死のクリスマスイブ・17
十七
すでに日は落ち、すっかり暗くなった街中を帰路に急ぐ人々が忙しなく歩いて行く。そのなかに混じって克行の姿があった。
比較的ゆっくりとした足取りで、克行はマンションに向かって歩いていた。買い物帰りの主婦やサラリーマンたちがすたすたと克行を追い抜いて行く。その姿があまりに忙しなく見え、いつもならこのなかに自分の姿があるのだろうと考えると可笑しくなり、克行はふと苦笑をもらした。他人のことには一切興味を持とうとしない自己中心的なその姿は今の克行にとって怒りを通り越して喜劇にすら思えていた。
「死」が「殺意」が人々を包んでいることに誰も気づいてはいない。皆、自分の生活のことだけを考えている。
死んでしまえばいい。皆、殺意の存在にすら気づかぬうちに死んでしまえばいい。
麻美の手のぬくもりが、彼女の優しさがまだ残っている。さっきまでの暗い気持ちが麻美に会ったことで少しやわらいでいた。いや、逆に自分のやったことに自信が持てたといってもいい。
自分のやったことは間違っていない。麻美がわかってくれる。誰もわかってくれなくても麻美だけはわかってくれる。それだけで十分だった。
今やまるで神を崇拝するかのように克行は麻美を思っていた。いや、そうでもしないとやりきれない思いがあった。どんなことをしても殺しを隠すことなど出来やしない。それならいっそ自分自身を騙しきるしかない。麻美のためにだけに行動すればいい。
麻美のためなら誰のことを敵にまわしたっていい。それに坂本にしても、波川にしてもあいつらは特権者だったのだ。人を殺す特権者だったんだ。彼らを殺すことは間違ってなどいなかったはずだ。
(やってやろうじゃないか)
自分に暗示をかけるように克行は何度もそのことを心のなかで繰り返した。そうすることで自分のなかにある罪の意識を振り払おうとしていた。
駅から十分、克行の住む薄いブルーのマンションが月の光を浴びてうっすらと白く見えている。すでにいくつもの部屋に明かりが灯り、克行の部屋の両側も明かりがついている。
克行はマンションに向かって歩いて行った。早く帰って眠ってしまいたかった。全てを過去のことと変えてしまいたかった。もちろんそんなことが出来るはずのないことを克行は知っていた。何よりも今夜、またあの男の声を聞かねばならない。特命者の死を伝えるあの声を。
昨夜までに克行のリストから削除された特命者の合計は八名となっていた。その中にはありがたいことにまだ克行の知る人間は入っていない。今夜、あの男の口から克行の知る人間の名前が出るかどうかそれはわからない。だが、今日克行がやったことについて何等かの忠告があるのではないかと克行は考えていた。あの二人は他市の指定ではあるが、それでも元をたどれば皆特権者は国の指定といえる。克行はその特権者を二人も殺している。忠告がないはずがなかった。
克行がマンションに近づくと、ふいに入口からジーンズに黒いジャンバー姿の若者が飛び出してくるのが見えた。何かに脅えているように何度も後ろを振り返り、どこかおどおどしている。克行は怪訝に思いながらも、それでもたいして気にも止めずにそのままマンションへ歩いて行った。若者はどうしていいかわからないように入口で少しの間うろうろしていたが、突然、回りを確かめることもなく走り出し、あやうく克行にぶつかりそうになった。
その瞬間、克行はその若者の顔に見覚えがあることに気づいた。若者のほうも驚いたように克行のことを一瞬ちらりと見たが、何の反応もしめそうとはしなかった。ただ、真っ青な若者の顔だけがやけに印象的に克行の頭にこびりついた。以前にどこかで見た記憶があった。
(誰だ?)
走り去る若者の背を眺めながら克行は思い出そうとした。思い出さなければいけないという意識が働いていた。
マンションの住人? いや、違う。彼を見たのはもっと別の場所だ。……どこで?
もっと何か大事な……
(そうだ!)
克行の心のなかに火花が散った。
あの若者の別の姿が克行の頭のなかにはっきりと蘇ってくる。
――みなさんは選ばれたのです!
市長の声が聞こえてくる。
あの部屋……。
そうだ、あの煙草の煙の充満したような部屋のなかだ!
あの若者を見たのがあの殺人者の群れのなかでだということが、今はっきりと思い出された。
若者の背中が人込みに消えて行く。
(いったいなぜあいつが?)
疑問の答えはすぐに克行自身で見つけることが出来た。今日見た二つの死体が頭のなかにくっきりと蘇っていた。そしてさらにもう一つの死体が予想出来た。
克行は走り出した。
「おじさん!」
克行はマンションに走り込むとすぐさま管理人室のドアを激しくノックした。予想した通り窓口には管理人の杉本の顔は見えない。部屋も暗く、中の様子を伺うことは出来ない。
「おじさん!」
窓口からもう一度呼んでみたが返事はなかった。だが、間違いなく誰かがいる、いや、いたような気配がしていた。
「おじさん?」
克行はドアノブをそっと回した。鍵は閉まっておらず、克行はドアを開くとゆっくりとなかへと入っていった。暗い部屋のなかに嫌な匂いがしていた。
――本日、除名者が記録されました。
早くもあの声が頭に響いている。
そっとざらつく壁に手を這わせ、電気のスイッチを捜した。そして、明かりが部屋に満ちた時、克行は思わず息を飲んだ。
部屋はぐちゃぐちゃに荒らされ、誰かが揉み合った形跡があった。窓ガラスは割れ、冷たい風が吹きこんでいる。とてつもない何かがそこで起こったことを克行は知った。そして、何よりも部屋の片隅に転がっている老人の姿がそれを物語っていた。
「お……おじさん!」
走りよって抱き起こした。
老人の顔からはいつもの微笑みは消え去り、恐怖の表情で固まっていた。皺だらけの顔からは生気は消え失せ、光のせいか青白く染まって見える。
――あなたのリストからの削除をお願いします。
うるさい! ちくしょう!
老人を抱える手にべっとりとした感触が伝わってくる。胸と背中はどす黒い血で染まっている。すでに息はなく、その体から急激に温もりが失われていくのが感じられた。
(こんな……)
急激に恐怖が襲ってきた。
今日、二人を殺した時にはこんな感じは受けなかった。それなのに、今自分が殺したわけでもないのに、なぜだか自分がこの哀れな老人を死に追いやったような気がしてならなかった。老人の体はやけに軽く、その軽さはまるで老人の命のようにさえ思えた。おそらくこの老人が死んだからといって悲しむ者などどこにもいないだろう。年齢から考えても死んでもおかしくはない。だからといってこんな死に方が許されるのか?
血に染まった老人の杖がむなしく転がっている。
部屋のなかは恐怖に包まれている。昼間とは違う襲われる側の恐怖。
克行はそっと老人の瞼をおろすと床に下ろした。自分の姿が老人の瞳に映っているような気がして嫌だった。
「……ちきしょう」
小さな呻き声が克行の口から漏れた。
今、克行の心にあるのは床に倒れている老人に対する哀れみなどではなかった。それ以上にさっき見た若者の姿が頭にちらついていて離れなかった。なぜだかあの若者が自分にとって大きな意味を持っているように感じていた。