ!」
「……克行……」
涼子の手が克行の左手にそっと触れた。その感触に克行ははっとして顔をあげた。涼子の顔がすぐそこにあった。忘れていた学生時代の二人の姿がそこにあった。
――私、克行のことを忘れない。
別れ際に言った涼子の言葉がふっと脳裏をよぎった。
愛してる。
愛してる。
愛してる。
心があの頃へ引き戻される思いがした。
克行は必死にそれを否定しようとした。全ては終わったことだ、過去のことだと思いこもうとした。だが、出来なかった。
涼子の赤い唇が克行の唇に触れた瞬間、克行はほとんど本能的に涼子の体を抱きしめていた。やわらかなその感触はあの頃を彷彿させるのに十分だった。