「good-bye」
おはよう。
行ってきます。
ただいま。
お帰り。
こんな言葉を今まで幾度も口にしてきた。
彼は父親のようでもあり、兄のようでもあり、長い時を共に過ごしてきた一番の友人のようでもあった。
「……ただいま。調子はどう?」
学校から帰宅した僕はベッドの上で力なく横たわる彼に声をかける。
彼は苦しさからか、返事をしなかった。その代わりに、ほんの少しだけ視線を動かして僕を見た。
それを見て僕はちょっぴり安心する。よかった、まだ大丈夫だと。
しかし改めて彼を見てみると、その姿は思わず視線を逸らしたくなるものだった。
肉は削げ、頬はこけ、骨が浮きだし、表情は力なく、もはや身動きを取ることもできない。
かつての若々しく、生気に満ち溢れた彼はもはやどこにも存在しない。
「…………ッ!」
彼の昔を思い出すと同時に一緒に過ごしてきた思い出が溢れだしそうになる。なんとか思い出の扉に鍵をかけて、目元からも溢れそうになったものも閉じ込める。
ゴシゴシと目元を服の裾で拭う。擦れた目元は赤くなった。
僕はまるで今にも壊れてしまいそうなものに触れるかのように彼に手を伸ばした。
トクン、トクン。
彼の心臓の音が手のひら越しに伝わる。
……なんて、弱々しい。
彼からそっと手を離し、
「また後で来るから」
そう言って僕は彼の元から去った。
以前から両親に彼はもう長くないと話をされていた。
僕はそんなはずはないと、駄々をこねて目の前で起こっている現実を受け入れようとしなかった。
……子供だったのだ。
今なら分かる。彼はあの時にはもう限界だった。
その夜、僕は彼と共に寝ることにした。隣で眠る彼の体温を肌で感じる。
そういえば、僕が赤ちゃんの時にも彼はこうして隣にいてくれたっけ。
まだ僕が赤ちゃんの時の写真に彼と僕が一緒に写っているものが一枚ある。何も考えずに呑気に寝ている僕を見守るように、彼は優しい目をして僕の隣にいてくれた。
本当に優しい、優しい目をしていた。
もう十数年も前の事なのに……。
まだ幼かった自分にとっては覚えもない出来事だったのに……。
今になって……思い出す。
駄目だ、早く寝ないと。
思い出の波が押し寄せる前に暗い海へと潜っていく。
意識は、すぐに消えた。
朝日の明るさによって意識を水面上に引き上げられた。
目を開けると彼の顔が見えた。浅くだが呼吸をしている。
まだ、生きてた。
時計を見ると学校に行くまであまり時間が残されていなかった。自室に戻り、制服に着替えて出かける準備をする。
「じゃあ、行って来る」
家を出る時間が来たため、後ろ髪を引かれる思いを抱きながら僕は彼に声をかける。玄関の扉に手を掛け、まさに外に出ようとしたその時、
「--------」
彼の声が聞こえた。
ほとんどかすれ声だったが、確かに返事をしたのだ。
「……行って、きます」
僕は唇を噛みながらもう一度出かけの挨拶を口にした。
これが彼と交わした最後のやりとりだった。
あの後、学校から帰ってきた僕を待っていたのは冷たくなった彼の身体と、家中に漂うお香の匂いだった。
ああ、彼は逝ってしまった。そう理解すると自然と涙が流れだした。
止まらない、止まらない。拭いても拭いても止まらない。
走馬灯のように彼と過ごした長い時の思い出が一つ一つ蘇る。
幼い僕の傍で一緒に寝ていた彼。
新しい家族が増えて、しばらくふてくされて八つ当たりをしていた彼。
旅行に出た僕と両親の代わりに留守番をしてくれていた彼。
身体を覆う白い毛は他の何よりも純粋で神聖だった。
大好きだった。もっと一緒に過ごしたかった。これから成長する僕を見ていて欲しかった。
だけど、さようなら。キミはもういない。別れの時が来てしまった。
バイバイ、僕の大好きな家族。
そして、願わくは…………いつかまた。
このお話は自分が子供だったときの話を基にして書いています。
結論を書いてしまうとここで登場する彼というのは猫のことなのですが、本当に長い間一緒に暮らしてきたため、猫として接したことは余りありませんでした。生まれたときから一緒にいたので……。
彼が死んでしまったときは正直悲しさのあまりペットロスになるところでした。その影響か知りませんが、このときからずいぶん時が経った今でもお香の匂いをかぐと体が一瞬硬直してしまいます。
ですが、彼との出会いがあったからこそ色々な経験ができたし、来世というものがあるなら別の形でもまた彼に出会いたいなと常に思っています。