瀬戸の要石
1
5月初旬、月曜日の朝。
東京メトロ半蔵門線の車内には、無表情でスマートフォンを眺めるサラリーマン、観光ガイドブックを広げる外国人家族、几帳面なノートに目を落とす学生たちが、それぞれの静かな時間を抱えたまま揺られていた。
大手町駅に滑り込んだ電車が止まりドアが開くと、乗客たちはゆっくりと立ち上がり穏やかな流れでホームへ降りていく。その中に、ネイビーのスーツを着た男の姿があった。週末の余韻がまだ体のどこかに残っているのか、彼の歩調だけが周囲よりわずかに柔らかい。
彼は、巷の商社マンのイメージにあるような、真っ黒にゴルフ焼けをしたタイプではない。週末は、高校生と大学生になった二人の子供たちを連れて、渋谷の広くてゆったりとした眺め良いカフェで過ごすのが常だった。親離れという言葉を忘れたかのように素直な彼らと同じテーブルで、各々が教科書や資料を広げて黙々と勉強する。時折、運ばれていくカフェオレの香りに顔を上げ、言葉を交わさずとも通じ合う柔らかな沈黙。それが、彼にとっての最も贅沢な休息だった。
彼は周囲の人間よりは少し遅いテンポで、足早に進む周囲の人々の足音を聞きながらエスカレーターを昇る。コンクリートの床を打つ、カツ、カツ、カツという音。そのリズムは、地下道に響き渡る何千という足音の波に、波の花のように溶けて消えた。
長いエスカレーターを上り、地上へと出た瞬間、青く澄み渡った大手町の空、高層ビルの巨大なガラス壁に乱反射した柔らかくも鋭い朝陽が、彼の瞼を少しだけおろした。
「……まぶしいな」
彼は小さく呟き、反射的に目を細めた。その瞬間、世界の輪郭が熱を帯びてわずかに歪み、現実の層が剥がれ落ちた。強烈な光の粒子は、大手町のグレーのビル群を透過し、彼の意識を別の場所、別の時間へと引きずり出していく。
ビルの窓で反射した光は、いつしか泥水を張った水面で踊る無数の細かな鱗光へと姿を変えていた。道を走る黒い商用車のエンジン音は、遠くで響くトラクターの低いエンジン音にすり替わり、朝の空気に混じったアスファルトの匂いの代わりに、青々とした井草の香りと、少し泥臭い、懐かしい土の匂いが鼻腔をくすぐった。
そこは広島県福山市、瀬戸町。 まだ世界が今よりずっとシンプルで、すべての秘密が太陽の下に無防備に晒されていた、初夏の田んぼ道だ。
2
広島県福山市、瀬戸町。 瀬戸内海の穏やかな潮風が、なだらかな丘陵地を撫でるように吹き抜けるこの町に、波多野家はある。
古くて細い、傾斜のきつい路地をそろそろと上っていくと、その先に、周囲の農家とは少し趣の異なる立派な門構えが右手に現れる。そこへ車で進入するのは、ちょっとした運転教習のクランクテストのようなものだ。乗用車が右折して、門の柱をミリ単位で擦り抜けるようにギリギリで入り込むと、ようやく波多野家の敷地が口を開ける。
家を守る門の先、右側に鎮座しているのが、その家の主の城である大きな納屋だ。トラクターから手入れの行き届いた古いクワまで、農機具が所狭しと並んでいる。左側に目を向ければ、主が農作業の合間に丹精込めて――時に農作物以上に神経を尖らせて――育て上げている、見事な枝ぶりの盆栽たちが並ぶ庭が広がっていた。
母屋の裏手に回ると、夏になればスイカやトマトを冷やすのに重宝する古い井戸が、今も現役で冷たい水を湛えている。さらにその奥、裏門を抜けた先には小さな祠がひっそりと建っており、波多野家の子供たちにとっては、格好のジャングルジム代わりだった。
右折ギリギリの門、整然とした納屋、手入れされた盆栽、そして裏の祠。 それは、几帳面で厳格な専業農家の父と、そんな父を不揃いなよもぎ餅で丸め込む母が作り上げた、少し窮屈で、けれど完璧な調和を保つ箱庭のような空間だった。
長女の潤子、次女の弥生、そして三女の綾子。 波多野家の三姉妹は、この箱庭の中で、それぞれに全く異なるベクトルへと成長を遂げた。
長女の潤子は、祠の屋根に誰よりも高く登り、常にこの狭い路地の先にある「外の世界」を見つめていた。彼女は美しく、そしてこの瀬戸町の箱庭には収まりきらないほどの野心を秘めていた。
三女の綾子は、盆栽の土や井戸の底に潜む「見えないもの」と対話するような、不思議な子供だった。彼女の視界は常に現実から数センチ浮き上がっており、大人が気づかない世界のほころびを、青いビー玉越しにじっと観察していた。
そして次女の弥生はといえば――彼女は、祠から飛び降りる潤子を笑って受け止め、井戸を覗き込む綾子の背中を泥だらけになって守るような、底抜けに快活で聡明な少女だった。気難しい父が車で狭い門を抜けようと四苦八苦していれば、「お父さん、あと三センチ右!」とよく通る元気な声で的確に誘導し、納屋で農機具が故障すれば、あっという間にその仕組みを理解して修理の手伝いを買って出る。どんな厄介な問題が起きても、持ち前の頭の回転の速さと明るさで、パズルを解くように前向きに解決していく。「面倒なことほど、知恵と工夫で面白く乗り越える」 それが、後に瀬戸内信用金庫の窓口で、誰からも好かれる頼もしいエースとして活躍することになる弥生の、根っからの気質だった。
少女時代の弥生の朝は、タイムトライアルのような緊迫感とともに幕を開ける。
十歳の弥生にとって最大のミッションは、五歳下の三女・綾子を幼稚園へ連行することだった。マイペースを絵に描いたような綾子は、幼稚園の門柱が見えた瞬間にピタリと足を止め、無言のまま文鎮のように重くなるのが日課だった。
「綾子、お願いだから入って。お姉ちゃん、小学校のチャイムが鳴っちゃう」
弥生が腕を引っ張っても、綾子は虚空を見つめたままテコでも動かない。弥生の頭の中で、小学校までの距離と自分の走力が猛烈な勢いで計算される。タイムリミットまであと三分。絶望的な数字が弾き出されたその時、門の奥から「あやこちゃーん、おはよう!」と神の使いのような笑顔で幼稚園の先生が駆け寄ってくる。先生が綾子の手を引いた瞬間、弥生は「よろしくお願いします!」と叫ぶが早いか、ランドセルを揺らして小学校へと全力疾走するのだった。
そんな弥生が「物理法則の残酷さ」を身をもって知ったのは、幼稚園の送迎が始まる少し前のことだ。波多野家の玄関を出て左に曲がると、そこは細い下り坂になっていた。ある日、自転車に乗って勢いよく家を飛び出した弥生は、下り坂の途中でブレーキの利きが甘いことに気がついた。ペダルから足を離しても、自転車は猛スピードで坂を下っていく。
坂の終わりは、無情にもT字路になっていた。 右に曲がるか、左に曲がるか。しかし、弥生の冷静な頭脳は「このスピードでは曲がりきれない」という冷酷な結論をあっさりと弾き出した。諦観とともにハンドルをまっすぐ握りしめた彼女は、そのままT字路を突き抜け、水を張ったばかりの田んぼへと見事にダイブした。泥まみれになって顔を上げ、すぐ目の前で驚いてフリーズしているカエルと目が合った時、弥生は「勢いだけで生きてはいけない。事前の点検と合理的な判断が身を助ける」と深く悟ったのだった。
そんなドタバタの日常の中、学校から帰ると三姉妹には過酷な労働が待っていた。
波多野家は代々続く農家で、米と井草の二毛作を行っていた。田植えや稲刈り、そして畳の表になる井草の収穫時期ともなれば、猫の手も、当然娘たちの手も容赦なく駆り出された。
長女の潤子は、容姿端麗な美形で泥にまみれるのを誰よりも嫌がったが、いざ手伝いとなれば持ち前の器用さと思い切りの良さで、誰よりも早く苗を植え終えてしまう。三女の綾子は小さいころは畔道でカエルを突っついて遊んでいるだけだったが、次女の弥生は違った。彼女は泥だらけになりながら、どうすれば最小の歩数で効率よく井草を刈り取れるかという「作業の手順」ばかりを考えていた。
夕暮れ時、泥を落として家に上がると、台所からは母がすり鉢で何かを搗く、ドス、ドス、という鈍い音が響いていた。春先になると、母はよく土手でよもぎを摘み、手作りのよもぎ餅をこしらえた。出来上がったよもぎ餅は、和菓子屋に並んでいるような真ん丸なものではなく、いびつで、大きさが不揃いなものばかりだった。
「お母さん、これ、形がバラバラだよ」
弥生が指差すと、母はきな粉の入ったボウルにいびつな餅を転がしながら、穏やかに微笑んだ。「いいのよ、弥生。形は不揃いでもね、こうして何度も何度も一緒に搗き込んでいくと、よもぎの強い苦味と、もち米の甘さが、ちゃーんと一つになって美味しくなるんだから」
母の手から生み出されるよもぎ餅は、口に入れると野性味あふれる香りが広がり、確かな調和を持って喉の奥へと落ちていった。
その時、玄関の引き戸が乱暴に開いた。土の匂いを纏った、父の重い足音が響く。父は、絵に描いたような厳格で昔気質の農家の親父だった。自分の定めた規律が少しでも破られることを許さない男だ。
「弥生。脱いだ靴がずれている。並べ直せ」
父の太い声が家の中に響く。弥生は台所から土間へ戻り、自分の脱ぎ捨てたスニーカーを覗き込んだ。 「ずれてるって……ほんのちょっとじゃん」と心の中で毒づく。
しかし、ここで反論してはいけない。波多野家において、父の不機嫌が閾値を超えた時、何が起きるかを弥生は熟知していた。父は言葉で論議するタイプの人間ではない。機嫌を損ねれば、夕食の席で文字通り「ちゃぶ台」が宙を舞うのだ。過去に何度、豆腐の味噌汁や煮魚が物理法則を無視して放物線を描き、畳の上(皮肉にも自作の井草である)に散乱したことか。
弥生は、あのT字路での田んぼダイブの記憶と、ちゃぶ台がひっくり返る軌道を脳内で重ね合わせ、黙ってつま先を揃え直した。
理不尽なほどの絶対的権力でちゃぶ台を返す父と、不揃いなよもぎ餅の中に調和を見出す母。その二つの極端な環境の間で、弥生は「感情を無駄遣いせず、現実的かつ平穏に世界を渡り歩く」という独自の生存戦略を身につけていった。
その戦略が洗練されていったのは、彼女が地元の県立高校に進学してからのことだ。
弥生の高校生活は、毎朝の満員電車から始まった。山陽本線のすし詰めの車両の中で、彼女は決してイライラすることなく、周囲の乗客の体格と人の流れを観察し、最も圧迫を受けないポジションを確保する達人になっていた。
そんな彼女が選んだ部活は「計算尺部」だった。まだ電卓が完全に普及しきっていなかった時代、目盛りをスライドさせて計算を解くそのアナログな道具は、手先を動かしながら順序立てて物事を考える弥生の気質に合っていたらしく、彼女は大会で賞を取るほどになっていた。ゴリゴリの理系というわけではなかったが、物事をパズルみたいに整理するのが好きだったのだ。
ある月曜日の朝、弥生が満員電車を降り、駅から続く坂道を登って校門に着いた時のことだ。 校門の前には、生活指導の体育教師・猪俣が、獲物を待つ古い重機のように立ち塞がっていた。猪俣は校則という名の「古い設計図」を盲信する男だった。
「おい、波多野! 止まれ!」
猪俣の咆哮が響き、弥生の持つ通学カバンを竹尺で指し示した。
「お前、カバンの持ち手が長すぎるぞ。だらしがない。規定通りに短く詰めろ」
ちゃぶ台をひっくり返すという究極の理不尽(父)を日常的にやり過ごしている弥生にとって、猪俣の言葉による威嚇はそよ風のようなものだった。彼女は面倒くさそうに溜息をつくこともなく、少し困ったような、しかし理路整然としたトーンで口を開いた。
「先生、これには切実な理由があるんです」
弥生は、持ち手を短くした状態を想定して、カバンを胸の高さにギュッと抱え込んでみせた。
「私は毎日、ぎゅうぎゅうの満員電車で通学しています。この高さでカバンを持つと、私の肋骨が押し潰されて苦しいだけでなく、隣に立つ見知らぬサラリーマンの背中をカバンの角で容赦なく攻撃してしまうんです。持ち手を少し長くして、他人の邪魔にならない足元に下ろすことで、お互いに平和な朝を過ごせるんです」
「えっ……」
「校則も大事ですけど、朝の山陽本線の平和も大事だと思いませんか? 誰かを攻撃したくて長くしているわけじゃないんです」
計算尺で理論武装してくるかと思いきや、「他者への配慮」という大義名分を柔らかな口調で突きつけられ、猪俣は完全に毒気を抜かれてしまった。
「あー……まあ、電車の中ではそうかもしれないが……学校に着いたら短く持つように意識しろよ」
「はい、気をつけます」
言葉とは裏腹に全く直す気のない声でそう残し、弥生は呆然とする猪俣の横をすり抜けた。
そんな弥生のしなやかな世渡り術すらも吹き飛ばす、我が家の「大ちゃぶ台返し事件」が起きるのは、それから間もなくのことだった。
それは、あの泥まみれの農作業を誰よりも嫌っていた長女の潤子が、突然、見たこともないような細身のスーツを着た都会の男を、農家の土間に連れてきた夜から始まった。
弥生は、その夜の食卓の空気を一生忘れないだろう。 母が振る舞ったよもぎ餅はいつになく苦く、父の目の前にあるちゃぶ台は、今にも成層圏に向けて発射されそうなほどの、恐ろしい静寂を保っていた。
3
それから数年の時が流れ、時代は昭和の後期を迎えていた。
「感情を無駄遣いせず、現実的かつ平穏に世界を渡り歩く」という弥生の生存戦略は、社会に出てからも大いに役立っていた。彼女の就職先は「瀬戸内信用金庫」——地元では親しみを込めて「瀬戸内信金」と呼ばれる、地域密着型の金融機関である。
計算尺で鍛え上げた数字に対する並外れた嗅覚と、ちゃぶ台をひっくり返す父の元で培われた「理不尽な上司に対するスルー力」を持つ弥生にとって、信金の窓口業務は天職とも言えた。カチャカチャと響く黒電話の音、カーボン紙の伝票の匂い、そして昼休みになると男性行員たちがデスクで吸い始めるハイライトの煙。そんな昭和の職場の喧騒の中で、彼女は今日も冷静に数字と客を観察していた。
その年、日本の貨幣の歴史にちょっとした事件が起きた。 四月、長年親しまれてきた岩倉具視の五百円札に代わり、新しく「五百円硬貨」が発行されたのだ。
ズシリと重く、白銅の鈍い光を放つその巨大な硬貨は、まだ世間に馴染んでいなかった。「財布が重くなる」と文句を言うお年寄りや、珍しがって無駄に両替したがる子どもたち。そんな過渡期の混乱の中で、のちに瀬戸内信金芦田川支店の語り草となる「五百円玉事件」は起きた。
ある金曜日の午後三時。 シャッターが下ろされ、客のいなくなった店内で、現金と伝票の照合を行う「締め」の作業が始まった。通常なら三十分ほどで終わるはずのこの作業が、今日に限って終わらない。
「合わん……。現金が、どうしても合わんぞ!」
支店長の悲痛な叫び声が、静まり返ったフロアに響き渡った。フロアの空気は一瞬にして凍りつき、行員たちの顔から血の気が引いた。銀行や信金において「一円でも帳尻が合わない」ことは、帰宅が許されない無間地獄の始まりを意味する。
「いくら足りないんですか?」 中堅の男性行員が、ハンカチで額の汗を拭いながら尋ねた。
「……三千六百円だ。現金が三千六百円、不足しとる!」
行員たちが総出でゴミ箱の中までひっくり返し、机の下を這いつくばって小銭を探し始めた。しかし、弥生だけは自分のデスクに座ったまま、冷静に手元の計算機(そろそろ電卓が普及し始めていたが、彼女は頭の中で計算する方が早かった)を弾いていた。
(三千六百円……中途半端な数字。札の数え間違いなら千円単位になるはず。小銭を三千六百円分も落として誰も気づかないなんてことは、物理的にあり得ない)
弥生は、今日一日の窓口でのやり取りを、まるでビデオテープを巻き戻すように脳内で再生し始めた。そして「三千六百円」という数字の因数分解に思い至った時、彼女の頭の中でカチリと論理の歯車が噛み合った。
「支店長」
這いつくばって床を這う上司たちを尻目に、弥生は静かに立ち上がった。
「現金は、どこにも落ちていません。探すだけ無駄です」 「な、何を馬鹿なことを言っとるんだ波多野君!現金が合わないんだぞ!」 「ええ。ですが、原因は『紛失』ではなく『錯覚』です」
弥生は支店長の机まで歩み寄り、伝票の束を一枚だけ抜き出した。それは午後二時頃に、近所の駄菓子屋の店主が持ってきた両替の伝票だった。
「この駄菓子屋のおじさん、売上の小銭を紙の筒に巻いて持ち込みましたよね。百円玉を五十枚、五千円分ということで処理されています」
「それがどうした。機械に流して数えたはずだぞ」 「ええ、機械は正直です。でも、人間の目はそうじゃない」
弥生は、引き出しの中から今日入ってきたばかりの真新しい五百円玉と、百円玉を並べて支店長に見せた。
「発行されたばかりの五百円玉は、百円玉より少し大きく、厚みもあります。しかし、大量の小銭と一緒に筒状に巻かれてしまえば、忙しい窓口の目視では百円玉の塊と見分けがつきにくい」
「ま、まさか……」 「百円玉と五百円玉の差額は、四百円です」
弥生は淡々と事実を突きつけた。「仮に、駄菓子屋のおじさんが、百円玉の束の中に間違えて五百円玉を混ぜて巻いてしまったとします。四百円の差額が九枚分で、三千六百円。つまり、現金が足りないのではなく、お客様が『間違えて多く持ち込んだ五百円玉』を、私たちが『百円玉』として処理してしまったがゆえに生じた、帳簿上のマイナスです。小銭の束の中に、百円玉のふりをした五百円玉が九枚、紛れ込んでいます」
フロアが水を打ったように静まり返った。 慌てて小銭の集計機を開け、百円玉の山を調べ直した男性行員が、「ああっ!」と声を上げた。
「ありました……! 真新しい五百円玉が、九枚……!」
安堵のあまりへたり込む支店長を横目に、弥生は「感情を無駄遣いしなくてよかった」と心の中で小さく呟き、自分のデスクの片付けを始めた。父のちゃぶ台返しを予測するより、よっぽど簡単な計算だった。
「波多野君、君は……信金に置いておくには惜しい頭をしているな」 息を吹き返した支店長が、感心したように言った。
弥生は曖昧に微笑んだだけだった。信金の窓口は、人々の生活の「因果関係」が数字となって現れる面白い場所だったが、彼女自身、この平穏な日常がいつまでも続くとは思っていなかった。
その予感は、終業を告げる五時のチャイムとほぼ同時に鳴った、彼女のデスクの電話によって現実のものとなる。
『福山東署の者ですが。波多野弥生さんですね?』 電話の向こうの男は、ひどく事務的な声だった。 『突然ですみません。実は先ほど、鞆の浦のフェリー乗り場付近で、若い女性が保護されまして。あなたのお名前と職場の電話番号だけをずっと繰り返しているんです』
あの大ちゃぶ台返しの一件以来、どこか別の宇宙を浮遊するようになってしまった三女の綾子。現在は実家の農作業を手伝いながらのんびり暮らしているはずの彼女が、平日の夕方に鞆の浦で保護される理由など、全く見当がつかない。
平和な昭和の日常に投げ込まれた、小さな謎の小石。 瀬戸内海を舞台にした奇妙なミステリーの幕は、こうしてひっそりと上がったのである。
4
瀬戸内信金のロゴがドアにプリントされた、年季の入った社用車のカローラは、まるで慢性気管支炎を患った爺さんのように、坂道にかかるたびに低く湿った咳払いをした。
ハンドルを握る弥生は、窓を少しだけ開けていた。エアコンの吹き出し口から吐き出されるカビと埃のブレンド風よりも、外から流れ込んでくる初夏の生温かい潮風の方が、幾分か肺の健康に良さそうだったからだ。
あの大ちゃぶ台返しの一件以来、どこか別の宇宙を浮遊するようになってしまった三女が、なぜ平日の夕方に鞆の浦の交番で保護されているのか。 警察からの電話を受けた時の支店長のパニックぶりたるや、預金残高が三桁間違っていた時以上の慌てようだった。「波、波多野君!警察から電話だ!君、ついに計算のしすぎで何か法に触れる錬金術でも開発したのか!」と叫ぶ上司を「ただの身内のお迎えです。あと、錬金術は物理法則に反するので信金の窓口では扱いません」と冷徹に切り捨ててきた弥生だったが、内心の首の傾げ具合は支店長と大差なかった。
沼隈半島を南下し、県道が大きく右へカーブを描いた瞬間、視界が一気に開けた。 思わず、弥生は「はぁ」と小さく息を漏らした。
そこは、江戸時代から「潮待ちの港」として栄えた歴史ある港町、鞆の浦だった。時刻は午後五時を少し回ったところ。傾きかけた太陽が、瀬戸内の凪いだ海面を、まるで職人が鍋で溶かした飴細工のように、とろりとした黄金色に染め上げている。太平洋の荒波とは無縁のこの海は、波というよりは、巨大なみずのかたまりがゆっくりと深呼吸をしているような静かなうねりを見せるだけだった。
目の前に浮かぶ仙酔島や弁天島のシルエットが、まるで印象派の画家が重厚な油絵の具をべったりと塗りつけたように、海と空の境界線に鈍く張り付いていた。黄金の海面と、深い緑の木々、そして茜色から紫へとグラデーションを描く空。それらが調和し、一枚の完璧な絵画としてそこにあるようだった。観光客がわざわざ遠方からカメラを提げてやってくるのも頷ける絶景だった。もっとも、信金のタイトスカートを履いて汗ばんでいる弥生からすれば「この風景を担保に融資を引けないかしら」という極めて実務的な感想が先に立ってしまうのだが。
カローラを港の隅に停め、小さな交番へ向かうと、そこにはパイプ椅子にちょこんと座り、出された麦茶のグラスの結露を指でなぞっている綾子の姿があった。
「綾子、何しとんの。こんな所まで一人で来て」 弥生の声に、綾子はゆっくりと視線を上げた。 「……お姉ちゃん。海が、少しだけ高かったの」 「海が高い?竹馬にでも乗ってたわけ?」 「ううん。波の音が、いつもより耳の近くで聞こえたから。だから、見に来たの」
交番の若い巡査が、困惑と安堵が入り混じった顔で近寄ってきた。「いやあ、お姉さんですか。助かりました。この子、フェリー乗り場の先の雁木のところで、ずっと海を見つめて突っ立っとったんです。海に飛び込むんじゃないかとヒヤヒヤしましてね。誰かが話しかけても『姉が瀬戸内信金にいます。姉の計算は間違えません』としか言わんもんで。すっかり信金さんの宣伝塔みたいになっとりましたよ」 「すみません、お騒がせしました。全く、うちの妹は計算どころか、足し算の途中で宇宙の真理について考え始めるタイプなもので」
弥生は巡査に愛想笑いを浮かべて頭を下げると、綾子の腕を引いて外へ出た。 すぐに車に乗せようとしたが、綾子は交番の前の石畳に足を止めたまま、頑として首を横に振った。
「帰る前に、行かなきゃいけないところがあるの」 「どこへ?」 「お父さんの、匂いがする場所」
言うが早いか、綾子はふらふらと港の方へ歩き出した。弥生は小さくため息をつき、「やれやれ、今日の残業代は妹の護衛任務か」と内心でぼやきながら、その後を追った。
二人は、観光客がまばらになり始めた鞆の浦の海沿いを歩いた。雁木と呼ばれる、潮の満ち引きに合わせてどこからでも船に乗降できる階段状の古い石造りの船着き場が、美しい弧を描いて海に続いている。その突端には、街のシンボルである巨大な石の常夜灯が、来るべき夜に備えて静かにそびえ立っていた。
「綾子、お父さんの匂いって何よ。お父さんは今頃、瀬戸町の田んぼでトラクターに乗って『今日の泥は少し粘り気が足りん!』とか文句を言ってる時間でしょ」弥生が背後から声をかけるが、綾子は答えない。
彼女は海沿いの道をはずれ、山側へと続く、日陰になった細い裏路地へと足を踏み入れた。 一歩路地に入ると、そこはまるで別の時代に迷い込んだかのような空間だった。すれ違うのもやっとの狭い路地は、表面を黒く焦がして防虫防腐処理を施した「焼杉」の板張りの家屋と、真っ白な漆喰、そして瓦を平らに並べて目地を漆喰でかまぼこ型に盛り上げた「なまこ壁」に挟まれ、迷路のように入り組んでいる。
足元の石畳は、何百年という途方もない時間の中で、人々の草履や下駄、そして長年の雨風によって角が取れ、つるりと丸く削られていた。ヒールの低いパンプスで歩く弥生の足裏に、その石の滑らかな感触がダイレクトに伝わってくる。 太陽の光が届かない路地の底には、ひんやりとした空気が淀んでいた。そこへ、どこかの軒先から、漢方薬と砂糖を煮詰めたような、甘く、そしてほんのりとスパイシーな香りが漂ってくる。
「……保命酒の匂い」 弥生は鼻をひくつかせた。鞆の浦名産の、大人をいい気分にさせる甘い薬命酒だ。古い木材の匂いと、海風の塩気、そしてこの保命酒の甘い香りがブレンドされ、この街特有の「生きた琥珀」のような空気を醸し出している。路地の片隅では、この街の真の権力者であるかのような面構えのサビ猫が、闖入者である姉妹を面倒くさそうに一瞥し、あくびをした。
「観光パンフレットなら『ノスタルジックな風情』って書くんでしょうけど。タイトスカートで歩くには、単なる足首捻挫のトラップね」弥生がぼやきながら角を曲がると、綾子が崩れかけた古い石垣の前でピタリと足を止めていた。
「どうしたの?」 綾子はしゃがみ込み、石垣の下を通る乾いた側溝の隙間に顔を近づけた。 「……ここ、息が止まりそう」彼女の目は、何かひどく恐ろしいものでも見るかのように、足元の石畳を見つめている。「海じゃないの。陸の方から、変な色の水が流れてくるよ。透明なんだけど、ここにある匂いや色を、全部真っ白に漂白しちゃうみたいな、冷たい水」
当然ながら、足元の側溝は乾ききっており、水など一滴も流れていない。しかし、綾子のこの感覚的な言葉には、いつも何かの事実が隠されている。
綾子はブラウスのポケットから、中に青い螺旋の模様が入ったガラスのビー玉を取り出した。彼女はそれをためらうことなく、側溝の暗がりへと落とした。
カラ、コロ……カツン。軽快な音が響き、ビー玉は泥と枯れ葉の奥深くへと消えた。
「ちょっと、それお気に入りじゃなかったの?」 「今のうちに、隠しておかないと。泥の中にいる神様が、息できなくなっちゃうから」
綾子はそう言うと、ブラウスの裾の土を払い、再び歩き出した。やがて彼女が立ち止まったのは、江戸時代から続くという豪商の古い土蔵の裏手にひっそりと建つ、トタン屋根の小さな作業小屋の前だった。朽ちかけた木材で組まれたその小屋は、波多野家がかつて鞆の浦の網元とやり取りをしていた頃の名残で、父が古い農機具や、特殊な井草の苗を保管するために使っている「秘密基地」のような場所だった。
南京錠がかかっているはずの木の扉は、なぜか半開きになっていた。
「……ちょっと待って。空き巣?」
弥生は路地に落ちていた手頃な木の枝を拾い(信金職員としての防犯マニュアルにはない行動だが)、慎重に扉を開けた。小屋の中は、古い土と、乾燥した井草のむせ返るような匂いが充満していた。薄暗い室内に目を凝らすと、そこが激しく荒らされているわけではないことがすぐに分かった。錆びたクワや手作りの編み台は元の場所にあるし、奥に積まれた高価な肥料の袋も手付かずだ。
しかし、部屋の片隅にあったはずの、父が大切にしていた「古いブリキの茶箱」だけが、ぽっかりと姿を消していた。
「盗まれた……?肥料じゃなくて、あの古臭い箱を?」弥生は木の枝を置き、土間にしゃがみ込んだ。衣装ケースが置かれていた場所の土の表面をじっと観察する。
「単なる泥棒じゃないわね。金目のものには一切手がつけられていない。それに、この足跡」
弥生の視線の先には、土間に残された真新しい靴跡があった。父の地下足袋の跡ではない。男物の革靴でもない。少しヒールのある、女性の靴跡だ。弥生の頭の中で、愛用の計算尺がカチリと音を立てた。右と左の靴跡の深さ、そして歩幅のバランスが、わずかに崩れている。右足の踏み込みが、数ミリだけ浅いのだ。
「……潤子姉ちゃんだわ」
弥生は呆れたように息を吐いた。潤子は小学生の時、田んぼのあぜ道で巨大なウシガエルを追いかけて右足首を派手に捻挫したことがある。普段は全く分からないが、重いものを持ったり、急いで歩いたりすると、右足の踏み込みがわずかに浅くなるという癖があった。その「ウシガエルの呪い」とも言える不揃いなリズムを、弥生が見逃すはずはなかった。
「潤子姉ちゃんが、お父さんのブリキの箱を?東京に家出して都会の女になったはずなのに、わざわざこんな田舎の小屋に泥棒に入ったの?」 綾子が不思議そうに小首を傾げた。
「あの箱の中に何が入っていたか、知ってる?」 弥生は立ち上がり、入り口から差し込む夕光の角度を目で測った。犯行時刻はそう遠くない。
「古い井草の種でしょ? お父さんが、もう二度と作れないって言ってた」
「種だけじゃないわ。お父さんの『若気の至りの黒歴史コレクション』よ」
弥生の脳裏に、かつて父が酒に酔った夜、一度だけ見せてくれた古い半紙の束の記憶が蘇った。それは、戦後の混乱期から高度経済成長期にかけて、干拓や水利権を巡る激しい争いがあった際、父が周囲の農家たちと裏で結んだ「手書きの合意書」の数々だった。『上流の堰の開け閉めは、県の条例に関わらず満月の夜に波多野の裁量に委ねる』『南側のあぜ道の耕作権は、登記上の所有者を無視して村の共有とする』といった、現代の法体系から見れば突っ込みどころ満載の、土着の暗黙のルール。父は、法律や効率では割り切れない「農村の平穏」を守るため、自ら非合法な契約の責任者としてハンコを押し続けてきたのだ。
「潤子姉ちゃんは、それを持ち去ったのよ」弥生は、土間に落ちていた小さな欠片を拾い上げた。それは、微かに焦げたような匂いがする、乾燥しきった不揃いなよもぎ餅のカスだった。母の特製よもぎ餅だ。
「どうしてそんな古い紙を?」 「さあね。自分が家を出たついでに、お父さんを縛り付けている古臭いしがらみも全部ゴミ箱に捨ててやろう、という姉ちゃんなりの『壮大な大掃除』のつもりかもしれないわね」
弥生は肩をすくめた。 東京で華やかな生活を送っているはずの姉が、わざわざ新幹線に乗って帰ってきて、田舎の小屋から父親の黒歴史ファイルを盗み出す。全くもって非合理極まりない行動だ。姉は地元の農業協同組合でも脅迫するつもりなのだろうか。
「でもね、姉ちゃん。計算が甘いわ」 弥生は、手の中のよもぎのカスを握りしめた。 「お父さんが溜め込んだその『厄介で不揃いな紙切れ』は、ただのゴミじゃない。法律の枠に収まらない泥臭い歴史は、時に信金の窓口でも処理しきれないほどの、凄まじい力を発揮するんだから」
これが、瀬戸内の島々を揺るがす大きな事件の「最強の切り札」になることを、この時の弥生はまだ完全に計算しきれてはいなかった。
「……お姉ちゃん、海が夜になっちゃう」
綾子の声にはっと外を見ると、常夜灯に明かりが灯り始めていた。鞆の浦の空が、黄金色から深い群青色へと急速に沈んでいく。満ちてきた潮が、雁木の石段をひたひたと打ち始めている。
弥生は小屋の扉を閉め、南京錠を元通りにかけた。「帰ろう、綾子。今日はとりあえず、お父さんには内緒よ。あんなの知れたら、今度は家中のちゃぶ台というちゃぶ台が空を舞うことになるわ」
カローラに戻り、キーをひねる。エンジンは何度か咳き込んだ後、ブルルンと頼りない産声を上げた。ヘッドライトが、暮れゆく鞆の浦の古い町並みを照らし出した。
弥生は、ハンドルの横に置いた自分のカバンの中にある、計算尺の冷たい感触を思い出した。「姉ちゃんが変な計算間違いをしてるなら、私がキッチリ修正してやるわ」
バックミラーに映る鞆の浦の常夜灯は、まるで暗闇の中で迷う不器用な家族を照らす古い羅針盤のように、いつまでも心細く、しかし確かな光を放ち続けていた。
普段は福山駅近くのアパートで暮らしている弥生だが、今日は綾子を連れて帰った後、久しぶりに実家に泊まることにした。実家の二階には3姉妹の部屋が並列に並び、少し大きい主寝室がその3部屋の先にある。部屋の中は勉強机や本棚など潤子と弥生が出て行ったその日のままの名残を残している。弥生は自分の部屋に戻り、押し入れの奥から古い地形図を取り出した。広島県の地形図。学生時代、計算尺部の合宿で使ったままの折り目が残っている。畳の上に広げると、瀬戸内の海岸線が、まるで誰かの手のひらの皺のように複雑に入り組んでいた。そのとき、扉を叩く音がした。
「……お姉ちゃん、起きてる?」
綾子だった。薄い部屋着の袖を指先でつまみながら、子どもの頃と同じ癖で立っている。「起きてるよ。入って」 綾子は弥生の隣に座り、広げられた地形図を覗き込んだ。「これ、海の形?」 「そう。瀬戸内海の地形。今日、あんたが言ってた“海の音”が気になってね」綾子は地図の上にそっと手を置いた。まるで紙の下に海が本当に流れているかのように、慎重に触れている。
「……ここ」綾子の指が、瀬戸内海のある島を指した。
「昨日、音がしたのはこの辺り。海が吸い込むみたいな音。今日はしなかったけど……代わりに、もっと深いところが静かだった」「深いところが静かって、どういうこと?」弥生は地図を見つめたまま尋ねた。綾子は少し考えてから、言葉を選ぶようにゆっくりと話した。
「……海の底にね、四角い影があるの。箱みたいな形。でも、その下にもっと古いものが眠ってる。昨日は、それが少しだけ動いた音がしたの」 弥生は息を呑んだ。
「動いたって……地震の前兆とか?」 「違うよ。“動いちゃいけないもの”が、ちょっとだけ寝返りをうったみたいな音」部屋の外から、父が階段を上がる足音が聞こえた。昔から変わらない、重くて、土の匂いをまとった足音。綾子はその音に反応するように、ぽつりと言った。「今日の海には、お父さんの匂いがしなかった」 「昨日はしたって言ってたよね」 「うん。怒る前の、あの土間の匂い。でも今日は……海が息を止めてたから、匂いも届かなかった」弥生は地図の上に視線を落としたまま、胸の奥に小さなざわめきを感じていた。
海が息を止める。海の底の箱。動いちゃいけないもの。
綾子の言葉は、どれも現実離れしているのに、なぜか地図の上では妙に“位置”を持って響いた。「綾子」 弥生は静かに言った。「今度、もう一回……海を見に行こう。あんたが“音がする”って言った場所の近くまで」綾子は小さく頷いた。「うん。海が息をするかもしれないから」
その言葉は、 夜の瀬戸町の静けさに溶けていった。
外では、田んぼの向こうからカエルの声が聞こえ始めていた。そのリズムは、まるで海の底の何かと呼応しているようにも思えた。
5
梅雨が明け、太陽が高く昇る六月。新幹線「こだま」の車内には、微かに湿ったエアコンの風と、どこかの席で誰かが食べている冷凍みかんの甘酸っぱい匂いが、ひっそりと漂っていた。
ブルーのモケット生地のシートに深く腰を沈め、瀬戸内信用金庫・芦田川支店の支店長は、今日だけで既に三度目になる額の汗を、綺麗にアイロンの当てられたハンカチで拭った。彼の膝の上には、『小豆島・国際アートリゾート開発構想』と仰々しい明朝体で印字された、鈍器のように分厚い事業計画書が乗っている。
「……弥生君。私はね、この新幹線の硬いシートに座ってからというもの、いまだに自分がなぜ平日から香川県に向かっているのか、深い哲学的な迷宮を彷徨っているんだよ」
支店長は、半分は感心し、もう半分は「なぜ自分がこんな面倒に巻き込まれているのか」という純粋な恐怖を顔に貼り付けながら言った。
「支店長、哲学は窓口業務の邪魔になりますよ」 隣の席で、車内販売で買った熱いコーヒーの紙コップを優雅に傾けながら、波多野弥生は満面の、そして一片の隙もない営業スマイルで答えた。
「私たちがここに向かっているのは、芦田川支店が誇る地元密着型の崇高な理念に基づいた、極めて適法かつ有意義な視察旅行です。うちの最重要取引先である地元の建設会社が、東京の外資系ファンドからこの小豆島のリゾート開発への参画を打診されている。その『甘すぎる蜜』の成分を分析し、クライアントに適切な助言をする。これぞ信用金庫の鑑、金融庁も涙して喜ぶ美談じゃありませんか」
「君の口から『崇高な理念』という言葉が出ると、どうも裏帳簿か何かの隠語にしか聞こえんのだよ」 支店長は胃のあたりをさすった。 「だいたい、君が昨日の朝一番で私のデスクに叩きつけたあの『特別視察稟議書』だ。あんなもの、もはや稟議の形をした暴力じゃないか。専門用語と複雑な数式がびっしり書き込まれた全三十ページ。私が老眼の目をしょぼつかせていると、君は『今すぐハンコを押さないと、当支店は世紀の不良債権を抱え込んで本部に土下座することになりますよ』と満面の笑みで脅迫したんだぞ」
「脅迫だなんて人聞きの悪い。私はただ、支店長の輝かしい出世コースに横たわる地雷を、親切に撤去してさしあげたいだけです」
弥生の言葉は正論だった。支店長は「私の出世コースは、君が芦田川支店に配属された日にすでに地雷原に変わっているんだがね」とぼやきながら、鈍器のような計画書に目を落とした。
もちろん、それは弥生が構築した「完璧な建前」だ。 地元の建設会社から相談を受けていたのは事実だが、わざわざ現地視察という名目で上司を巻き込んだのは、鞆の浦で姉・潤子の痕跡を見つけた後、この「小豆島リゾート開発」の裏で糸を引いているのが、あの日、潤子を連れ去った男、細川であることを突き止めたからだ。
(お姉ちゃんがわざわざ持ち出した、お父さんのあの『厄介な合意書』。あれがただのゴミとして処分されたわけじゃないことくらい、私にはわかっている)
「でもねえ、この計画書を見る限り、本当に素晴らしいプロジェクトじゃないか」 支店長が、カラー印刷された完成予想図のページを開きながら言った。 「手付かずの自然を残す島に、現代アートの美術館と、富裕層向けのヴィラを建設する。雇用も生まれるし、観光客も何十倍にもなる。ほら、ここに『地域とアートの幸福なマリアージュ』と書いてある。実にポエティックじゃないか」
「そうですね。紙の上では、詐欺師が書いたお伽話みたいに完璧な足し算です」 弥生はコーヒーを一口飲み、計算尺のように冷徹な声で答えた。
「支店長、数字っていうのは、並べ方次第でどんな美しい幻覚でも見せることができるんです。この計画書の『投資回収期間』のページを見てください。これだけのインフラ整備とハコモノ建設を伴うプロジェクトにしては、設定されている期間が不自然なほど短すぎます。……彼らは最初から、この島で『マリアージュ』なんて悠長な結婚生活を送る気はありませんよ。これは単なる、一夜限りの火遊びです」
「火遊び?」
「島を綺麗にパッケージングして、『アートと自然が融合した国際リゾート』という付加価値のラッピングを施したら、事業が本格稼働する前に、権利ごとどこか別の巨大資本に高値で転売する気なんです。彼らにとってこの島は、育てるべき土地じゃなくて、右から左へ動かして利ざやを抜くための『巨大な金融商品』に過ぎない」
弥生の淀みない分析に、支店長は思わず言葉を失い、ハンカチを握りしめた。 「……君は、窓口でいつもニコニコとお年寄りの新しい五百円玉を両替している、あの人畜無害な女の子と、本当に同一人物なのかい?」
「お年寄りの五百円玉も、外資の何百億も、数字が持つ暴力性は同じですから」 弥生は快活に笑い、紙コップをテーブルに置いた。
やがて新幹線は岡山駅のホームに滑り込んだ。 そこから宇野港へとローカル線で向かい、小豆島行きのフェリーに乗り換える。
初夏の瀬戸内海は、まるで巨大な青い鏡面のように凪いでいた。 フェリーの甲板に立つと、海風が心地よく頬を撫でていく。波ひとつないフラットな海面を、船は白い航跡を真っ直ぐに残しながら滑るように進む。右へ左へと視線を移すたび、おむすびのような形をした大小の島々が、まるで精巧なジオラマのセットのようにゆっくりと後方へ流れていった。
「絶景ですねえ、支店長。青い海、緑の島々、そして頭上には抜けるような青空。日頃、窓口で一円の誤差に目を血走らせている私たちにとって、最高のリフレッシュじゃないですか」
弥生は甲板の手すりに寄りかかり、缶のお茶を飲みながら快活に言った。
しかし、その隣に立つ支店長の顔色は、瀬戸内海の美しいエメラルドグリーンと見事な同化を果たしていた。
「……弥生君。私はね、船酔いをしているわけじゃないんだ。この海はバカみたいに穏やかだからね」 支店長は手すりを両手で固く握りしめ、遠くの島を虚ろな目で見つめている。 「ただ、これから向かう島で、君が外資系ファンドの人間相手に暴れ回り、私のささやかな退職金が瀬戸内の海の藻屑と消えるビジョンが、くっきりと脳裏に浮かんで胃液が逆流しているだけなんだよ」
「失礼な。私はいつだって、信金の規則とコンプライアンスの枠内でしか暴れませんよ」 「その『枠』の解釈が、君と一般社会とではズレていると言っているんだ!だいたい、ただの視察なら、なぜ君のそのボストンバッグはそんなにパンパンに膨らんでいるんだ。中にスタンガンでも入っているのじゃないだろうね」
「まさか。お泊まり用の着替えと、お父さんの盆栽の手入れマニュアルと、あとは少しばかりの『交渉用の小道具』ですよ」 弥生はニッコリと微笑んだ。
「交渉用の小道具……」支店長がうめき声を上げた。「お願いだから、私を犯罪の共犯者にしないでくれよ。私はただ、定年まで波風立てずに生きて、たまに盆栽をいじって暮らしたいだけなんだ」
「奇遇ですね。うちの父も盆栽をいじってますけど、最近は怒りに任せてハゲ山みたいに剪定してますよ。支店長も気をつけないと、老後の趣味がストレス発散のサンドバッグになりますからね」 「誰のせいでストレスが溜まっていると思ってるんだ……!」
二人のまったく噛み合わない、しかしある種の様式美に満ちた漫才のようなやり取りは、フェリーが小豆島の土庄港に近づくまで延々と続いた。
やがて前方に、緑豊かな島のシルエットがぐんぐんと迫ってきた。フェリーが接岸し、タラップを下りて島の大地を踏みしめた瞬間。弥生の鼻腔を真っ先にくすぐったのは、潮の香りではなく、どこか甘ったるく、そして少しだけ苦い、ごま油の匂いだった。日本有数のごま油メーカーの工場があるこの島特有の空気だ。それに混じって、初夏の太陽をたっぷりと吸い込んだオリーブの青々とした香りが、山の方から風に乗って運ばれてくる。
港の周辺は、のどかで平和な田舎町の風景そのものだった。古い木造の土産物屋が数軒並び、日焼けしたタクシーの運転手たちがのんびりとタバコを吹かしている。遠くの斜面には、銀緑色の葉を揺らすオリーブ畑がどこまでも広がり、その手つかずの豊かな自然は、まさに「日本の地中海」と呼ぶにふさわしい穏やかさに満ちていた。
しかし、その牧歌的な風景の中に、明らかな「異物」が一つだけ混じっていた。
ひなびたフェリー待合所のすぐ横の空き地に、周囲の風景を完全に無視した、真新しく巨大な看板がギラギラと太陽の光を反射して立っていたのだ。
『予定建築物:小豆島・国際アートリゾート(仮称)』 『世界が注目する、オリーブと芸術の楽園へ』
白亜の現代美術館と豪華なヴィラが描かれたその看板は、のどかな港町において、まるで場違いな宇宙船が不時着したかのような強烈な違和感を放っていた。まだ島民たちの生活は何も変わっていない。自然も破壊されていない。しかし、この一枚の無機質な看板だけが、これから押し寄せる冷酷な資本の波を静かに、しかし暴力的に予告している。
「……なるほど。まだ『まぼろし』の種を撒き始めた段階、ってわけですね」 弥生は目を細め、その看板を冷ややかな視線で観察した。
「すごい看板だねえ。こんな長閑な島に、本当にあんなピカピカの施設を建てる気なのかい?」 支店長が、額の汗を拭いながら看板を見上げた。
「建てる気なんてありませんよ、最初から」弥生は、手持ちの計画書の丸められた束で、手のひらをポンと叩いた。「この看板は、島の人たちに見せるためのものじゃない。東京から視察にやってくる『次の買い手』に向けて、この島がどれだけ美味しくパッケージングされているかをアピールするための、ただの張りボテです。現に、看板の足元を見てください。基礎工事すらまともにされてない。台風が来たら一発で吹き飛びますよ」
支店長が慌てて足元を見ると、確かに巨大な看板は、粗末な鉄パイプと土嚢だけで支えられていた。
「美しい自然を人質に取って、絵空事の看板で値段を吊り上げる。タチの悪いマネーゲームの典型ですね」 弥生は快活な笑みを浮かべたまま、ボストンバッグの肩紐を締め直した。「行きましょう、支店長。島がこの薄っぺらい看板に完全に飲み込まれてしまう前に、あの小賢しい絵を描いている連中の顔を拝みに行きますよ。もちろん、あくまで信金の平和的な視察として、ですけどね」
胃薬を水なしで飲み込もうとしている上司を置き去りにし、瀬戸内信金のエースは、オリーブと欲望が入り混じる島の奥へと、迷いのない足取りで歩き始めた。
港のロータリーで客待ちをしていた、日に焼けたクラウンのタクシーに乗り込むと、冷房のよく効いた車内には微かにポマードとタバコの匂いが漂っていた。
「どちらまで?」 白髪交じりの運転手が、ルームミラー越しに面倒くさそうに尋ねてくる。
「とりあえず、海岸沿いを時計回りに走ってください。あの『アートリゾート』とやらができる予定のエリアを見たいんです」弥生が快活に答えると、運転手は「ほう」と太い眉をピクリと動かした。
「あんたらかね、今日来るって言っとった東京のスポンサーさんってのは? いやあ、てっきり黒塗りのハイヤーでも手配するんかと思っとったが、意外と庶民的なんじゃな」
「いえいえ、私たちは広島の福山から来た、しがない信用金庫の職員ですよ。ちょっと地元のお客さんから相談を受けてましてね。でも、やっぱり東京からはひっきりなしに人が来てるんですか?」
弥生は、普段窓口で「年金振込口座の変更」を勧める時と同じ、相手の警戒心を一瞬で武装解除させる『完璧な営業スマイル』を向けた。この笑顔を向けられて口を閉ざす瀬戸内海の高齢者はいない。案の定、運転手は堰を切ったように喋り始めた。
「そりゃあもう、ここ一ヶ月はバブルじゃよ。東京からパリッとしたスーツを着た連中が次から次へとやってきては、山の持ち主の農家を料亭に連れ出しとる。細川さんっていう、えらく口の達者な男が仕切っとってな。海沿いの潰れかけとった古いホテルをポンと現金で買い取って、立派な準備室にしとるわ」
「へえ、景気のいいお話ですねえ。……でも、島の人たちはどう思ってるんです?突然降って湧いたような話でしょう?」 弥生が相槌を打ちながら核心を突くと、運転手は少しだけ声のトーンを落とした。
「まあ、半々じゃな。若いもんが減ってどうにもならんかった島が、ピカピカのリゾートになるって喜んどる連中もおる。手放したくなかった痩せ地の山が、信じられんような高値で売れるんじゃからな。……でも、わしらみたいな年寄りは、どうも薄気味悪くていかん。あの東京の連中、オリーブの木のことなんか見ちゃおらん。ただの『平米数』と『坪単価』としてしか島を見とらんのじゃから」
「平米数と坪単価、ですか」 「ああ。そういや、細川さんの隣に最近、えらく綺麗な女の人がおってな。東京の女優さんかと思うような身なりなんじゃが、その人だけは違ったな」
「違った?」 弥生は、膝の上のボストンバッグをギュッと握りしめた。隣で胃を押さえていた支店長も、ピクリと顔を上げる。
「東京の連中が図面ばっかり見てる横で、その女の人だけは、しゃがみ込んでオリーブの根元の土を指でいじっとった。靴が泥だらけになるのも構わんでな。あの人は、わしらと同じ『土の匂い』を知っとる目をしとったよ」
「……そうですか。ありがとうございます、運転手さん。じゃあ、その細川さんたちが買い取ったという、海沿いの古いホテルまでお願いします」
弥生が告げると、タクシーは静かに海岸線に沿って走り出した。窓の外には、抜けるような青空と、太陽の光を反射してキラキラと輝く瀬戸内海が広がっている。道の斜面には、銀緑色のオリーブの葉が風に揺れ、絵葉書のように美しい自然がそのまま残されていた。しかし、その美しいオリーブの根元には、すでに「売地」や「開発予定地」という見えない値札が、隙間なくベタベタと貼り付けられていた。
潤子は、図面ではなく土を見ていた。実家の泥の平穏を祈って鞆の浦まで来ていた長女は、やはり細川に盲従しているわけではない。この札束が飛び交う巨大な「まぼろし」の中心で、彼女は彼女なりの不器用な戦いをしているのだ。
「弥生君」 支店長が、ハンカチで口元を覆いながら、震える声で囁いた。「まさか君、その『細川』という男の拠点に直接乗り込む気じゃないだろうね?我々はあくまで『視察』に来たんだ。遠くから建物を眺めて、写真を二、三枚撮って、あとは美味しいうどんでも食べて帰る。それが大人の、そして信金の正しい出張というものだよ」
「支店長、視察というのは『対象の実態を正確に把握する』ことです。遠くから建物を眺めるだけなら、あの港にあった張りボテの看板を見ているのと同じですよ」 弥生は、コンパクトを取り出して前髪を整えながら、にこやかに答えた。
「相手は海千山千の金融マンです。正面から『実態を見せてください』なんて言っても、綺麗なパンフレットを渡されて終わりです。だから、ちょっとだけ揺さぶりをかけるんですよ」
「ゆ、揺さぶり……?」 「ええ。彼らが一番触れられたくない、計算式の『バグ』を見せつけてやるんです」
タクシーが緩やかなカーブを曲がると、前方の海沿いに、かつては観光客で賑わったであろう古い三階建てのホテルが見えてきた。外壁の塗装は潮風で剥げかけているが、入り口のガラス扉だけが不自然なほどピカピカに磨き上げられ、そこには『東京キャピタルマネジメント・小豆島リゾート開発準備室』という、仰々しい真鍮のプレートが掲げられていた。
「着きましたよ。」 弥生は財布から手際よく千円札を取り出し、運転手に手渡した。
「さあ、支店長。瀬戸内信金・芦田川支店の威信を懸けた、ご挨拶の時間です。胃薬なら後で私が買ってあげますから、今は背筋を伸ばして、大物バンカーの顔を作ってくださいね」
「大物バンカーって……私はただの、瀬戸内のしがない支店長……」 「いいから、歩く!足を止めない!」
弥生は、今にも膝から崩れ落ちそうな上司の背中を力強く押し、冷酷な東京の資本が陣取る古いホテルへと、快活な足取りで乗り込んでいった。
自動ドアの電源は切られており、弥生は重いガラス扉を「よいしょ」と手動でこじ開けた。
かつては団体客を迎え入れていたであろう広いロビーは、異様な空間に変貌していた。壁紙はところどころ潮風で剥がれ、天井のシャンデリアは薄汚れているというのに、フロアの中央には東京のオフィス街からそのまま持ち込んだような、無機質で真新しいスチールデスクが整然と並べられていた。数台の電話がせわしなく鳴り響き、パリッとしたサマースーツに身を包んだ若いスタッフたちが、膨大な資料の束と格闘している。
空間には、安いポマードと海風の匂いを上書きするように、挽きたてのコーヒーの香りが充満していた。
「な、なんだここは。まるで兜町の証券会社のフロアじゃないか」 支店長が、その異様な熱気と場違いな洗練さに気圧されて一歩後ずさった。
「支店長、前へ。大物バンカーの顔です」弥生は上司の背中をガシッと掴んで前進させると、一番手前のデスクにいた若い男に、満面の営業スマイルを向けた。
「お忙しいところ恐れ入ります。瀬戸内信用金庫・芦田川支店の波多野と申します。本日は、貴社の素晴らしいリゾート開発計画について、地元の優良企業を代表して『視察』に参りました。責任者の細川さんはお見えですか?」
若い男が怪訝な顔で立ち上がろうとしたその時、フロアの奥から「私語は慎んで、作業を進めて」という落ち着いた声が響いた。細川だ。瀬戸町の波多野家にやってきた時と同じ、仕立ての良いネイビーのスーツを完璧に着こなしている。田舎の泥臭さなど一ミリも寄せ付けない、スマートなビジネスマンの顔がそこにあった。
「……おや、波多野さんの妹さんですね。その節はお騒がせしました」 細川は弥生たちに気づくと、険しい表情をふっと和らげ、とても丁寧な所作で頭を下げた。
「あの時はうちの父が、手作りの甘酢漬けの瓶をひっくり返してしまい、申し訳ありませんでした。クリーニング代の請求書はまだ届いていませんが?」 弥生が一歩前に出て牽制すると、細川は静かに微笑んだ。
「とんでもない。すぐに水洗いしたのでシミにはなりませんでしたよ。立派なお父様でした。……立ち話も何ですから、どうぞこちらへ」
細川に案内された応接スペースで、紙コップのコーヒーを出されながら、支店長は完全に毒気を抜かれた顔で弥生に耳打ちした。 「弥生君……君、彼をもっと冷酷な『東京のヤクザ』みたいに言ってなかったか?非常に紳士的で、話のわかる青年じゃないか」 「静かにしててください支店長。金融の人間が優しい時は、大抵ろくでもないスキームを隠しているか、相手を完全に舐めているかのどちらかなんですから」
弥生は小声で釘を刺すと、持っていた事業計画書をテーブルの上に置いた。 「細川さん。本日は、この小豆島のリゾート開発について、少し確認したいことがありまして。貴方たちの会社が主導でこれだけ大規模な開発を進めるとなると、土地の権利関係をまとめるだけでも相当な手間でしょう?古い農家からの反対などは起きていないんですか?」
弥生が探りを入れるように問いかけると、細川はブラックコーヒーを一口飲み、穏やかな口調で答えた。
「ああ、なるほど。少し誤解されているようですね。私はファンドマネージャーや、強引に土地を買い上げる地上げ屋ではありません。海外の『オフショアファンド』から資金調達の窓口を委託されている、ただのフィナンシェ(資金調達人)です。私の仕事は、このプロジェクトに必要な莫大な海外資金を、適切な条件で引っ張ってくること。ですから、土地の泥臭い権利関係の調整や、地元住民との合意形成といった実務は、私の管轄外なんです」
「管轄外? では、あの広大なオリーブ畑に『開発予定地』の看板を立てるために、誰が地元の農家を説得して回っているんですか?」
「島の人たち自身ですよ」 細川は、窓の外に広がるオリーブ畑へ視線を向けた。 「地元の青年会議所(JC)の若手メンバーたちが中心となって、この島を『アートの楽園』に変えるんだと熱心に動いてくれています。我々東京の資本は、彼らの熱意あるビジョンに『資金という形でお手伝い』をしているに過ぎません。……我々はあくまで合理的な数字の管理者です。感情的な対立を生むような真似はしませんよ」
細川の態度は、どこまでもクリーンで、法的にも道義的にも一切の隙がなかった。弥生は、目の前の男が「悪党」ではなく、ただひたすらに「有能なシステム」であることを理解した。だからこそ、厄介なのだ。
「なるほど、見事な計算式ですね。自分たちは一切手を汚さず、地元の若者を神輿に乗せてリスクを分散させる」 弥生はため息をついた。
「人聞きの悪いことを言わないでいただきたいな」 細川は、淹れたてのコーヒーが入った紙コップを優雅に傾けながら、あくまで涼しげな表情を崩さなかった。「我々は彼らの描く未来予想図に対して、適切な『水やり』をしているだけです。花が立派に咲くか、それとも途中で枯れてしまうかは、最終的にはその土地の土壌と、彼ら自身の努力次第ですよ」
「その水やりの途中で、ファンドの都合で急に蛇口を閉めるようなことはないと?」 弥生が一歩踏み込むと、細川は薄く、しかし完璧なビジネススマイルを浮かべた。
「我々のクライアントである投資家たちが求めているのは、適正な利回りです。地元のノスタルジーや感情に対する慈善事業ではありません。プロジェクトが軌道に乗り、ある程度の付加価値がついたと判断した時点で権利を売却し、スマートに身を引く。それがファンドの役割であり、資本主義における健全な新陳代謝というものでしょう。……波多野さんも金融のプロなら、この程度の合理性はご理解いただけるはずですが」
正論すぎるほどの正論だった。冷徹だが、どこにも法的な瑕疵はない。 細川の言葉には、田舎の泥臭い感情が入り込む隙間が、一ミリたりとも存在しなかった。
「……おっしゃる通りだ!いやあ、健全な新陳代謝、素晴らしい響きじゃないか!」 隣で完全に毒気を抜かれ、すっかり感銘を受けた支店長が、ブンブンと首を縦に振っている。弥生は、にこやかな笑顔のまま、テーブルの下で上司の革靴をヒールで軽く踏みつけて黙らせた。
「ご理解いただけて何よりです」細川は立ち上がり、スマートな所作で出口へと手を向けた。 「もし、地元との合意形成についてまだご心配があるようでしたら、直接、青年会議所(JC)の彼らに話を聞いてみてはいかがですか。ちょうど今頃、港の近くの事務所で議論しているはずですよ。我々が彼らを『神輿に乗せている』のか、それとも彼ら自身が進んで神輿を担いでいるのか、ご自身の目で確かめられるといい」
弥生と支店長は細川に挨拶をして会議室を出た。ホテルから外に出た途端、初夏の強烈な太陽とオリーブの香りに包まれながら、支店長が「ふぅっ」と安堵の深呼吸をした。
「いやあ、実に優秀で紳士的な青年じゃないか!オフショアファンドからの委託と聞いて最初は肝を冷やしたが、この小豆島のリゾート計画自体は、地元の若者たちが主導しているクリーンなプロジェクトのようだね。これなら、うちのクライアントの建設会社が一口乗っても問題ないだろう。さあ、視察はこれで無事に終了だ!」
「支店長、視察はまだ終わっていませんよ」 弥生は、ピカピカに磨かれたホテルのガラス扉を振り返り、小さく息を吐いた。
「細川さんの言葉通りなら、彼はただの『財布』です。でも、その財布からお金を引き出すために、地元の若者たちがどんな『絵』を描かされているのか。それを確認しないと、クライアントに正しい助言はできません」
「まだやるのかい……?」 「当然です。次は、その熱心な青年会議所の方々にヒアリングに行きますよ。島の未来を背負って立つ若きリーダーたちの、輝かしい夢のお話を聞かせてもらいましょう」
弥生は呆然とする上司の手を引き、タクシーを拾って、青年会議所のメンバーが集まっているという地区へと向かった。
車を降りて歩き出すと、初夏の小豆島は、まるで光と風の祝福を受けたかのような美しさに満ちていた。迷路のように入り組んだ細い路地を抜けると、焼き杉の黒い板壁と眩しいほどの白壁が続く古い醤油蔵の町並み――「醤の郷」が現れる。黒く燻された蔵の壁には、何世代にもわたって定着した酵母の息遣いが刻み込まれており、海風が通り抜けるたびに、香ばしく、そして少しだけ焦げたような醤油の甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
少し視線を上げれば、なだらかな丘陵地を覆い尽くすオリーブの銀緑色の葉が、初夏の強烈な太陽の光を弾いてサラサラと波打っている。その向こうには、エメラルドグリーンに澄み切った瀬戸内海が、まるで時間が止まったかのように穏やかに横たわっていた。
古い歴史の匂いと、地中海のような明るい陽光。二つの異なる顔が奇跡的なバランスで同居するこの島の風景は、訪れる者の心を無条件でほぐし、いつまでもここに留まっていたいと思わせるような、不思議で力強い引力を持っていた。
「素晴らしい景色だねえ。こんな長閑で美しい島を、本当にコンクリートのリゾートに変えてしまう気なのかい?」 支店長が、額の汗を拭いながら感嘆と懸念の入り混じった声を出した。
「その答えを出そうとしているのが、彼らですよ」
路地の一角にある、太い梁を残した古い醤油蔵を改装したコミュニティスペース。開け放たれた引き戸の奥から、若者たちの押し殺したような、静かで重たい声が漏れ聞こえてきた。小豆島青年会議所のメンバーたちだ。
蔵の中の薄暗い土間には、実家の醤油蔵やオリーブ農園を継ぐ立場にある数人の青年たちが、パイプ椅子に深く腰を沈めていた。テーブルの上に広げられたリゾートの華やかな完成図とは対照的に、彼らの表情は一様に暗く、そして真剣だった。
「……でもな」 日焼けした太い腕を組み、一人の青年がポツリと呟いた。 「このオリーブの丘に一度コンクリを流し込んだら、もう二度と土には戻らんのやぞ。じいさん達が苦労して拓いて、守ってきた景色や。それを東京のファンドに切り売りして、本当に島のためになるんやろか」
「分かっとる。誰かて、そんなん嫌に決まっとる」 向かいに座った別の青年が、手の中の湯呑みを見つめながら、ため息混じりに応じた。 「けどな……先月の小学校の運動会、見たやろ。子供の数、十年前の半分や。若いもんはどんどん島を出て行く。醤油とオリーブだけで、この島が後何十年もつんや。綺麗事だけじゃ、この島はゆっくり死んでいくだけなんやで」
「細川さんたちの会社は、インフラ整備から何から、莫大な資金を投じてくれるって言っとる」 少し年長らしい青年が、図面を指の腹で静かになぞりながら言った。 「俺たちが主導権を握れんのは悔しい。腹の底では、東京の資本の下請けになるみたいで情けないと思っとる。……でも、島に人を呼び戻すには、今は彼らの力を使ってでも前に進むべきなんや。毒まんじゅうかもしれんけど、食わなきゃ餓死するだけやないか」
怒号もなければ、机を叩く音もない。ただ、島の未来という途方もなく重い現実を前にして、田舎の青年たちが身を寄せ合い、出口のない迷路の中で静かに苦悩している。それがかえって、彼らの抱える危機感の深さを生々しく物語っていた。
美しい景観を守りたいという切実な思いと、過疎化という現実を前にカンフル剤を打たねばならないという焦り。意見は錯綜していたが、それでも議論のベクトルは「苦渋の決断として、島の将来のために彼らの開発を受け入れる」という方向へ、重々しく傾きつつあった。
弥生は小さく息を吸い込み、少しだけ扉を叩いて中へ足を踏み入れた。「失礼します。瀬戸内信用金庫の波多野と申します。少しお話を伺ってもよろしいですか?」
突然のスーツ姿の訪問者に、青年たちは驚いて顔を上げたが、弥生がとびきりの営業スマイルで名刺を差し出すと、「おお、わざわざ広島の金融機関の方が」と、パイプ椅子を一つ勧めてくれた。
「立ち聞きするつもりはなかったんですが、静かで、とても真剣な議論が聞こえてきたので。島の未来のための苦渋の決断、その重たさがよく伝わってきました」 弥生は、テーブルの上に広げられたリゾートの完成予想図を見下ろした。
「ええ。色々と葛藤はありますが、我々も覚悟を決めたんです」 醤油蔵の跡取りだという青年が、きゅっと唇を結んで言った。「東京の資本に飲み込まれるリスクは承知の上です。でも、細川さんの会社が提示する開発計画は、確かにこの島に桁違いの雇用と観光客を呼ぶ。島が生き残るためには、この毒まんじゅうを食ってでも、前に進むしかないんです」
「なるほど。『毒まんじゅう』という自覚があるなら、私が口を挟むことはありません」 弥生は深く頷き、少しだけ声を落とした。
「ただ、一つだけ気をつけてください。細川さんたちはプロです。あなたたちが身を切るような『苦渋の決断』で差し出した土地も、彼らの手にかかれば、東京の帳簿の上ではただの『利回りの良い数字』として無機質に処理されます。プロジェクトが立ち行かなくなって彼らが撤退した後の、島のインフラ維持費や、借入金の返済リスク。その『逃げ道』の計算だけは、彼らに任せきりにせず、地元側でシミュレーションしておくべきです。……毒を中和するための胃薬は、自分たちで用意しておかないと」
弥生の静かで現実的な指摘に、青年たちはハッとして顔を見合わせた。
沈黙を破ったのは、日焼けした太い腕を組んでいた青年だった。彼はゆっくりと腕を解き、パイプ椅子から立ち上がった。長身だった。薄暗い蔵の中でもはっきりとわかる、彫りの深い、いわゆる「ソース顔」。醤油の町で生まれ育った跡取り息子にしては、見事なまでに濃厚なソース顔である。
「波多野さん、でしたね」 彼は真っ直ぐに弥生を見て、ふっと緊張を解くように笑った。日焼けした肌に、力強い白い歯がこぼれる。 「大村憲治と言います。いや、耳の痛い話ですが、おっしゃる通りだ。俺たちは島をなんとかしたい一心で、一番肝心な『最悪のケース』から目を逸らしていたのかもしれん」
大村のその真っ直ぐで誠実な笑顔を見た瞬間、弥生の胸の奥で、カチリと何かの計算尺が狂う音がした。 (……あら) いつもなら一円の誤差も見逃さない信金のエースの頭脳が、一瞬だけホワイトアウトする。背が高くて、誠実で、笑顔が眩しい。その上、この過疎の島をなんとかしようとする熱い覚悟を持っている。控えめに言って、完璧な優良物件じゃないか。
「そ、そうですよ。胃薬は必須です。特に、あんな隙のない東京のファンドマンを相手にするなら」 弥生は、自分でも少し声が上ずっているのが分かった。柄にもなく、名刺入れを持つ指先がほんの少し熱い。
「ありがとうございます。波多野さんの胃薬のアドバイス、しっかり心に留めておきます。東京の資本に飲み込まれるんやなくて、俺たちが島のために彼らを使い倒してやるくらいの計算を持たな、あきませんね」大村は力強く頷き、もう一度、その屈託のない白い歯を見せて笑った。「福山からわざわざ、ええ忠告をありがとうございました」
「い、いえ! 地元密着が信金のモットーですから!それでは、お邪魔しました。この美しいオリーブと醤油の香りが、これからもずっと島に残ることを祈っています!」
弥生はそそくさと頭を下げると、逃げるように踵を返し、支店長の背中を押して蔵を飛び出した。
外に出ると、初夏の太陽が再び二人を眩しく照らした。瀬戸内の海風に吹かれながら、弥生はパンパンと自分の頬を両手で叩いて、狂いかけた計算尺を強引にリセットしようと試みた。
「……いやあ、素晴らしい若者だったねえ」 隣を歩く支店長が、ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべながら口を開いた。胃の痛みが治まったのか、その声にはすっかり余裕の張りが戻っている。「特にあの大村君。醤油の町なのに見事なソース顔だったが、実に爽やかで誠実な好青年だ。……ところで弥生君。君、彼が笑った瞬間、あからさまに動揺してなかったか?」
「ど、動揺なんてしてません!私はただ、彼らの熱意に感銘を受けただけで……」
「ほう? 君のあの鉄壁の営業スマイルが、一瞬女子高生みたいに赤らんでいたように見えたがね。なるほど、外資の何百億という数字には微動だにしない信金のエースも、誠実なソース顔の優良物件の前では計算尺が狂うというわけか。いやあ、思い切って視察に来てよかった。鉄の女の人間らしい一面が見られたよ」
「支店長! セクハラですよそれ!」 弥生は顔を真っ赤にして、持っていた事業計画書の束で少し剥げかかった上司の頭をペシッと叩いた。
「痛っ。事実を指摘しただけじゃないか。しかし、あの大村君なら私も太鼓判を押すよ。この視察が終わったら、今度はプライベートでフェリーに乗って……」 「もうその話は終わりです!」
弥生は上司の言葉を強引に遮り、赤くなった顔を隠すように海の方へとそっぽを向いた。
オリーブの葉が風に揺れる美しい小豆島。細川の冷徹なマネーゲームの裏で、大村のような若者たちが、本気でこの島と向き合って苦悩している。その事実を知れただけでも、この島に来た意味はあった。
細川は、地元の若者たちの切実な危機感や静かな苦悩すらも、美しい計画の一部として正確に計算に組み込んでいる。彼が相手にしているのは、この小豆島という「感情を持った土地」そのものだ。
このピカピカの装置の裏側で、あるいはもっと別の場所で、まだ見ぬ歯車が回っているはずだ。
(だとしたら、私が向き合うべき泥臭い帳尻合わせの舞台は、きっとこの島じゃない。もっと深く絡み合った、過去の泥がある場所だわ)
弥生は一つ深呼吸をして、いつもの快活なペースを取り戻した。
「さあ、支店長!小豆島の視察はこれで完了です! フェリー乗り場に戻る前に、名物の素麺を死ぬほど食べましょう!もちろん、支店長のおごりで!」 「えっ? なんで私が……」 「口の減らない上司へのペナルティです!さあ、行きますよ!」
すっかり疲弊しつつもどこか楽しそうな支店長を引き連れ、弥生は土庄港のすぐ近くにある、こぢんまりとした和食処へと陣取った。
「お待たせしました。オリーブ生そうめんです」 店員が運んできたお盆を見て、二人はほうっと感嘆の息を漏らした。
氷を敷き詰めた涼しげなガラスの器の上に、美しく折り畳まれた麺。それは普通の素麺のような真っ白ではなく、オリーブの果実がたっぷりと練り込まれた、淡く透き通るようなエメラルドグリーン色をしていた。弥生が箸でつまみ上げると、ツヤツヤとした麺が初夏の光を反射してキラリと光る。特製のつゆ――先ほど青年たちが守ろうとしていた、あの島特産の醤油を使った香り高いめんつゆにサッとくぐらせ、一気に啜り込む。
「……んんっ!」 弥生は思わず目を丸くした。よくある乾麺の素麺とは全く違う。生麺特有のモチモチとした心地よい弾力と、オリーブオイルがもたらす極上の滑らかさ。ツルツルと喉の奥へ滑り落ちていく爽快感の後に、ほんのりと爽やかな若草のような香りが鼻に抜けていく。
「美味しい! なんですかこれ、喉越しが良すぎて飲み物みたいです。このお醤油のつゆも、すごく深みがあって最高ですね!」
向かいの席では、支店長が涙ぐまんばかりの顔で麺を啜っていた。「ああ……胃の粘膜に優しい。東京の冷酷なファンドマンと、君の容赦ない言葉のナイフでズタズタにされた私の胃壁を、オリーブのオイルが優しくコーティングしてくれるようだ……。五臓六腑に染み渡るとはまさにこのことだね」 「大袈裟ですねえ。でも確かに、この滑らかさは癖になります。いくらでも食べられちゃいそう」
支店長はツルリと素麺を飲み込むと、お茶を一口すすり、悪戯っぽい目を弥生に向けた。
「しかし、このオリーブ生そうめんの爽やかで力強い喉越し……誰かさんに似ているな」 「は?」 「さっきの青年会議所の大村君だよ。あの見事なソース顔の好青年の爽やかな笑顔を思い出しながら食べると、この素麺がさらに味わい深いものになるんじゃないかね?いやあ、青春の味がするねえ」
弥生はピタリと箸を止め、ジロリと上司を睨みつけた。
「……支店長。その冗談、もう一回言ったら、芦田川支店の経費精算のハンコ、これから一年間すべてわざと逆さまに押しますからね。本店から大目玉を食らえばいいんです」 「わ、悪かった!それは稟議が通らなくなるから絶対にやめてくれ!」
慌てて両手を合わせる上司を見て、弥生はふふっと笑い、残りの麺を一気に啜ろうとした。
その時、「おばちゃん、空いとる? 四人やけど」 カラン、と入り口の引き戸が開き、賑やかな声とともに大柄な男たちが店に入ってきた。先ほど青年会議所のコミュニティスペースで熱弁を振るっていた大村と、その仲間たちだった。
「おお、いらっしゃい。そっちの小上がり使ってえな」店員の明るい声に促され、大村たちは店の奥の座敷席へと向かった。「よっこいしょ」と口々に言いながら、脱ぎやすいスニーカーや革靴を脱いで、框を上がる。
ふと、弥生の視線が、大村の足元に引き寄せられた。靴を脱いだ大村の足は、ほころび一つない、真っ白で清潔な靴下に包まれていた。醤油蔵の跡取りとして、あるいは青年会議所の中心メンバーとして泥臭く走り回っているはずなのに、その足元にはだらしなさの欠片もない。
それを見た瞬間、弥生の脳裏に、すっかり忘れていた古い記憶が不意に蘇った。 福山の波多野家で、不揃いな泥にまみれて農作業を手伝っていた小学生の頃の記憶だ。泥だらけの長靴を脱いで、家の裏の小さな祠の隣にある集会所へ駆け込んだ時のこと。よく一緒に遊んでいた近所の農家の男の子が、上がり框で靴を脱いだ。その足の親指には、いつも決まって大きな穴が空いていて、そこから覗く皮膚には、洗っても落ちない土の匂いが染み付いていた。 それが、弥生の知っている「同世代の男の子」の原風景だった。
目の前の大村は、真っ白な靴下を履いている。同じように故郷の土地に縛られ、未来を憂いて泥を被ろうとしている青年なのに、波多野家のあの重たい泥とは違う、別の清廉な覚悟がその足元から透けて見える気がした。
弥生は箸を持ったまま、ぽかんと大村の後ろ姿を見つめてしまっていた。
「……おい、弥生君」 正面から、ニヤニヤと笑う声が飛んできた。「いくら信金の融資担当だからって、意中の好青年の資産査定を『靴下のほころびの有無』から始めるのは、少々職業病が過ぎるんじゃないかね?」
「なっ……! 意中って、違います!」 「いやいや、靴を脱ぐ後ろ姿をそんなうっとりした目で見つめられたら、彼だってオリーブ生そうめんを喉に詰まらせてしまうよ。それともなんだい、うちの芦田川支店から小豆島の醤油蔵へ、優秀な人材ごと永久出向する計画でも立てているのかい?」
「し、支店長! いい加減にしないと、本当に稟議書を全部シュレッダーにかけますよ!」 弥生は顔を茹で上がったタコのように真っ赤にして、持っていたおしぼりを上司の顔面に投げつけようと振り上げた。
「わーっ! 降参、降参だ! 悪かったって!」 支店長は両腕で頭を庇いながら、肩を揺らして笑っている。小上がりの方から、大村たちが「ん?」と不思議そうにこちらを振り返ったが、弥生は慌てて顔を伏せ、残りのつゆをむせる勢いで飲み干した。
「……全く、口の減らない上司ですね」 弥生は熱くなった頬を冷たいお冷のグラスで冷やしながら、恨めしそうに支店長を睨みつけた。
「いやあ、満腹、満腹。色々あったが、人間らしい君の顔も見られたし、実に良い視察旅行だった」 支店長はすっかり上機嫌で、ぽんぽんと少し膨らんだお腹を叩きながら立ち上がった。
会計を済ませて店を出ると、初夏の太陽が再び二人を眩しく照らした。 瀬戸内の海風に吹かれながら、弥生はパンパンと自分の頬を両手で叩いて、狂いかけた計算尺を今度こそ強引にリセットした。
すっかり日も落ち、トンネルの中と外の区別がつかなくなった帰りの新幹線「こだま」。 夜の自由席の車内は乗客もまばらで、一定のリズムを刻む車輪の音と、エアコンの低く乾いた稼働音だけが、疲れた旅人たちを包み込むように響いていた。
「……ぷはあっ!いやあ、生き返るねえ!」 ブルーのシートに深く腰を沈めた支店長が、プシュッと小気味よい音を立てて開けたハイボール缶を勢いよく煽り、歓喜の声を上げた。 「東京の冷酷なファンドマンと、君の容赦ない言葉のナイフでズタズタにされた私の胃壁を、アルコールが見事に麻痺させてくれるよ。五臓六腑に染み渡るとはまさにこのことだね」
「つい数時間前、オリーブ生そうめんを食べた時も全く同じセリフを言ってましたよね。支店長の五臓六腑は、随分と都合よくできているみたいで羨ましいです」 隣の席で、駅の売店で買った冷たい緑茶のペットボトルを手に持った弥生は、呆れたようにため息をついた。
「いいじゃないか、終わり良ければすべて良しだ。小豆島での開発計画の裏側も大体掴めたし、地元の若者たちの熱意にも触れた。うちのクライアントである建設会社にも、『あの夢物語に乗るなら、撤退時の防波堤を二重三重に築いてからにしろ』と、胸を張ってアドバイスできる。信金の支店長として、これ以上ない完璧な一日だったよ」
上機嫌で缶酎ハイを揺らす上司を横目に、弥生は車窓の暗闇に目を向けた。ガラスには、疲労の影をほんの少しだけ落とした自分の顔が映っている。
「……ところで、弥生君」 支店長が、少しだけアルコールの回った赤い顔で、ふと声を潜めた。
「そのクライアントの建設会社の社長なんだがね。実は先日、もう一つ奇妙な相談を受けていたんだよ。私もすっかり忘れていたんだが、今日、細川さんの事務所で図面を見ていて、ふと思い出した」 「奇妙な相談?」
「ああ。小豆島の話とは別口で、東京のよく分からないコンサルタント会社かららしいんだが……愛媛と広島の県境、大三島の南西に浮かぶ小さな無人島で、大掛かりなボーリング調査の足場を組めないか、という打診があったそうだ」
「大三島……」 弥生の指先が、緑茶のペットボトルをピクリと強く握りしめた。
「ああ。社長も気味悪がってね。あんな潮の流れが速くて何もない岩礁みたいな小島で、一体何を掘り返す気なんだろうなあって、首を傾げていたよ。まあ、得体の知れない話だから断るつもりらしいがね。無人島一つの調査に、不自然なほどの予算を積んできているらしい」
支店長は何の気なしに笑い、残りを飲み干した。しかし、弥生の頭の中では、愛用の計算尺がかつてないほどの激しい摩擦音を立ててスライドしていた。リゾート開発のような華やかな「夢」の裏側で、ひっそりと動くボーリング調査の影。それは、潤子が持ち出したあの不揃いな泥の合意書と、どこか深い場所で共鳴しているような気がした。
やがて新幹線は、静かに福山駅のホームへと滑り込んだ。
「それじゃあ弥生君、今日は本当にお疲れ様。明日は遅刻しないようにね」 「支店長こそ、飲みすぎで明日お腹を壊して休まないでくださいよ」
改札口で上機嫌の上司と別れ、弥生は一人、福山駅の北口へと歩みを進めた。自動ドアを抜けると、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でる。目の前には、ライトアップされた福山城の天守閣が、夜空という巨大な黒い画用紙に貼り付けられた白い切り絵のように、静かに、そして圧倒的な存在感で浮かび上がっていた。
駅前の通りを抜け、一人暮らしをしている古いが小綺麗なアパートに向かって歩きながら、弥生はふと、大村憲治のあの真っ白な靴下を思い出していた。大村たちが小豆島の未来を信じて真っ白な靴下で踏ん張っているのなら、自分は自分の戦場へ向かわなければならない。
アパートの鍵を開け、暗い部屋の中でパチリと電気のスイッチを入れる。玄関にボストンバッグを置き、パンプスを脱ごうとした弥生の視線が、部屋の隅にある電話機に釘付けになった。
留守番電話の赤いランプが、暗闇で呼吸をするように、チカチカと一定のリズムで点滅していたのだ。
弥生は部屋に上がり、留守番電話の再生ボタンをカチャリと押し込んだ。
『ピーッ』という機械音の直後、スピーカーから流れ出してきたのは、少しノイズ混じりの、しかし絶対に聞き間違えるはずのない姉・潤子の声だった。
『……弥生? 潤子よ。あんた今日、小豆島に行っとったんじゃって?わざわざあんなところまで仕事? あんたも相変わらずせわしないねえ』
実家を出て以来、決して使おうとしなかった備後なまりの広島弁。それが今、夜のアパートの部屋に静かに響き渡る。その響きは、かつて瀬戸町の裏山を一緒に泥だらけになって駆け回っていた頃の、あの不器用でプライドの高い長女の声そのものだった。
『最近はどうなん?こっちはもう、東京の人の多さと速さに毎日クタクタよ。たまには瀬戸内の静かな海が恋しくなるわ。……お父さんとお母さんは変わりない?綾子も元気なんじゃろうね。あ、そういえば聞いたんじゃけど、福山の天満屋が新しく建て替えられるっていう噂は本当なん?昔よくみんなで行ったけえ、もし本当ならちょっと寂しいねえ』
スピーカーから流れる潤子の声は、父の合意書の行方を語るわけでもない、拍子抜けするほどたわいもない日常の話だった。
『まあ、あんたも身体には気をつけんさいよ。たまには美味しいもんでも食べて、しっかり寝るんよ。……じゃあね』
ガチャン、と受話器を置く音がして、テープの再生は唐突に終わった。
部屋には再び、シンとした静寂が降りてきた。赤いランプは点滅を終え、黒い電話機は完全に沈黙している。
「……呑気なもんね」 弥生は、誰に聞こえるわけでもない小さな声で呟き、留守番電話の停止ボタンを力強く押し込んだ。
姉の声は、この瀬戸内の平穏な空気そのものだった。東京の喧騒に疲れ、遠い故郷のデパートの建て替えを憂う、どこにでもいる長女の電話。
しかし、弥生の耳には、先ほど新幹線の中で支店長が漏らした「大三島のボーリング調査」という不穏な単語が、依然として不協和音のようにこびりついていた。
(お姉ちゃんがのんびり天満屋の話をしてる間に、瀬戸内の海の底では一体何が動き始めてるのよ……)
弥生はクローゼットを開け、明日着るための予備のスーツをハンガーから取り出した。 頭の中の計算尺は、すでに次の座標を弾き出している。
たとえ姉が何も知らず、ただの偶然が重なっているだけだとしても、信金職員としての嗅覚が「これを見逃すな」と警鐘を鳴らしている。大三島の南西に浮かぶ小さな無人島。そこで行われようとしている不自然な調査の正体を、きっちりと暴きに行かなければならない。
福山の夜は静かに更けていく。窓の外では、ライトアップを終えた福山城が、暗闇の中で静かに次の時代の訪れを待っているようだった。
6
瀬戸内海には、誰かがいい加減にばら撒いた石ころのような数の島がある。昼下がりの海面は、古い銀食器を磨き上げたような鈍い光を放ち、島々の輪郭は湿った初夏の光の中にぼんやりと溶け込んでいた。どこまでも続く凪は、時間がゼリー状に固まってしまったかのような錯覚を抱かせる。
いくつもの島を巡るフェリーが吐き出す、重たいディーゼルの煙と塩の匂い。それらが混じり合った独特の香りを切り裂いて進むと、ひときわ深く重厚な緑を纏った島が現れる。大三島。古くから「神の島」として畏れられ、日本中の山神の総本社が鎮座するその場所は、観光地としての華やかさよりも、積み重ねられた千年の沈黙が支配する場所だった。
島の南西、家々の瓦屋根が波打ち際まで押し寄せる小さな漁村に、その青年はいた。 越智拓海。代々この地でミカン農家を営み、そして海の向こうに浮かぶ「何もない小島」を保有する一族の長男である。
拓海は、潮風で錆びついた軽トラックの荷台に腰を下ろし、遠く霞む自分の島を眺めていた。 日に焼けた肌と、農作業で節くれ立った大きな手。どこにでもいる実直な島の青年だが、その瞳には、この閉ざされた島の生活には似つかわしくない「焦燥」が、澱のように沈んでいる。
「あんな岩場と松の木しかない島が、本当に売れるんか……」
拓海は、ポケットの中で何度も折り畳まれた一枚の書類を指先でなぞった。 それは東京のコンサルタント会社が持ってきた、信じられないような端数の並んだ買収提案書だった。
彼には、この島を出る勇気はなかった。 だが、この島で一生を終える覚悟も、また持てずにいた。
拓海が腰を下ろしている軽トラックの背後からは、今日も潮の香りに混じって、越智家の台所から賑やかな音が聞こえてくる。
拓海の父、正男は、この道四十年の漁師だ。 といっても、近隣の漁師たちの間で「名人」と崇められるようなタイプではない。夜明け前に海へ出て、そこそこの漁果を上げては、昼過ぎには網の手入れをしながら近所の隠居たちと茶を飲んでいる。そんな正男の最大の武器は、獲った魚の数ではなく、その「笑顔」だった。何か良いことがあった時、あるいは失敗して照れ笑いをする時、日焼けして刻まれた深い皺が寄って、顔全体がクシャクシャになる。その笑顔を見るだけで、家庭内の小さな諍いなど、凪いだ海のようにどこかへ消えてしまうのだ。先代から受け継いだ漁船と家業を、彼は彼なりの歩幅で、大切に守り続けてきた。
そんな父を支える母のよし江は、隣の今治市から嫁いできた。島の人間に言わせれば「都会から来たお嬢さん」だったらしいが、今ではすっかり島に馴染み、そのふっくらとした体格通りの包容力で家族を包んでいる。よし江の作る料理は、島で一番だ。今治仕込みの少し甘めの味付けが、拓海や正男の疲れを芯から癒してくれる。彼女が台所で鼻歌を歌いながら大根を刻む音は、越智家にとって「平和」のBGMそのものだった。
そして拓海には、三歳年下の妹・美咲がいる。美咲は越智家の自慢だった。小さな頃から本を読むのが好きで、地元の高校を優秀な成績で卒業すると、今は広島の大学へ通っている。「お兄ちゃん、これからは女も勉強して、自分の足で立たなきゃいけない時代だよ」 帰省するたびに、広島の流行りの服を着て少し大人びた口を利くが、拓海が釣ってきたばかりのアジを刺身にしてやると、「やっぱりお兄ちゃんの魚が一番!」と、昔のように屈託なく笑う。拓海にとって美咲は、自分が守るべき「島の外の世界」を象徴する、誇らしくも愛おしい存在だった。
この温かな家族の風景。 父のくしゃくしゃの笑顔、母の煮物の匂い、そして広島で夢を追う妹の学費。
拓海が手元にある「小島の買収提案書」を見つめる時、その向こう側には常にこの家族の顔が透けて見えていた。
「親父の代で細々と終わらせるより、今のうちに……」
父の漁師としての腕は、決して先細りする将来を覆せるほどのものではない。このままでは、美咲の将来も、両親の老後も、この静かに枯れていく島と共に沈んでしまうのではないか。そんな不安が、拓海の誠実な心に、冷たい楔を打ち込んでいた。
拓海が守っているのは、ただの無人島ではない。この不器用で優しい家族の「明日」を、彼はその岩だらけの小さな島に、無理やり託そうとしていた。
拓海がそんな葛藤に身を焦がしていた同じ頃、大三島の玄関口である宮浦港の桟橋に、二人の女性が降り立った。一人は、仕立ての良い紺のスーツをパリッと着こなし、仕事用のボストンバッグを肩にかけた弥生。そしてもう一人は、白磁のような肌にどこか遠くを見るような瞳を湛え、薄手のサマードレスの裾を潮風になびかせている三女の綾子だった。
「……はあ、結局自腹か」
弥生は宮浦港の古い待合所のベンチに荷物を置くと、深く、そして恨めしいため息をついた。彼女の脳裏には、数日前の瀬戸内信用金庫・芦田川支店での光景が、昨日のことのように蘇っていた。
「却下だ、却下! 却下と言ったら絶対却下だ!」
支店長の悲鳴に近い怒号が、夕暮れの支店内に響き渡った。彼は胃薬の瓶をデスクに叩きつけるように置くと、弥生が差し出した『特別出張申請書:大三島海域における実態調査』という書類を、まるで穢れ物でも見るかのように指先で弾き飛ばした。
「弥生君、君は私を殺す気か!小豆島から戻ってまだ三日だぞ。私の胃壁はあのオリーブオイルのコーティングも剥がれ、君に浴びせられた冷水の衝撃から回復していないんだ。確かに大三島は愛媛県ながらも当芦田川支店の管轄だ。だからと言ってそう簡単に視察に訪れる様な場所でもないだろう!」
「支店長、落ち着いてください。これは単なる視察ではありません。小豆島で細川さんが動かしていた資金の出所と、大三島で計画されている不自然なボーリング調査……これらが繋がれば、瀬戸内全域を巻き込む巨大な不良債権予備軍を水際で食い止めることができるんです。信金の使命、お忘れですか?」
「使命の前に私の寿命が尽きるわ!そもそも、建設会社の社長が『断る』と言った案件だろう?終わった話じゃないか」
「終わっていません。建設会社が断ったなら、次はもっと脆い場所……例えば、地元の土地所有者を直接突きにいくはずです」
弥生が淡々と、しかし鋭い眼光で詰め寄ると、支店長は露骨に目を逸らし、震える手で二錠目の胃薬を口に放り込んだ。
「……だめだ。これ以上、君の『勘』という名の暴走に経費は出せん。これ以上、瀬戸内の島々を巡る旅を続けたいなら、勝手にしたまえ。ただし、有給休暇を使って、自費でな!」
「……というわけで、本当に有給を取ってやったわ」
弥生は、目の前に広がる穏やかな宮浦の海を見つめながら、毒づくように呟いた。 隣で波の音を聴いていた綾子が、ふふっと鈴の鳴るような声で笑った。
「弥生お姉ちゃん、怒りすぎ。でも、良かった。私もここに来たかったから」
「綾子……あんた、本当に大丈夫なの? 福山からここまでフェリーも乗って、結構な距離だったけど」
弥生が心配そうに妹の顔を覗き込む。今回、弥生が意地でも有給をもぎ取り、さらに末っ子の綾子を連れてきたのには理由があった。鞆の浦から瀬戸の実家に帰った際に瀬戸内海の地図を見た綾子が指さした島がこの大三島だったからだ。 弥生の論理的な計算尺と、綾子の共感覚的な直感。その二つが、大三島という一点で不気味に交差していた。
港の待合所を出ると、潮風に乗って線香の匂いと、干された網の生臭い香りが混じり合って流れてきた。弥生は周囲を見渡した。観光客向けの華やかな地図はあるが、彼女が探している「越智」という個人の家など載っているはずもない。
本来、あの小島の所有者が「越智」であるという事実は、銀行員としては絶対に口外してはならない秘中の秘、個人情報だ。しかし弥生は、あの頑固な支店長の目を盗み、デスクに置かれた稟議書の端っこを、電光石火の速さで「査定」済みだった。
(……越智正男、長男は拓海。住所は西岸の大見地区。信金のエースを舐めないでよね)
弥生は、波止場のベンチで古びたラジオを聴きながら網を繕っている老人に目をつけた。こういう島の古老こそ、生きる住所録だ。
「失礼します、お父さん。ちょっとお伺いしたいんですが」
弥生は、とびきり「頼りがいのある公務員」風の笑顔で近づいた。
「ん?……なんね、観光客か?」
老人はラジオの音を少し下げ、怪訝そうに目を細めた。その視線は、弥生の隙のないスーツと、隣に立つ浮世離れした美少女、綾子に向けられる。
「いいえ。大見地区の越智さんの家を探しているんです。漁師をされている越智正男さんのお宅なんですが」
老人は鼻で笑った。
「お嬢ちゃん、この島で『越智』なんて探してたら日が暮れるぞ。歩けば越智に当たるわ。そこら中に越智の表札が出とる」
老人の身も蓋もない正論に、弥生は思わず天を仰いだ。信金のエースとして、住所の特定など造作もないと思っていたが、「地名の半分が名字」という地方特有の壁にぶち当たった格好だ。
「……さすがに効率が悪すぎるわね」
弥生が額の汗を拭い、手元のメモと周囲の家並みを交互に見比べていた、その時。
トトトトト……と、どこか懐かしく、頼りないエンジン音が潮風に乗って近づいてきた。 現れたのは、潮風で白く粉を吹いたような、年季の入ったスーパーカブ。それに跨っているのは、色褪せたTシャツに作業ズボン、首にタオルを巻いた一人の青年だった。
カブは弥生たちの横でスルスルと速度を落とし、乾いた音を立てて止まった。
「……どうかしたん? 迷子?」
ヘルメットのシールドを上げた青年――拓海が、怪訝そうに、しかし親切そうに声をかけてきた。島の中にはいないタイプの垢ぬけた二人組に、彼は少なからず狼狽しているようだった。
「あ、すみません。大見地区の越智正男さんの家を探しているんですが……」
弥生が言いかけたその時、拓海の視線が、弥生の隣でじっと動かずにいる綾子に釘付けになった。
綾子は、拓海の存在に気づいているのかいないのか、道路の脇に生え揃った名もなき雑草の前にしゃがみ込んでいた。そして、細く白い指先で空気を掬い取るような仕草をしながら、うっとりと目を細めている。
「……お姉ちゃん、この音、銀色。すごく冷たくて、でも少しだけ甘い匂いがする」
綾子は、拓海が跨るカブの排気ガスさえも、まるで目に見える音楽のように楽しんでいるようだった。彼女の視線は拓海の瞳を通り越し、その背後に広がる大三島の深い山並みを見つめている。
「……えっ? 銀色の、音?」
拓海は当惑した。カブのエンジン音をそんな風に表現されたのは生まれて初めてだったし、何より、目の前の少女が纏う雰囲気が、この島の誰とも、いや、今まで出会ったどんな人間とも違っていたからだ。透き通るような白い肌、光の加減で色を変えるような瞳。彼女の周りだけ、大三島の湿った空気がクリスタルのように凍りついているように見えた。
「……あ、すみません、妹が少し……その、感性が独特で」
弥生が慌ててフォローを入れるが、拓海の耳には届いていなかった。 拓海の胸の奥で、不意に、古いエンジンの火花が散るような「ドクン」という衝撃が走った。先ほどまで頭を占領していた買収提案書の数字や、家の将来への焦燥が、彼女の不思議な一言で、凪の海のように一瞬で静まり返ってしまった。
「……正男の家なら、俺の家や」
拓海は、自分の声が少し震えていることに気づき、慌てて咳払いをした。
「えっ、あなたが息子さんの……拓海さん?」
「……あ、ああ。越智拓海。あんた、うまいこと正男に辿り着いたな。島で一番有名な『越智』を捕まえたんじゃ。……乗るか?いや、二人じゃ無理か。ついてき。すぐそこやから」
拓海は照れ隠しにカブのエンジンを吹かした。 ゆっくりと走り出すカブの後ろ姿を追いながら、弥生は隣の妹を見た。綾子は相変わらず「綺麗な音……」と呟きながら、拓海が残した空気の余韻を楽しそうになぞっている。
(……あら? これ、計算外のことが起きてない?)
弥生は、拓海が綾子に向けた一瞬の、熱を帯びた眼差しを見逃さなかった。数字と論理の世界で生きてきた弥生の計算尺が、大三島の熱い日差しの下で、全く新しい「未知の変数」――恋という名の非合理なバグを検出し始めていた。
「……汚いとこやけど、座って。今、お茶淹れるけん」
二人が通された居間は、潮風と長年焚き染められた線香の匂いが混じり合い、どこか懐かしい静寂に包まれていた。磨き上げられた黒光りする床板に、波打ち際の光が反射して、天井にゆらゆらと不規則な波紋を投げかけている。
しばらくして、拓海が大きなお盆を抱えて戻ってきた。
「菓子言うても、うちはこんなんしかないけど」
畳の上に置かれたのは、湯気の立つ熱い緑茶。そして「お茶菓子」として添えられたのは、小鉢に山盛りになった「タコの酢の物」だった。
「……えっ、タコ?」 弥生が思わず声を漏らした。信金の営業で何百件と家を回ってきたが、三時のおやつに酢だこが出てきたのは初めての経験だった。
「ああ、親父が今朝獲ってきたやつや。うちじゃこれが一番の贅沢なんよ」
拓海がぶっきらぼうに勧めると、隣に座っていた綾子が、まるで壊れ物を扱うような手つきで小鉢を引き寄せた。
綾子は箸を使わず、指先で透き通るようなタコの一片をそっと持ち上げた。そして食べるわけでもなく、それを光に透かしてじっと見つめる。
「……このタコ、深い海の底で、重たいピアノの音を聴いてた。……すごく静かで、いい音」
「え、ピアノ……?」 拓海は湯呑みを口に運ぼうとした手を止めた。自分が今朝、親父の船の生簀から取り出したタコが、そんな高尚な音楽を聴いていたなんて考えたこともない。
「綾子、行儀が悪いわよ」 弥生が嗜めるが、綾子は構わず、そのタコをいとおしそうに見つめ続けている。
「……お兄さん。この音、まだ指先に残ってるよ」
綾子がふっと顔を上げて拓海を見つめた。その瞳は、拓海の胸の奥にある「迷い」をすべて見透かしているかのように澄み切って、それでいてひどく神秘的だった。
「……ああ。そうやな。……そうかもしれん」拓海は、自分でも驚くほど優しい声で答えていた。島外から来たこの不思議な少女が語る、理屈を超えた世界。拓海が知っている無骨な島の世界が、彼女の言葉一つで、今まで見たこともない鮮やかな色彩を帯びていくようだった。
(……あ、これ、完全に落ちたわね)
弥生は、酢だこを一切れ頬張りながら、冷静に隣の青年の表情を査定した。瞳孔の開き具合、赤らんだ耳たぶ、そして綾子の突飛な言動に対する、防波堤をすべて撤廃したかのような無防備な肯定。信金のエースとしての計算尺が、大三島の古い家の中で、かつてないほどの大きな「非合理的なエネルギー」を検出していた。
「越智さん。……実は、お話があるんです」
弥生は、酢の物のさっぱりとした酸味で口の中を整えると、仕事の顔に戻って声を落とした。
「あの海に浮かぶ小さな島のこと……お伺いしてもよろしいですか?」
その言葉が出た瞬間、拓海の表情から一瞬だけ、柔らかな光が消えた。 居間の古い柱時計が、カチ、カチ、と、再び現実の時間を刻み始めた。
拓海は視線を落とし、畳の目に沿って指先をゆっくりと滑らせた。先ほどまでの綾子に向けた柔らかな表情は影を潜め、そこには地方の長男が背負わされる、湿り気を帯びた重い沈黙が降りていた。
「……あの島は、ただの岩の塊や。親父の代まで、ミカンの肥料にする腐葉土をちょこっと取りに行ったり、網を干したりしとっただけの、金にもならん場所なんよ」
拓海は掠れた声で続け、ポケットから四つ折りにされた封筒を取り出した。それは、福山の新幹線の中で支店長が漏らしていた「東京のコンサルタント会社」からの、例の買収提案書だった。
「それが、急に『五千万で売れ』言うてきたんじゃ。信じられるか? 魚も獲れん、水も出ん、あのちっぽけな島が、五千万や」
弥生はその数字を聞いて、頭の中の計算尺を高速でスライドさせた。 (五千万。坪単価に直せば、大三島の平均地価の数十倍……。単なるリゾート開発の端金にしては、あまりにも「重すぎる」数字ね)
「そのお金で、美咲の学費も、親父たちの老後も、全部帳尻が合う思うたんじゃ……。島を売るだけで、全部が丸く収まるんやったら、先祖に申し訳ないなんて言うとられん」
拓海の指先が、提案書の角を強く握りつぶした。その震える手は、彼がどれほどこの「数字」に救われ、同時に追い詰められているかを物語っていた。
弥生は、冷めた緑茶を一口飲み、まっすぐに拓海を見据えた。
「越智さん。金融の世界にはね、『理由のない幸運は、毒入りの林檎と同じ』っていう格言があるんです。……あんな岩礁に近い島に、東京の人間が五千万も積む。それは、その地下に五億、あるいは五十億の価値があるっていう計算が成り立っているからですよ」
「……五、五十億?」
拓海が絶句する。その横で、今までじっとタコの吸盤を見つめていた綾子が、不意に顔を上げた。
「……お兄さん、だめだよ。あの島、今は真っ黒い泥の中で、すごく苦しい音を立ててる」
綾子の瞳が、窓の向こうに霞む小さな島を捉えていた。
「冷たくて硬いドリルが、お腹に刺さるのを待ってるみたいな……震えるような低い音が、ここまで聴こえてくる。あの島はね、売られるのを待ってるんじゃなくて、誰かに『助けて』って言ってるの」
綾子の呟きが、線香の匂いのする居間に、波紋のように広がっていった。拓海が息を呑み、何かを言いかけようとした、その時だった。
「おーい、拓海!今日はえらいべっぴんさんの靴が並んどるじゃないか。親父の俺にも紹介してくれや!」
ガラリと力強く引き戸が開く音と共に、潮の香りが一気に居間まで流れ込んできた。大きなプラスチックのバケツを両手に提げて入ってきたのは、拓海の父・正男だった。
「あ、親父……。勝手に上がってくんなよ、今お客さんが……」 「何を水臭いこと言うとるんや。ほう、これはこれは。ようおいでました」
正男は、拓海が言った通り、笑うと顔中の皺が中心に集まり、目が線になってしまうような「くしゃくしゃの笑顔」を浮かべた。その笑顔は、初夏の太陽のように屈託がなく、見る者の警戒心を一瞬で融かしてしまうような、圧倒的な善意に満ちている。
立ち上がって挨拶をしようとした弥生は、その正男の姿を眩しそうに見つめながら、福山の瀬戸町にいる自分の父親のことを思い出していた。
(……全然、違う)
弥生の父は、あんな風に笑う男ではなかった。いつも不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、庭の盆栽をハサミで弄りながら、家族に対しても言葉を惜しんだ。父が守ろうとしていた「泥」は、他人を寄せ付けないための壁のようであり、その沈黙は頑なな防護壁だった。
対して、目の前の正男は、まるで凪いだ瀬戸内の海そのものだ。隠し事など何一つなさそうな透明さと、誰をも受け入れてしまう無防備な明るさ。だが、信金職員として「数字の毒」を知る弥生にとって、その正男の眩しさは、かえって痛々しく、危ういものに映った。
(お父さんは、あんな風に笑えなかったからこそ、あの『厄介な合意書』を誰にも渡さずに抱え込んでこれたのかもしれない……)
もし自分の父が、この正男のように真っ直ぐで優しい人だったなら、都会から来たプロに、とうの昔に毟り取られていただろう。自分の父が「硬くて砕けない泥」だったのに対し、正男は「どこまでも透き通った水」だ。水は美しいが、毒を流し込まれれば、瞬時に汚染されてしまう。
「今日は大漁でな、ええ鯛が入っとるんよ。お嬢さんたち、せっかく大三島に来たんじゃ。仕事の話か何か知らんが、まずはうちの魚を食べていきんさい!」
正男の朗らかな声が、古い家の中に響き渡る。弥生は、胸の奥で渦巻く複雑な感情を、無理やり計算尺の裏側に押し込めた。自分の父を愛せなかったのは、その「可愛げのなさ」のせいだと思っていた。けれど、今こうして「可愛げのある父親」を目の前にして、弥生は猛烈な危機感を抱いている。
「……島を案内するよ」
正男の快活な声に背中を押されるように、三人は外へ出た。
家を出ると、初夏の眩い陽光が古い瓦屋根に反射して、街全体がキラキラと輝いている。 路地の脇には色鮮やかなブーゲンビリアが咲き誇り、どこからか潮風に乗って、甘いミカンの花の香りが漂ってきた。
拓海が先導したのは、集落の端にひっそりと佇む小さな神社の脇道だった。潮風で赤茶けた小さな鳥居をくぐり、木々の枝がトンネルのように張り出した平坦な道を進んでいく。
弥生は、大きく深呼吸をした。鼻腔を抜ける空気は、彼女たちが住む瀬戸町のそれとは明らかに違っていた。ここ大三島の空気は、すぐ背後に控える「神の山」の吐息がそのまま降りてきたような、深い森の湿り気を含んだ芳醇な匂いがした。
「……すごく、濃い匂い。深い、深い緑の音がする」
綾子が楽しそうに声を弾ませる。彼女は拓海の後ろを、まるで光を追いかける子犬のように軽やかな足取りでついていった。
「ここや。この島で唯一、山から冷たい水が湧き出とる場所」
神社の裏手に回り込むと、うっそうと茂るシダ植物の陰から、涼やかな水の音が聞こえてきた。 そこは、大きな岩の割れ目から水晶のように澄んだ水が絶え間なく湧き出し、苔むした古い石造りの水槽を満たしている、島の人々にとって大切な「湧き水場所」だった。
「うわあ……」
弥生は思わず声を上げた。都会の喧騒も、信金のノルマも、そして父の残した厄介な謎も、すべてこの清冽な水の流れが洗い流してくれるような気がした。
「ここは『明けの井戸』言うてな。親父も、俺も、赤ん坊の時はここの水で作った産湯に浸かったんや」
拓海が備え付けの柄杓を取り、冷たい水を掬って二人に差し出した。
「飲んでみ。」
弥生はそれを受け取り、一口喉に流し込んだ。驚くほど冷たく、そしてほのかな土の香りがした。瀬戸内の地層を通り抜けてきた、生命力の塊のような味がした。
古い花崗岩の隙間から湧き出す水。岩肌には、ベルベットのように厚みのある鮮やかな苔が、滴り落ちる飛沫を吸い込んで青々と輝いている。水槽の底に沈んだ小石のひとつひとつが、拡大鏡で覗いているかのようにくっきりと見え、時折、底から湧き上がる気泡が、水晶の粒のように水面で弾けていた。
溢れ出した水は、石造りの水槽の縁を滑るように越え、さらにその先へと続く細い小川を形作っている。
小川といっても、両手で堰き止められてしまうほどの小さな流れだ。しかしそこには、驚くほど濃密な生命の営みが凝縮されていた。水底には、長い年月をかけて削り込まれた滑らかな銀色の砂利が敷き詰められ、その間を、透明な身体をした小さなヌマエビが、影を躍らせながら器用に泳ぎ回っている。
流れの脇には、瑞々しいセリやクレソンが自生し、水に浸かった葉先が流れに身を任せてゆらゆらと揺れる。 木漏れ日が、水面のわずかな揺らぎを透過して川底に網目状の光の紋様を描き出し、それが流れる水とともに下流へとさらわれては、また新しく形作られていく。
「……見て、お姉ちゃん。水の階段が続いてる」
綾子が指差す先、小川は集落の石垣に沿って、段々畑のように組まれた小さな石の段差をさらさらと流れ落ちていた。 その水音は、先ほど海辺で聞いた台船の不快な金属音を一時的にかき消してくれるほど、清らかで、無垢なリズムを刻んでいる。
「この水、最後にはさっきの海に帰るんや。……島全体を巡って、また海へ」
拓海が、流れる水を目で追いながら静かに言った。 その先にあるのは、重油と鉄に汚されようとしている、あの無人島の海域だ。
拓海は、流れる水から視線を上げ、遠く霞む自身の所有島――ひときわ不自然な台船が居座るあの岩礁を、苦々しく見つめた。そして、何かに耐えるように低く、島の古い言い伝えを語り始めた。
「……あそこはな、島の人間の間では『要石』の一端やと言われとるんよ」
「要石?」 弥生が聞き返すと、拓海はゆっくりと頷いた。
「この大三島はな、『国生み』の神話にも登場する、瀬戸内でも特別な島なんや。伊予の国の一宮として、大山祇神社が鎮座しとる。全国にある一万社余りの『山祇神社』の総本社……。山の神、海の神、そして戦の神。この瀬戸内のすべての生命を統べる神様が棲む島なんよ」
拓海の指差す先、午後の陽光を浴びて黒々と光る岩礁が、まるで巨大な何かの背中のように波間に見え隠れしている。
「言い伝えではな、神様がこの荒ぶる瀬戸の潮流を鎮めるために、地の底へ七本の『石の釘』を打ち込んで、この辺りの地盤を縫い止めたと言われとる。あの小さな無人島は、その釘の頭のひとつなんや。国を形作った時の、最後の楔みたいなもんやな」
「国の、最後の楔……」
弥生はその言葉を噛み締めた。単なる不動産の売買だと思っていたものが、拓海の話を聞くうちに、もっと根源的で、恐ろしいものの境界線に触れているような感覚に陥る。
「釘を抜けば、あるいは傷つければ、地の底から『腐った泥』が溢れ出し、瀬戸内の海は一夜にして死に絶える……。子供の頃は、そう言って親父や爺さんに脅されたもんや。迷信やとは分かっとるけど、あの大山祇神社の古い楠の前に立つと、あながち嘘やない気もしてくるんよ」
拓海は自嘲気味に笑ったが、その瞳には言いようのない不安が揺れていた。かつては笑い話で済んでいたその「迷信」が、今、東京から来た男が持ち込んだ「ボーリング調査」という名の巨大な錐によって、現実の恐怖として立ち現れようとしている。
「石の釘……。だから、あそこに執着しているのね」
弥生は呟き、懐の合意書に触れた。父が守ろうとした「泥」と、大三島に伝わる「地の底から溢れる泥」。それらが同じものを指しているのだとしたら、その会社が掘り起こそうとしているのは、この海の平穏を根底から破壊する「禁忌」そのものかもしれない。
「……お兄さん、それは迷信じゃないよ」
不意に、綾子が遮った。彼女は湧き水の水槽に指を浸したまま、どこか遠くの深い場所から響いてくる音を聴くように、耳を澄ませている。
「石の釘は、今も一生懸命、海の底で粘ってる。でも、もうすぐ限界だって言ってる。……重たくて黒いものが、釘の隙間からじわりじわりと漏れ出そうとしてる音がするの」
「綾子……」
「お姉ちゃん、この水は知ってるんだよ。山から海へ流れて、あの釘の周りを洗って、また雲になって帰ってくる。ずっと、ずっと昔から、この島の『帳尻』を合わせてきたのは、神様じゃなくて、この水なんだね」
綾子の言葉に、拓海は言葉を失った。代々この島で暮らし、当たり前のようにこの水を飲み、あの大山祇神社の影を感じて生きてきた。けれど、その循環の重みを、こんなにも鮮やかに、そして恐ろしく言い当てられたことはなかった。
弥生は、冷たい水面を見つめたまま動かない拓海の横顔に、静かに問いかけた。
「……拓海さん。その『石の釘』を抜きに来た男のこと、詳しく教えてもらえないかしら。東京のコンサルタントがここへ来た時のことを」
拓海はゆっくりと顔を上げ、手についた水滴を無造作にズボンで拭った。その視線は、遠い日の記憶を探るように少しだけ宙を彷徨った。
「……二週間前のことや。親父が海に出とる昼下がりに、宮浦の港から路線バスにでも乗ってきたんか、突然一人でうちにやって来た」
拓海語る姿は、弥生が想像していたような「地上げ屋」とはまるで違っていた。
「すごく丁寧で、物腰の柔らかい男やったよ。威圧感なんて全然なかったけど、この島の潮風にはどう見ても不釣り合いな、生真面目すぎるビジネスマンって感じやった」
「何を言われたの?」
「縁側に分厚い資料を広げてな。自分は海外の事業家から依頼を受けた代理人だって言うんや。『クライアントが、どうしてもこの瀬戸内の無人島を買い取りたいと望んでいる』と」
「海外の事業家……?」
「ああ。目的はリゾート開発なのか、単なる投機なのか、彼自身も『クライアントの真意までは測りかねますが』って正直に言っとった。ただ、提示された額が五千万や。……あいつは、うちの妹の進学や、親父たちの老後のことまで、きっちり調べ上げとってな。『この金額なら、越智家が抱えている将来の不安をすべて解決できます』って、すごく誠実に、丁寧に説明されたんや」
拓海は自嘲するように短く息を吐いた。
「騙そうとか、脅そうとか、そういう悪気は一切感じんかった。俺の心の中にある将来への不安を見透かしている様で、それに対して完璧な『解決策』を提示してくれた。……だからこそ、断りきれんかったんよ」
拓海の自嘲気味なため息が、木漏れ日の落ちる静かな石段に吸い込まれていく。 その男が、悪意を持った地上げ屋ではなく、ただ極めて有能なビジネスの仲介者であったという事実。それはかえって、この買収劇の背後にある「見えない意図」の不気味さを際立たせていた。
(海外の事業家……。一体、何が目的なの?)
弥生は腕を組み、信金職員としての冷徹な計算尺を頭の中で弾き始めた。 あの無人島に五千万。それに加えて、莫大な費用のかかる海上ボーリング調査まで行っている。それに見合うだけのリターンとは何だ?
(リゾート開発?……あり得ないわ。砂浜も平地もないただの岩礁よ。じゃあ、温泉?……いや、大三島周辺は花崗岩の硬い岩盤だらけ。いくら深く掘ったところで、観光客を呼べるような湯脈が湧くわけがない)
富裕層のプライベートリゾートにしても、周囲は地元の漁船が頻繁に行き交う海域で、プライバシーも何もない。太陽光発電なんかのメガソーラー施設を建てるにしても、面積が圧倒的に足りない。表向きの不動産ビジネスや開発のロジックでは、どう計算しても初期投資の帳尻が合わないのだ。
(普通の事業じゃない。でも、父の残した合意書にあるような『海底の泥』が目当てだとしても、なぜわざわざ個人の無人島を『真っ当な不動産取引』で買おうとするの?点と点が、どうしても繋がらない)
弥生は小さく唇を噛んだ。
「……お姉ちゃん、頭の中がぐるぐる回ってる音がする」
ふいに、横で小川を覗き込んでいた綾子が、心配そうに弥生の顔を見上げた。
「……ごめんなさい、ちょっと考え事をしてたわ。その背後にいるクライアントの狙いが、どうしても読めなくて」
弥生は、湧き水の冷たさが残る指先をハンカチでそっと拭い、拓海の目を見た。
「拓海さん。今の時点では、相手の本当の目的は分からないわ。でも一つだけ確かなのは、彼らの計算機の中では、あの島にそれだけの価値があるという答えがすでに出ているということよ。……そして、その価値はきっと、この島の平穏な空気とは相容れないものだわ」
弥生はハンカチをボストンバッグに仕舞い、スッと背筋を伸ばした。
「さあ、帰りましょう。ここで頭を抱えていても始まらないわ。正男さんの美味しい刺身を食べながら、私たちなりの作戦会議よ。見えないクライアントの本当の狙いを、少しずつ暴いていくんだから」
弥生の力強い言葉に、拓海は少しだけ救われたような顔をして、小さく頷いた。三人は、清らかな水の音を背中で聞きながら、再び陽光の降り注ぐ集落の路地へと歩き出した。
7
初夏の抜けるような青空を、幾棟もの巨大なガラス張りの高層ビル群が鋭く切り取っている。東京・大手町。日本の金融と経済の中枢を担うこの街は、秩序良く整備された舗道と、整然と並ぶ街路樹によって、人間の営みと無機質な建築物のバランスを絶妙に保っている。
その中の一棟、外資系エネルギー・メジャーの日本支社が入る地上四十階の特別会議室では、瀬戸内の湿った潮風や泥臭い生命の営みから遠く隔絶された、完全空調の冷たい空気が流れていた。窓のブラインドは固く閉ざされ、巨大なモニターの青白い光だけが室内を照らしている。
画面に映し出されているのは、瀬戸内海の広域海図。無数の島々が点在する中、大三島の南西に位置する極小のドットに対して、赤いポインタが静かに点滅している。
「――以上が、プロジェクト『NAGI』の現段階における進捗です。現地に派遣している外部エージェントが、対象エリアの所有者との最終交渉に入っています。現在実施中のボーリング調査によるコアサンプルの一次データは、明日午前中には本社のデータベースへ直接アップロードされる手筈となっています」
報告を終えた若手社員の声に、重厚な革張りの椅子に深く腰掛けた役員が、満足げに小さく頷いた。
「よろしい。エージェントには引き続き『海外事業家によるプライベートリゾート開発』というカモフラージュを徹底させろ。地元の漁協や自治体といったノイズに感づかれる前に、完璧な合法取引として所有権をこちらへ移管させるんだ。……我々が手に入れたいのは、あの岩礁の『表面』ではないのだからな」
「はっ。抜かりなく進めております」
短い確認とともに、会議は無駄なく散会となった。
分厚い防音扉が開き、数人のプロジェクトメンバーが静まり返った廊下へと出てくる。その中の一人、データアナリストの女性社員が、隣を歩く中堅のプロジェクトマネージャーの男性に、ヒールの音を響かせながら低く話しかけた。
「……本社のトップ連中は、何をそんなに焦っているんでしょうか」
女性社員は微かに眉をひそめ、ヒールの音を響かせながら続けた。
「化石燃料からの転換期とはいえ、あんな瀬戸内海のど真ん中の、しかも個人が所有している島々に大きな予算を割いて。ただの岩礁に対する買収額としては、相場を大きく逸脱しすぎているわ」
「俺たち極東支社の人間は、言われた通りに現場から上がってくる数字を整えるだけさ」
男性社員は、首元のネクタイを少し緩めながら肩をすくめた。その声のトーンは、会議室にいた時よりも一段低くなっていた。
「ただ……本社の特別チームが衛星から弾き出したあの『予測値』。もしあれが本当なら、現在の提示額の何十倍、いや何百倍を積んでも余裕でお釣りがくる。あの小さな岩礁の地下深くには、次世代のインフラ市場を牽引しうるだけの『未踏の鉱脈』が眠っているらしい。俺たちには、その全体像すら知らされていないプロジェクトさ」
「……そのための、入念なカモフラージュってわけね」
女性社員は、冷たい窓ガラス越しに見下ろす大手町の無機質なビル群に目を向けた。
「地元の漁師たちは、自分たちの足元にあるものの本当の価値に一生気づかないまま、提示された小切手を握りしめて喜ぶんでしょうね」
「無知は罪じゃない。ただの機会損失さ。彼らにとっては、海に沈んだままの莫大な価値よりも、目の前で手渡される現金の方がよほどリアルで役に立つ。誰も不幸にはならないさ」
二人の静かな会話は、分厚い絨毯に吸い込まれるように消えていった。
彼らが所属するそのエネルギー企業は、欧米に本社を置き、世界中で資源開発を手がける有数の外資系メジャーである。その事業の根幹は、資源の「上流」から「下流」までを自社で掌握する垂直統合モデルにあった。未開の地層から化石燃料を探し当てる探鉱・採掘に始まり、専用のタンカー船団や巨大なパイプラインによる輸送、そして沿岸部のプラントでの精製に至るまで、資源が富に変わるすべての過程を一つのシステムとして完結させている。
まだ多くの国内企業が「義理と人情」といった泥臭い人間関係や、旧態依然とした属人的な商習慣に重きを置いている中で、この会社は遥かに進んだ欧米型の冷徹な合理主義によって駆動していた。国籍を問わず世界中から優秀なエリートをヘッドハンティングし、本社の専用フロアに鎮座する最新鋭の大型コンピューターを使って、世界規模の市場データと地質データを一元的に解析する。彼らにとって、ビジネスとは情熱や汗の結晶ではなく、極めて精緻な数学の延長だった。
そして、このシステムを動かす唯一にして絶対のルールが、「株主利益の最大化」である。 彼らが向き合っているのは、現場で汗を流す労働者でも、土地を提供する地元住民でもない。ウォール街や各国の金融市場で自社の株を保有する、顔も見えない無数の機関投資家たちである。いかにして最小の投資で最大の利回りを叩き出し、莫大な配当を約束するか。株主への利益還元という至上命題の前では、地方の伝統も、個人の感傷も、すべては貸借対照表上の「数字」にはのらない、無価値なモノだった。
二度にわたるオイルショックの余波が世界を覆う中、この無慈悲なまでに優秀な企業の首脳陣は、誰よりも早く「次」の時代を先読みし始めていた。果てしなく続くと思われた石油の世紀にも、いつか必ず転換期が訪れる。次世代の産業覇権を握り続けるために本当に必要なのは、他国の政治情勢に振り回される従来の化石燃料だけではないという真理を、トップエリートたちはとうに理解していた。
来るべき高度なエレクトロニクスと先端技術の時代。彼らが極秘裏に探し求めていたのは、その新しい産業の根底を支えることになる「新しい泥」――すなわち、将来的に決定的な価値を生むであろう、未知の重要鉱物の独占である。
彼らのやり方は常に静かで、そして徹底的だった。最新鋭の資源探査衛星とコンピューター解析により、世界中の未踏の地層を上空からスキャンする。磁気テープの上にわずかでも有望な特異点が浮かび上がれば、決して自らの名前は出さず、ダミーの投資ファンドや「海外の事業家」という隠れ蓑を用意する。
そして、現地事情に通じた優秀なエージェントを送り込み、地盤の底に眠る価値など知る由もない地元住民から、合法的に、かつ相手が「思いがけない幸運を手にした」と錯覚する絶妙な金額で権利を買い叩くのだ。地元コミュニティや自治体がその真の価値に気づいた頃には、すでに開発の準備が終わり、あらゆる権利関係は完璧な法務の壁によって守られた「既成事実」となっている。
大手町のビル群の足元に広がる、ガラス張りの洗練されたカフェ。昼休みの店内は、完璧に仕立てられたスーツ姿の男女と、飛び交う複数の言語、そしてグラスの氷が触れ合う乾いた音で満たされていた。
「……結局のところ、丸菱商事みたいな日本の古い組織じゃ、意思決定に時間がかかりすぎるんだよ。根回しに次ぐ根回しで、プロジェクトが動き出す頃には市場のフェーズが完全に変わってる」
エスプレッソのカップを置きながら、プロジェクトマネージャーの高坂が口を開いた。国内最大手の総合商社からMBA留学を経てこの外資系メジャーに引き抜かれた彼は、まさにこの街の冷徹な合理主義を体現したような男だった。無駄のない所作と、常に数字の先を読もうとする鋭い視線。
「この会社のトップダウンの速さと、情を挟まない冷酷さには痺れるよ。今回の『NAGI』プロジェクトにしても、瀬戸内のちっぽけな岩礁一つに、よくあそこまで迅速に巨額の絵を描けるもんだ」
対面に座るデータアナリストの柚子は、自分の前に置かれた手つかずのペリエを見つめたまま、静かに相槌を打った。彼女は九州の国立大学を卒業後、新卒でこの会社に入社した。同期の中でも群を抜くデータ処理能力と論理的思考を買われ、若くして特別チームに抜擢された極めて優秀な社員だ。
「……高坂さんは、躊躇がないんですね」
柚子がぽつりとこぼした言葉に、高坂は怪訝そうに眉を寄せた。
「躊躇?何に対してだ。あの島に住んでる漁師の家族にか?」 「ええ。私たちが弾き出した座標と数字のせいで、彼らの足元にある土地が、明日から全く違う意味を持ってしまうことに対して」
高坂は軽く肩をすくめ、このカフェの名物であるクロワッサンを一口かじった。
「ビジネスは感情のトレードじゃない。彼らには適正以上の対価が支払われる。それが資本主義の美しいところだろ。……お前、最近少し様子がおかしいぞ。データの読み込みにブレはないが、どこか遠くを見ているような気がする」
柚子はグラスの水滴を指先でなぞりながら、ふっと小さく息を吐いた。
「……私、会社を辞めて、熊本の実家に帰ろうかと思ってるんです」
突然の告白に、高坂はカップへ伸ばしかけた手をピタリと止めた。
「本気か? 次のポストも約束されてるってのに。キャリアを捨てるには早すぎるだろ。何か不満があるのか?」
「不満はありません。お給料もやりがいも十分すぎるほどです。ただ……」
柚子は窓の外を行き交う、足早な人々の群れに視線を移した。
「このままここで数字と座標だけを追いかけていたら、自分が何を踏み潰しているのか、一生気づかない人間になってしまいそうで怖いんです。私の実家のある熊本は、阿蘇の山から流れ出る地下水で街中が潤っているような場所です。もし、私たちの衛星がその阿蘇の地下に『未踏の価値』を見つけたら……私は迷わず、故郷の水を枯らすための計算式を組むことになる。それが、ここでの私の仕事だから」
彼女の瞳の奥には、大手町の無機質なビル群の反射ではない、もっと深く湿った光が揺れていた。
「大三島のあの小さな点にも、きっとそこにしかない水が流れ、誰かの生活がある。……それを『単なるノイズ』だと切り捨ててしまうこの街の空気が、少しだけ息苦しくなってきたんです」
高坂は何も言わず、ただ静かに柚子を見つめ返した。彼のMBAの教科書には、彼女のその不合理な感情を処理するための数式は載っていなかった。
カフェのスピーカーから流れる静かなボサノバが、二人の間に落ちた沈黙を薄く覆い隠していた。
8
瀬戸内の穏やかな日差しがブラインド越しに差し込む、瀬戸内信用金庫・芦田川支店。カシャカシャという猛烈な電卓のタップ音や、札束を数える小気味よい音がフロアに響く中、融資課のエースである弥生のデスクに、ずんぐりとした影が落ちた。
「いやぁ、素晴らしい。実に素晴らしいよ、うちのジャンヌ・ダルクは」
薄くなった頭頂部をハンカチで丁寧に押さえながら、支店長が満面の笑みで立っていた。
「君が今月も早々に融資ノルマを200%達成してくれたおかげで、私の胃壁と頭髪はこれ以上の後退を免れている。君のその冷徹なまでの計算力は、まさに瀬戸内信金の宝だ」
「支店長。その手垢のついた賛辞の裏に、また町工場の厄介なリスケ(返済条件変更)案件でも押し付けようとする下心が透けて見えていますよ」
弥生はパソコンの画面から一切目を離さず、淡々と打ち返した。
「あと、先日私のデスクの決済箱に紛れ込ませていた高級育毛剤の領収書、『接待交際費』で落とそうとするのはやめてください。本店の監査が入ったら私の首まで飛びます」
「ゲホッ、ゴホッ!」
支店長はわざとらしく咳き込み、周囲をチラチラと見回した。
「人聞きの悪いことを言うな。あれは取引先の薬局の売上貢献という立派な大義名分が……まあいい!それより弥生くん、君は昨日、有休を取ってから一体何をそんなに熱心に調べているんだね?新規の大型融資先かい?」
支店長が弥生のモニターを背後から覗き込む。そこには、地元企業の財務諸表ではなく、何故か「瀬戸内海の広域地質図」や「海外ファンドらしき複雑な法人登記簿」がいくつも並んでいた。
「……弥生くん。君はいつから地質学者か、マルサの査察官に転職したんだ?うちは地元の信用金庫であって、海底探査のスポンサーじゃないんだが」
「ご心配なく。信金の業務なら、今日の午前中で来月分の見込みまで完璧に帳尻を合わせておきましたから」
弥生はやっとキーボードから手を離し、くるりと椅子を回転させて支店長を見上げた。
その瞳の奥に宿る、決して冗談では済まされない冷たい光を察知したのか、支店長は「ま、まあ、瀬戸内信金の看板にだけは傷をつけるなよ……」と口ごもりながら、そそくさと奥の支店長室へ逃げ込んでいった。
パタン、とドアが閉まる音を聞き届けると、弥生は再びモニターに向き直り、小さく息を吐いた。
(背後にある『本当の計算式』は、一体何なの……?)
画面には、彼が提示したダミー会社らしき法人情報が並んでいる。いくら優秀なエージェントとはいえ、ただの小さな岩礁に対して、漁師一家が抱える負債と将来の不安を相殺してみせるような「絶妙な数字」をポンと提示する事業など、真っ当な不動産取引の枠組みでは絶対にあり得ない。リゾート開発の線は消えた。となれば、目的は「土地」そのものではない。
弥生はそっと目を閉じ、こめかみを指で揉みほぐした。すると、昨日の夕方、大三島の越智家でご馳走になった見事な鯛料理の香りが、ふわりと鼻腔の奥に蘇ってきた。
『……お姉ちゃん、いっぱい食べてな。親父が釣った中で、今日一番ええやつやけん』
正男が分厚い手でさばいてくれた、透き通るような鯛の刺身。瀬戸内の激しい潮流で揉まれたその身は、驚くほど弾力があり、噛むほどに上品で力強い甘みが口いっぱいに広がった。
『美味いじゃろ。この辺の鯛が特別なんは、あの無人島の周りの潮のおかげなんよ』
正男は、自ら注いだ日本酒のグラスを傾けながら、日焼けした顔に深い皺を寄せて笑っていた。
『あの岩礁の真下はな、海図にもはっきり載らんくらい、すり鉢みたいに深くえぐれとるんや。そこに複雑な潮がぶつかり合って、海の底から古くて豊かな泥が巻き上がってくる。だからプランクトンが湧き、極上の魚が育つ。うちの親父も爺さんも、あそこは神様がくれた特別な生簀や言うて、ずっと大事にしとったんや』
――海の底から、泥が巻き上がる。
弥生はハッと目を開き、キーボードの上に置いた自分の両手を見つめた。 父が遺したあの不格好な合意書に書かれていた「泥」という言葉。そして、大三島の言い伝えにある「石の釘」と、地の底から溢れるという何か。
(……間違いない。あのエージェントたちが本当に狙っているのは、島そのものじゃないわ)
彼らは「無人島の所有権」を買おうとしているのではない。その島の所有権を盾にして独占できる「周辺海域」、いや、さらにその奥深く――正男たちが命の糧としてきた豊かな海を支える「すり鉢の底」に眠る何かを、丸ごと買い叩こうとしているのだ。田舎の漁師にとっては目の眩むような、しかし彼らの巨大な資本からすれば経費の端数にも満たないような「はした金」で。
「……相手の目的が『不動産』じゃないなら、計算尺の目盛りを変えるだけよ」
弥生は誰に言うともなく低く呟き、再び猛烈なスピードでキーボードを叩き始めた。検索窓に打ち込まれたのは、不動産登記ではなく、経済産業省が管轄する「海底鉱物資源」や「広域地質調査」の過去のデータだった。
瀬戸内信金のエースとしてのプライドが、静かな怒りとともに発熱していくのを感じながら、弥生は「見えないクライアント」の正体へと少しずつ肉薄していった。
9
東京の閑静な住宅街にある、洗練されたマンションの一室。ダイニングテーブルの上には、彩り豊かな手料理が並び、間接照明の柔らかな光が落ち着いた空間を作っていた。
「……それでね、駅前のスーパーの鮮魚コーナーの店長さんが、すごく得意げに教えてくれたのよ。今日は特別に良い真鯛が入ったから絶対に買いだって」
妻の潤子は、楽しげに小鉢へ箸を伸ばしながら、今日あった他愛のない出来事を語っていた。
「愛媛の近くの海で獲れたらしいんだけど、潮流がすごく激しい場所だから、身の締まり方が全然違うんですって。あなた、最近出張ばかりで魚を食べていなかったでしょう? だから奮発しちゃった」
「ああ、すごく美味しいよ。君の買い物に対する審美眼は、いつも完璧だ」
細川は穏やかに微笑み、一切れの鯛を口へ運んだ。仕事場で見せる隙のないエージェントとしての顔はそこにはない。妻の話に丁寧に耳を傾け、家庭の平穏を大切にする、どこにでもいる穏やかで知的な夫の姿だった。
「良かった。……あ、そういえば明日の夜は、お義母さんが……」
潤子の声が心地よいBGMのように流れる中、細川は相槌を打ちながら、ふとテーブルの端に置いてあった夕刊紙へ視線を落とした。
彼の目は、一面の華々しい政治ニュースでも、社会面の事件でもなく、経済面の隅にひっそりと掲載された小さな囲み記事に吸い寄せられていた。
『――次世代インフラに向けた「未踏資源」の囲い込み。欧米エネルギー大手、極東エリアの海洋地質データ解析に巨額投資か』
短いベタ記事だった。一般の読者なら三秒で読み飛ばすような、無味乾燥な経済の動向。しかし、細川の優秀な頭脳は、その数行の文字列から無数の情報を引き出し、瞬時に一つの「仮説」を構築し始めていた。
(……海洋地質データの解析。それに、この外資系メジャーの動き……)
細川は、表情を一切変えることなく、咀嚼のスピードだけをわずかに落とした。脳裏に浮かんだのは、自分が現在担当しているクライアント――「海外の事業家」を名乗るダミーファンドの担当者から受けた、あの奇妙な指示の数々だった。
『用途はプライベートリゾートとお考えください。ただし、契約前に必ず、指定の座標で深深度のボーリング調査を行うことが絶対条件です』
ただの無人島を買うにしては、不自然なほど巨額な予算。そして、リゾート開発の地盤調査という名目にしては、あまりにも深すぎるコアサンプルの採取。
(……なるほど。そういうことか)
細川は静かに息を吐き、手元の茶碗を置いた。自分はこれまで、クライアントの目的を「訳ありの富裕層による投機か、道楽のリゾート開発」程度だと認識し、そのシナリオに沿って最も合理的に地元漁師との交渉を進めてきた。自分が描いた完璧な買収計画に、一切の疑いを持たずに。
だが、もしこの記事が示す通り、相手の真の目的が島そのものではなく、その地下深く――次世代の産業構造すら変えうる『何か』の発掘だったとしたら。
クライアントは、交渉相手である地元の漁師を騙しているだけではない。代理人である細川自身にも、本当の価値を隠したまま「リゾート開発の用地買収」というカモフラージュの片棒を担がせているのだ。
「……あなた? どうかしたの?」
不意に潤子に覗き込まれ、細川はスッと夕刊から目を離した。
「いや、何でもないよ。少し仕事のことを思い出していただけだ」
「もう、家では仕事のことは忘れるって約束でしょう? せっかくの美味しいお魚が台無しになっちゃうわよ」
「そうだね。申し訳ない」
細川は柔らかく微笑み返し、再び箸を取った。
「そういえば、福山のお義母さんや、妹さんたちは変わりないかい?」
不意に投げかけられた言葉に、潤子は小鉢へ伸ばしかけた箸をピタリと止めた。
「え……?ええ、こないだ三女の綾子から電話があった時は、特にお母さんも変わった様子はなかったけれど。急にどうしたの?」
(まさか、私がつい先日、誰にも内緒で福山へ戻ったことがバレているのだろうか)
潤子は内心の小さな動揺を隠し、努めて平静な声を取り繕った。
「いや。今度の連休、久しぶりに君の実家へ帰省しないかと思ってね。結婚の挨拶に伺って以来、僕もすっかりご無沙汰してしまっているから、一度ゆっくり顔を出したいと考えていたんだ」
細川の穏やかな提案に、潤子はホッと胸を撫で下ろすと同時に、困ったように眉を下げた。
「……気持ちは嬉しいわ。でも、私、どの面下げて福山に帰ればいいか、分からないの。あの時、お父さんがちゃぶ台をひっくり返して大喧嘩になったまま、私、家出同然で東京に出てきちゃったから……」
「もう何年も前のことじゃないか。あの時、僕のスーツに手作りの甘酢漬けが飛んできたのも、今となってはいい思い出だよ」
細川は冗談めかして笑い、妻の少し強張った表情を見つめて静かに言葉を継いだ。
「君はこうして立派に東京で暮らしている。娘が幸せにやっている姿を見れば、あんなに気難しかったお義父さんだって、きっと安心するはずだ。……それに、君自身も、本当はたまには顔を見たいと思っているんじゃないのかい?」
その静かで優しい声に、潤子は言葉に詰まった。
――夫は何も気づいていない。潤子は、目の前で微笑む夫を見つめながら、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
彼女は、夫が関わっている巨大プロジェクトの全貌を完璧に把握しているわけではなかった。しかし数週間前、夫の書斎で開かれたままになっていた鞄の中から、「大三島」の周辺海域に赤く印がつけられた海図と、「買収」「権利移管」といった不穏な文字が並ぶ書類を偶然目にしてしまったのだ。
夫の有能さを誰よりも知っているからこそ、潤子は直感した。夫が携わっているその仕事が、遠からず自分の故郷の海を無機質に塗り替えてしまうのだろうと。
だからこそ潤子は先日、衝動的に日帰りで福山へ戻り、鞆の浦の小屋に忍び込んだのだ。 夫の仕事が具体的に何なのかは分からない。けれど、あの海を昔のままに留めておけるものがあるとすれば、かつて父が隠し持っていた、法を無視した土着の『泥の合意書』しかないような気がしたのだ。愛する夫を直接裏切って、仕事を正面から邪魔をすることはできない。せめて、父の泥臭い歴史だけは自分の手で守りたかった。
「……そうね。お母さん、この前の電話で少し腰の調子が良くないって言ってたし。たまには、お父さんたちの顔を見せてあげた方がいいかもしれないわね」
潤子は、湧き上がる罪悪感を飲み込み、しおらしい妻の顔を作って小さく微笑んだ。
「ありがとう。……でも、本当に急ね。あなたから福山の話をしてくるなんて」
「歳を取ったせいかな。最近、家族の繋がりとか、故郷の泥臭さとか……そういうものが少し羨ましく思える時があるんだ」
細川は、妻の不器用な優しさに触れたと思い込み、静かに笑い返した。
食卓には変わらず温かな空気が流れていたが、一流のエージェントである夫と、故郷を守るために密かな足跡を残してきた妻は、互いの「秘密」を隠したまま、静かに微笑み合っていた。
10
初夏の日差しが照りつける、新幹線「こだま」の福山駅ホーム。 列車のドアがスライドして開き、むっとした温かい空気が車内の冷気にぶつかっていく中、細川と潤子はホームへと降り立った。
目の前に広がるのは、駅のすぐ北側にそびえ立つ福山城の白亜の天守閣だ。青空を背景に凛と建つその姿は、東京のそびえ立つガラス張りのビル群とは違う、地方都市特有の穏やかでどっしりとした時間の流れを感じさせる。
「……着いたね。このお城を見るのも久しぶりだ」 細川はキャリーケースの持ち手を引き上げながら、少し眩しそうに目を細めて城を見上げた。その横顔は、一流のエージェントとしての張り詰めた緊張感を解き、穏やかな夫の顔に戻っているように見えた。
「ええ……本当に久しぶりね」 潤子もまた、日傘を広げながら小さく頷いた。風に乗って微かに漂う、瀬戸内特有の潮の香りと少し湿った土の匂い。東京の無機質なコンクリートの匂いとは違う、重たくて懐かしい故郷の空気が、彼女の胸の奥をチクリと刺激する。つい先日、秘密裏に鞆の浦の小屋へ忍び込んだ時の記憶が、鮮明に蘇ってきた。
二人は並んで、改札へと続く長いエスカレーターに乗った。ゆっくりと下っていくステップの上で、細川がふと、手元の腕時計に視線を落とした。
「潤子。実家に行く前に、君は少しお茶でもして待っていてくれるかい? それか、先に実家へ向かってくれていてもいい。実は、この近くで少しだけ野暮用を済ませておきたくてね」
不意の申し出に、潤子は一段下のステップから振り返り、少し驚いたように夫を見た。
「野暮用って……お仕事?」
「いや、ほんの些細な調べ物さ。せっかくここまで来たんだから、ついでにね。君を歩き回らせるのも悪いし、一時間かそこらで終わらせてすぐに向かうよ。……先に顔を出して、お義父さんの機嫌を少しでも直しておいてくれると助かるな」
細川は冗談めかして笑い、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……そう。分かったわ。じゃあ、先に行って待ってるわね。道、覚えている?」 「ああ、大丈夫。ちゃぶ台の配置が変わっていないことを祈るよ」
改札を抜け、南口のコンコースで別れる際、潤子は夫の背中を静かに見送った。 『些細な調べ物』。その言葉の裏にあるものを、彼女は薄々感じ取っていた。彼が向かうのは、きっとあの「大三島の海」に繋がる何かの仕事だろう。
一方で細川もまた、駅の雑踏に消えていく妻の後ろ姿を一瞥し、スーツのポケットの中で小さく息を吐いた。
新幹線と在来線の乗客を吐き出す福山駅の南口改札を抜け、うだるような初夏の日差しが降り注ぐ駅前広場。休日の行楽客や買い物客がのんびりと行き交う中、瀬戸内信用金庫・芦田川支店の支店長は、よれた休日用ポロシャツの襟元をパタパタと煽りながら、恨めしそうに隣を歩く部下を睨んだ。
「……なぁ、弥生くん。私の長年の勘と、自宅の壁掛けカレンダーによれば、今日は『土曜日』という、全人類に平等な安息の日のはずなんだがね」
「ええ、カレンダーの読み方は完璧です、支店長。さすがは芦田川支店を束ねるトップですね」
弥生は、休日の私服とはいえ動きやすさを重視したパンツルックに身を包み、駅前のロータリーから続く古い商店街の方へ向かって、ズンズンと迷いのない足取りで進んでいく。
「ならばなぜ!私は休日の朝から君に連行され、駅前の純喫茶へ向かって歩かされているんだろうか!わかるかい?我が家のベランダでは今頃、私という太陽を失った愛しの盆栽たちが、ひからびた土の上で声なき悲鳴を上げているんだぞ!」
「平日の営業時間中に『君の得体の知れない調査のせいで胃に穴が空きそうだ!』と泣き言を漏らしていたのは支店長じゃないですか。だからこそ、本店の監査部の目に触れない土曜日に、こうして『極秘の課外活動』をご用意して差し上げたんです」
「それを世間では『配慮』ではなく『休日出勤の強要』と呼ぶんだ!だいたい、なぜ福山駅なんだ!」
弥生はふっと足を緩め、とびきりの営業スマイルを浮かべた。
「今週の木曜日、大三島の越智拓海さんから私の信金の直通番号に電話があったんです」
「越智さん……ああ、君が有休を使ってまで押しかけたという、あの無人島の所有者か」
「ええ。東京のエージェントから突然連絡があって、今日の午後、福山駅の近くで会えないかと言われたそうなんです。契約を急かすわけでも条件を変えるわけでもなく、ただ少し話があると」
「少し話がある、だけ?」
「はい。わざわざ大三島から海を渡って来いと言うからには、よほどの手を打ってくるつもりでしょう。拓海さん、相手の真意が読めなくて、一人で丸め込まれるんじゃないかってすごく不安そうでしたよ」
「なるほど。で、君はそれを聞いて、相手の顔を拝んでやろうとしゃしゃり出てきたわけか。うちは地元のお年寄りの年金口座を管理する、平和で牧歌的な信用金庫なんだぞ!探偵事務所じゃない!」
支店長は頭を抱え、薄くなった頭頂部をワシャワシャと乱暴に掻き回した。
「探偵じゃありません。『優良顧客の将来的なリスクアセスメント調査』です。相手は、漁師一家が抱える負債と将来の不安をピンポイントで突き、『絶妙な数字』で越智家を揺さぶった、海千山千の金融マンですよ。そんな相手が『少し話がある』なんて、ただの雑談なわけがない。どんな手練手管を使ってくるか分からない以上、その『東京のエージェント』がどんなツラをしているのか、ここで直接顔を見ておく必要があります」
「ひぃっ……!休日にまで東京の冷酷なファンドマンとやり合う気か……。ああ、私のささやかな退職金と平穏な老後が、君のその冷徹な計算尺の目盛りにガリガリと削り取られていく音が聞こえるよ……」
「大丈夫ですよ。支店長の退職金が吹き飛ぶ前に、私がきっちり帳尻を合わせてみせますから。」
そう言って弥生が、駅前のロータリーから続く古い商店街の角を曲がろうとした、その時だった。
「おや、奇遇ですね。弥生さん」
休日の雑踏の中から、瀬戸内ののんびりとした空気には明らかに不釣り合いな、洗練されたバリトンの声が響いた。弥生が振り返ると、そこには完璧なシルエットのサマージャケットをまとった男――義理の兄である細川が、涼しげな笑みを浮かべて立っていた。
「ほ、細川さん!?」 隣で支店長が、裏返った声を上げて数歩飛び退いた。先日、小豆島でこの『東京の冷酷なファンドマン』の完璧な理論に完膚なきまでに叩きのめされた記憶が、パブロフの犬のように彼の胃液を過剰分泌させたらしい。
「支店長さん、先日は小豆島でどうも。福山の駅前を歩いていて、義理の妹と、その上司の方にバッタリお会いするとは。世間は狭いですね」 細川は、休日のポロシャツ姿で汗だくになっている支店長に対しても、一流ホテルのコンシェルジュのように優雅に頭を下げた。
「本当に。瀬戸内の空気が、急に東京のオフィス街の匂いになりましたよ」 弥生は、驚きを隠していつもの快活な営業スマイルを貼り付けた。「今日は潤子姉ちゃんは一緒じゃないんですか?またどこかの島を札束で叩きに来たなら、姉ちゃんにチクりますからね」
「相変わらず手厳しいな。いや、潤子も一緒に帰省しているよ。ただ、僕がこの近くで少し『野暮用』を済ませる間、先にお義父さんたちのところへ向かってもらっているんだ」 細川は苦笑し、手元の腕時計をちらりと見た。「休日に上司とお仕事とは、これからどちらへ?」
「ええ、まあ。ちょっとそこの角の純喫茶まで。土曜日に私に付き合わされて、水やりを忘れられて干からびかけた盆栽みたいになっている支店長に、冷たいアイスコーヒーでもご馳走しようかと思いましてね」 弥生が支店長を顎でしゃくると、支店長は「誰が盆栽だ!」と小声で抗議しながらも、細川の手前、引きつった愛想笑いを浮かべた。
「おや、それなら途中までご一緒しましょう。私の用事も、ちょうどその路地の先でしてね」 細川がさらりと提案し、なぜか「瀬戸内信金のエース」「休日出勤で胃を痛める支店長」「東京の凄腕エージェント」という、ひどくアンバランスな三人組が、初夏の商店街を並んで歩くことになった。
「いやぁ、細川さん!休日の福山はのどかで良いでしょう! ハハハ……」 支店長は、両隣から放たれる目に見えない火花に挟まれながら、必死に場を持たせようと空回りの愛想笑いを振りまいている。
「ええ。ですが、こののどかな商店街に、弥生さんのように計算尺の刃を研ぎ澄ませた方が歩いていると思うと、少し背筋が伸びますよ」 「お褒めに預かり光栄です。義兄さんのような隙のないエージェントがうろついているなら、福山の平和を守るために、休日のパトロールも欠かせませんから」
ニコニコと笑い合いながら、言葉の端々で一歩も引かない義兄と義妹。 その真ん中で、支店長は「頼むから、身内の代理戦争に私と信金の看板を巻き込まないでくれ……」と、心の中で血の涙を流していた。
その数分後。
「おや」 レンガ調の外壁に『純喫茶・琥珀』と書かれたレトロな看板の前で、細川がスッと足を止めた。「私の待ち合わせ場所は、この店でしてね」
弥生はピタリと歩みを止め、瞬きを一つした。 「……奇遇ですね。私たちも、この店なんですよ」
二人は笑顔のまま、同時に店のドアに手をかけた。 カラン、と古風なベルが鳴り、コーヒーとトーストの香ばしい匂いが漂う薄暗い店内へ、三人揃って足を踏み入れる。
休日の午後とあって店内はそこそこ混み合っていたが、一番奥のボックス席に、日焼けした青年の姿があった。大三島の無人島を所有する長男、越智拓海だ。
「あ、波多野さん!支店長さんも、わざわざ休日にすみません」 入り口の弥生たちに気づいた拓海が、ホッとしたように立ち上がって頭を下げた。そして、二人のすぐ後ろから入ってきた細川の姿に気づき、不思議そうに小首を傾げた。
「あれ、細川さんも。……入り口で一緒になったんですか?」
拓海のその何気ない一言で、店内の空気が一瞬だけ奇妙に静まり返った。拓海にしてみれば、自分が今日呼び出した「信金の波多野」と「東京のエージェント」が、たまたま同じタイミングで店に入ってきたというだけの認識だ。
しかし、呼ばれた当人たちの頭の中では、すさまじい勢いで計算尺が弾かれていた。
弥生はゆっくりと首を巡らせ、背後に立つ義兄を見上げた。細川もまた、信金の制服ではなく私服姿の義妹を、わずかに目を見開いて見下ろした。二人の極めて優秀な頭脳が、これまでの状況と目の前の拓海の言葉を瞬時に照合し、一つの残酷な計算式を導き出す。
「……拓海さん」 弥生が、警戒心をあらわにした声で静かに問いかけた。「あなたが言っていた『得体の知れない東京のエージェント』というのは……ひょっとして、私の後ろにいるこの男のことですか?」
「えっ? ええ、細川さんですけど……」 拓海が困惑して頷く中、細川は小さく息を吐き、どこか毒気を抜かれたような顔でこめかみを指で押さえた。
「越智さん。あなたが契約の前に一度相談しておきたいと言っていた、地元の頼れる金融マンというのは……芦田川支店の弥生さんのことでしたか」
細川の言葉に、弥生は「ええ、そうですけど」と真っ向から睨み返した。「義兄さんが、あの絶妙な金額で拓海さんを揺さぶっていた張本人だったなんて。今日はどんな手練手管で丸め込みに来たんですか?」
弥生が戦闘態勢に入る一方で、細川は敵対心を燃やす義妹とは対照的に、ふっと肩の力を抜いて穏やかに首を振った。
「誤解しないでほしいな。僕は今日、越智さんと契約を交わすために来たわけじゃない。……むしろ、少し『個人的な話』があってね」
細川は、自分が関わっている巨大プロジェクトがこの美しい島や海に及ぼすかもしれない「最悪の懸念」を胸に秘めて、今日はあくまでプライベートな立場で拓海に会いに来たのだ。職責上、クライアントを裏切ってあからさまに「契約を断れ」と指示することはできない。だが、相手の隣にいるのが、数字の裏を読むことに長け、故郷の泥を守ろうとする義妹の弥生なら――自分がこれから発する遠回しな『警告』の真意を、正確に汲み取ってくれるかもしれない。
「……いや。少し驚いたけれど、弥生さんが越智さんの担当なら、かえって話が早いかもしれないな」
細川が安堵したように微かに口角を上げると、蚊帳の外に置かれていた拓海が、たまらず声を上げた。
「あの……お二人とも、お知り合いなんですか?」
状況が飲み込めずオロオロとする拓海に向かって、弥生と細川はまったく同じタイミングで、深くため息をついて答えた。
「義理の兄です」 「義理の妹です」
「えええっ!?」 拓海が素っ頓狂な声を上げて目を見開いた。
休日ののどかな純喫茶の片隅で、密かに警告を伝えに来た東京のエージェントと、地元を守護する信金のエースによる、思いがけない答え合わせが完了した瞬間だった。
「ひ、ひぃぃ……っ!」 その光景を一番後ろで見ていた支店長は、これから始まるであろう高度で複雑な身内同士の金融バトルを想像し、引きつった悲鳴を上げながら力なく入り口の傘立てにすがりついていた。
四人がボックス席に窮屈に腰を下ろすと、店員が冷たいお冷と人数分のおしぼりを運んできた。細川は一口だけ水を飲み、隣で緊張している拓海ではなく、真正面に座る義妹の弥生に向かって静かに口を開いた。
「さて……私のクライアントは、表向きは『海外の事業家によるリゾート開発』を謳っている。だがね、彼らの言う『開発』は、必ずしも観光客が優雅に海を眺めるためのヴィラを建てることとは限らないんだ。彼らは時として、海面よりもずっと深い場所――『土台』そのものに異常な執着を見せることがある」
細川の静かで遠回しな言葉に、真っ先に反応したのは支店長だった。
「ああっ!分かったぞ!」 支店長はおしぼりで額の汗を拭いながら、ポンと手を打った。 「海底ホテルだ! あるいは海中レストラン!最近の海外の富裕層は、そういう奇抜なものを好むとテレビで見たことがある!ガラス張りのドームを作って、魚と一緒に眠るんだな!だがそんなもの、莫大な建設費がかかって絶対に採算が合わん! 融資したら一発で焦げ付く不良債権の匂いがプンプンするぞ!」
「支店長、魚と一緒に眠るのはあなたの頭の回転だけで十分です」 弥生は一切の表情を変えずに上司の妄想を切り捨て、鋭い視線を細川に向けた。「リゾートなんて最初から建てる気がない、ということですね。観光客の目も、景観も関係ない。彼らが執着している『土台』というのは、地質層のこと。……つまり、あの島の周辺の海底深くにある『何か』を掘り起こすのが本当の目的なんですね?」
細川は微かに口角を上げ、静かに続けた。
「最も厄介なのは、彼らが『庭の正当な所有者』になった瞬間に築き上げる強固な壁だ。彼らは絶対に外の声を入れない『完璧な防音壁』を持っている。一度でも書類にサインしてしまえば最後、後から隣人が泥水や環境の変化に苦情を叫ぼうが、彼らには一切届かなくなるんだ」
「ぼ、防音壁だと!?」 支店長がまたしても大げさに身を乗り出し、顔を青ざめさせた。「わかったぞ、巨大なナイトクラブを作る気だな!無人島で朝まで重低音を響かせて、海外の富裕層たちが踊り狂うんだ!瀬戸内の穏やかな夜が、テキーラとダンスミュージックに汚染されてしまう!騒音トラブルで周辺の地価が暴落して、うちの担保評価もガタ落ちだ!頼むから信金を巻き込まないでくれ!」
「支店長、パリピに怯えて地価の心配をする前に、もう少し文脈を読んでください」 弥生は頭を抱える上司を冷たくあしらい、義兄の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「……要するに、『一度でも合法的に権利を渡してしまえば、後から日本の法律で環境破壊を止める術はなくなる』ということですね。だからこそ、契約のハンコを押す前に、彼らが手を出せない『別の理由』――たとえば、昔から地元に根付いている土着の取り決めや、複雑な権利関係のようなものを盾にして、入り口の段階で完全に突っぱねるしかない。……義兄さんは、そう警告しに来てくれたんですね?」
弥生の完璧な類推に、細川は小さく息を吐いた。
「……さすがは瀬戸内信金のエースですね。僕のクライアントは、あくまで数字の整合性と法律の枠組みしか見ない。だからこそ、その『土台』に最初から法的根拠の怪しい、複雑で泥臭い権利のしがらみが絡みついていると分かれば、彼らのような合理主義者は途端に手を引く。」
細川の言葉に、これまで蚊帳の外だった拓海が、ハッとしたように顔を上げた。
「それって、もしかして……」 拓海の頭に、ある人物の顔が浮かんだのだろうか。彼は隣に座る弥生を、すがるような目で見つめた。
しかし、その拓海の言葉よりも早く、またしても支店長が奇声を上げた。
「わ、わかったぞ!つまり外資の防音壁とやらに対抗するためには、うちの信金が間に入って島の周りに巨大なスピーカーを――」
「支店長、黙ってアイスコーヒーを飲んでいてください。氷が溶けますよ」
弥生は一切こちらを向かないまま、絶対零度の声で上司の妄想を物理的に遮断した。
「ひぃっ……!わ、わかった。私は今日からただの置物になるよ……」
ストローを咥えてしゅんと小さくなる支店長を尻目に、これまで完全に蚊帳の外に置かれていた拓海が、混乱した頭を整理するように恐る恐る口を開いた。
「ええっと……つまり、まとめると……?」
「拓海さん」 弥生はスッと手で制し、とびきりの営業スマイルを拓海に向けた。
「これ以上は、細川さんがいる前ではまとめない方がよいので、後で話しましょう」
相手は義理の兄とはいえ、東京の資本を背負って動いているエージェントなのだ。彼が職務規定に違反しないよう立場を守るためにも、ここから先の地元の泥臭い対抗策を、これ以上「敵陣営」の耳に入れるわけにはいかない。
弥生の鮮やかな線引きに、細川は「……そうしてもらえると助かるよ」とだけ短く呟き、残りのコーヒーを静かに飲み干した。
「それじゃあ、僕はこれで。……さて、これから実家に向かって、数年ぶりにお義父さんのカミナリを浴びてくるとするよ。潤子も待たせているしね」
細川はスマートに立ち上がると、伝票の横に自分の分のコーヒー代を置いた。
「ちゃぶ台が飛んでこないことを祈ってますよ。私はもう少し、この『課外活動』を片付けてから帰りますから、お父さんたちによろしく言ってください」 「ああ、お手柔らかにな」
細川は義妹の言葉に苦笑し、最後に拓海に向かって静かに頭を下げた。
「越智さん。あなたの決断が、この海の未来を決める。どうか、慎重に」
その言葉だけを残し、東京のエージェントは店のドアを開けた。カラン、という古風なベルの音とともに、彼の背中は休日の賑やかな駅前商店街の雑踏へと紛れ、因縁の待つ妻の実家へと向かっていった。
完全に姿が見えなくなったことを確認すると、弥生は深く息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いて拓海に向き直った。
「……さて。東京の監視の目がいなくなったところで、義兄さんの『警告』の解説をしますね」
「け、警告って……つまり、あのまま島を売ってたら、親父たちの漁場がめちゃくちゃにされてたってことですか?」 拓海が身を乗り出し、日焼けした顔に焦燥感を浮かべた。
「ええ。彼らの本当の狙いは、島そのものじゃなく、その周辺海域の海底調査と掘削の権利です。島を買い上げて拠点にし、周囲の海を巨大な重機でかき回す気でしょう。そうなれば潮流が変わり、プランクトンや魚の居場所も消え失せる。当然、今まで通りの漁業なんて続けられなくなります」
「そんな……! あいつら、そんなこと一言も……!」
「言うわけありませんよ。そして一番恐ろしいのは、一度でも相手に所有権を渡してしまえば、彼らは分厚い国際法と弁護士団という『防音壁』の中に引きこもってしまうということです。後から漁協がどれだけ泣き叫ぼうが、合法的に黙殺されます」
「お、恐ろしい……!札束で頬を叩いて、瀬戸内の海ごと合法的にぶっ壊す気か……!やはり私の退職金もウォール街に……」 「支店長は少し黙っていてください」
怯える上司を冷徹な一瞥で黙らせ、弥生は拓海を真っ直ぐに見据えた。「だから、義兄さんはわざわざ教えに来てくれたんです。契約書にハンコを押す前に、彼らが法的に手を出せない『地元の泥臭いルール』を盾にして、入り口の段階で完全に突っぱねろと」
拓海はテーブルの上でギュッと拳を握りしめ、ワナワナと震えていた。しかし、彼の顔に浮かんでいるのは、怒りというよりも、どこか絶望に近い色だった。
「……ハンコを、押してしまえば……もう、止められないんですね……?」
彼の様子が急におかしくなったことに気づき、弥生は怪訝そうに眉をひそめた。 「拓海さん? どうかしましたか?」
「……波多野さん。実は、俺のところに来たのは細川さんでしたけど、大三島や近隣の小島を持ってる他の地主たちのところには、別の東京のエージェントたちが何人も手分けして声をかけて回ってるらしいんです」
「……え?」
「俺は保留にしてましたけど……地主の中には、後継ぎがいなくて島の処分に困ってた高齢の人も多くて……。何人かは、金額に目がくらんで、別のエージェントが出してきた契約書にもうサインしちまったって……」
「なんだって!?」 支店長が本日何度目かの奇声を上げ、今度は本当に椅子から転げ落ちそうになった。
弥生は目を見開き、一瞬だけ呼吸を止めた。カチカチと、頭の中で最悪のシミュレーションが猛烈なスピードで弾き出されていく。
(すでに何人かが別の人間に契約させられている……!? まずい、外資の『防音壁』が、もうこの瀬戸内の海に築かれ始めている……!)
「……拓海さん。サインしてしまった人の名前と、その島の場所、全部わかりますか?」
弥生の声のトーンが、一段低くなった。 その眼差しは、のどかな信金の窓口係から、複雑な計算式の『バグ』を見つけ出し、完全にぶっ壊すための臨戦態勢に入ったハンターのものへと変わっていた。
拓海は少し躊躇いながらも、記憶を辿るようにテーブルの上に視線を落とした。
「ええと……大三島の北側にある小さな無人島を持ってた、漁協の元組合長のところと……あと、古い造船所跡地を持ってた太田さんのばあちゃんです。たしか、先週の火曜にはもう印鑑を押したって、親父が言ってました」
弥生は、手元のペーパーナプキンにペンでササッと大三島周辺の略図を描き込んだ。そして、拓海が挙げた二つの場所にバツ印をつける。
それを見た拓海が、ハッとして身を乗り出した。 「……この二箇所を押さえられると、うちの島と漁場が完全に挟み撃ちにされる形になります」
「ええ。完璧な包囲網ですね」 弥生はペン先で略図をトントンと叩いた。「相手はただ闇雲に札束をばら撒いているわけじゃない。海流と地質、そして漁業権の網目を正確に計算して、最も効率よく海域を支配できる急所からピンポイントで買い上げているんです」
すでに外資の「防音壁」は、見えないところで静かに建設され始めている。このまま放置すれば、越智家がどれだけ抵抗しようと、周りを完全に外資の海に囲まれ、干上がらされるのは時間の問題だった。
「波多野さん、どうすれば……。もう、手遅れなんでしょうか」 拓海がすがるような声を出す。
弥生はナプキンの図からスッと視線を上げ、静かに首を振った。 「相手が法律の専門家を揃えているなら、正面から契約の無効を訴えても勝ち目はありません。でも、どんなに分厚い契約書にも、この土地ならではの『バグ』が存在するはずです」
「バグ……?」
「拓海さん。お父さんから、昔の漁師さんたちの間で交わされた『取り決め』のようなものについて、聞いたことはありませんか? 契約書のような綺麗なものではない、もっと泥臭い……」
弥生の問いかけに、拓海は少し呆気にとられたように目をパチパチとさせた。 「……ああ、そういえば親父が酒を飲むと、たまに話をしていました。『海は誰のものでもないが、泥の足並みが揃わんうちは、誰にも勝手はさせん』って。なんでも、俺のじいさんの代から、この海域の権利を動かす時は、関係する網元全員の連名が入った古い念書が要るんだとか……」
弥生は小さく息を吸い込んだ。義兄の言う「地元の防波堤」とは、まさにそれだ。東京の資本が持ち込む完璧な法律や計算式を狂わせるには、アナログで泥臭い地元の不文律をぶつけるしかない。
「もしその念書が今も地元の強い慣習として効力を持っているなら、外資が個別に結んだ契約そのものを根底から機能不全にできるかもしれません」
弥生は立ち上がり、伝票を手に取った。そして、椅子に丸まっている上司を見下ろす。
「支店長。今すぐ支店に戻りますよ。過去の融資台帳と、大三島周辺の昔の土地台帳を全部洗い直します」
「ええっ!? これから!? 今日の私の業務は、この喫茶店のアイスコーヒーで無事に終了したんじゃ……」
「平和を守るための残業です。休日手当の申請書には、私が代わりにハンコを押しておいてあげますから」 有無を言わさぬ笑顔で支店長の襟首を掴むと、弥生は拓海に向き直った。
「拓海さんは、お父さんにその『念書』のありかをさりげなく聞いておいてください。相手の重機が動く前に、私たちが先にその『泥』を掘り起こします」
そう言い残すと、弥生は抵抗する支店長を引きずるようにして喫茶店のレジへと向かった。
古い石垣が残る細い路地を上ったその先の波多野家の古風な瓦屋根の前に立った細川は、サマージャケットの襟元をわずかに正し、小さく息を吐いてから玄関の引き戸を開けた。
「……ご無沙汰しております、お義父さん。お義母さん」
「……ふん。東京の無機質な空気が染み付いた立派な服で、よくこんな田舎の泥臭い敷居を跨げたもんだな」
居間のちゃぶ台の奥にどっかりと座った義父が、湯呑みを持ったまま、鋭い眼光で細川を睨みつけた。隣では義母が困ったような、しかしどこか嬉しそうな顔でお茶を淹れている。そして縁側には、先回りしていた妻の潤子が、心配そうに夫と父親の顔を交互に見比べていた。
「お父さん。せっかくの休日に、わざわざ挨拶に来てくれたのよ。そんな言い方しなくても」 潤子がたしなめるように言うが、義父は鼻を鳴らした。
「誰が呼んだ。どうせまた、どこかの島を札束で叩き買いに来たついでの『ついで』だろう。うちの娘はくれてやったが、この瀬戸内の海までお前さんら東京の金融屋にくれてやる義理はないぞ」
冷たい拒絶の言葉。 しかし、細川はその厳しい視線を真正面から受け止め、深く、そして静かに頭を下げた。
「おっしゃる通りです。私の不義理は、どのようなお叱りを受けても当然です。……ですが、今日ここへ来たのは『ついで』ではありません。波多野家にご挨拶をすること、それ自体が私の大切な目的です」
細川の顔には、いつもの冷徹なエージェントとしての仮面はなかった。そこにあるのは、どこか安堵したような、一人の「家族」としての顔だった。義父のこの頑固で不器用な地元愛こそが、義妹である弥生に受け継がれ、今まさに自分のクライアントの野望を打ち砕こうとしている。その事実が、細川の胸の内に不思議な温かさをもたらしていたのだ。
「……ふん。口の減らない男だ。まあいい、そこに座れ。冷めた茶くらいは出してやる」 義父がぶっきらぼうに顎でしゃくると、潤子がホッと胸を撫で下ろし、細川に座布団を勧めた。ちゃぶ台が飛んでこなかっただけでも、細川にとっては十分な収穫だった。
その頃。 瀬戸内信用金庫・芦田川支店の、冷房の切れた薄暗い地下書庫室。
「へっ、へっ……くしょんっ!!」
カビと古い紙の匂いが充満する密室で、支店長の盛大なクシャミが響き渡った。
「ああ……私のデリケートな気管支が、昭和の埃に侵されていく……。休日の午後に、なぜ私はこんな窓のない地下室で、カビ臭い書類の山と格闘しているんだ……」
「支店長、クシャミをするなら顔を背けてください。インクが滲んで読めなくなります」 弥生は、作業着代わりに羽織った信金のウインドブレーカーの袖をまくり上げ、山積みになった古い融資台帳のページを、凄まじいスピードでめくり続けていた。
「だいたい、いくら越智くんのお父さんが『昔の念書があるはずだ』と言ったからって、何十年も前の古い紙切れ一枚、そう簡単に見つかるわけが……」
「ありました」
弥生の手が、分厚いファイルの真ん中あたりでピタリと止まった。
「えっ? 今なんと?」 「ビンゴです、支店長。越智さんのお父さんが言っていた『泥の合意書』の正体……これですよ」
弥生が指差した色褪せた台帳のページには、万年筆の達筆な文字で、ある「特約」が記されていた。
「大三島周辺の漁業組合が、共同で大規模な網を新調し、養殖場を整備した際の融資記録です。その時、担保として提供されたのは個人の島や船だけじゃない。周辺海域の『漁場としての利用権』全体が、組合員全員の【共同連帯担保】として設定されています」
支店長が目をパチクリとさせた。 「きょ、共同連帯担保?それがどうしたんだ?」
「いいですか。この融資は、すでに完済されているように見えますが……実はこの特約条項には『本海域の環境保全および漁業権の譲渡・変更を行う場合は、当時の組合員またはその正当な後継者【全員】の書面による同意を必要とする』と明記されているんです。つまり、この特約が法的に解除されていない限り、一部の地主が勝手に外資に島を売って『海をかき回す権利』を渡したとしても、その契約は根底から無効になる可能性があるんですよ!」
弥生の瞳が、薄暗い地下室の中でギラリと光った。
「外資の連中は、登記簿上の『個人の所有権』しか見ていなかった。だから、高齢で跡継ぎのいない地主をピンポイントで狙い撃ちにして、個別に印鑑を押させたんです。でも、この瀬戸内の海は、そんな表面上の権利だけで切り売りできるほど、ヤワな作りにはなっていない」
「と、いうことは……!」 支店長が、埃まみれの顔をパァッと明るくした。
「ええ。東京の超一流弁護士団が束ねてきた最新の『国際法の防音壁』を打ち破るのは……瀬戸内の漁師たちが交わした、この泥臭くて埃まみれの『連帯保証』です」
弥生は台帳をパタンと力強く閉じ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、支店長。月曜日の朝一番で、すでに外資にサインをしてしまった太田のおばあちゃんと元組合長のところに乗り込みますよ。この『切り札』を使って、外資の契約書をまとめてシュレッダーにかけてやります!」
12
大三島の海岸で外資の代理人を鮮やかに追い返したあの騒動から、季節が何度か回った頃。
穏やかな波が太陽の光をキラキラと反射する、オリーブの島――小豆島。 瀬戸内の島々を舞台にした国際的な芸術祭が開幕し、休日の港周辺は、国内外から訪れる多くのアートファンや観光客で華やかな活気に満ちていた。
「いやぁ、素晴らしい! 実に素晴らしいな、弥生くん!古民家を改装した現代アートもさることながら、この『醤油ソフトクリーム』という前衛的な味覚の芸術も、私の舌を大いに刺激してくれるぞ!」
観光客が行き交う海沿いのプロムナードで、瀬戸内信金・芦田川支店の支店長は、片手にソフトクリーム、もう片手に芸術祭の公式ガイドブックを持ち、すっかりバカンス気分を満喫していた。
「ええ、とても良い活気ですね。胃の痛くなるような外資のマネーゲームから解放されたせいか、今日の支店長はいつもより三割増しで平和な顔をしていますよ」
隣を歩く弥生は、秋の入り口を感じさせる爽やかなセットアップ姿で、古い醤油蔵とモダンなアートオブジェが見事に調和した島の景色を、満足げに見渡した。
「おや、波多野さん。それに支店長さんも。ようこそ、小豆島へ」
その時、スタッフ用のネームプレートを首から下げたスーツ姿の男性が、足早にこちらへ歩いてきた。 今回の小豆島でのプロジェクトの中心人物であり、地元の青年会議所(JC)を牽引する若きリーダー、大村憲治だ。
「大村さん。芸術祭の開催、本当におめでとうございます」 弥生がとびきりの笑顔で頭を下げると、大村は日焼けした顔をほころばせ、深く一礼した。
「ありがとうございます。お二人にそう言っていただけて、頑張った甲斐がありました。……いろいろと、遠回りをしてしまいましたがね」
大村はそう言って、眩しそうに海沿いのアート作品群へ目を向けた。
この小豆島にも、細川をはじめとする東京の金融エージェントたちが持ち込んだ「外資系ファンドによる大規模リゾート開発」の波が押し寄せていた。あの途方もない金額と完璧な利益の計算式を前に、大村たち地元の人間も一度は心が揺れ、島の未来を彼らに売り渡しかけたのだ。
「あのまま外資の資金に頼って、島を更地にして巨大なホテルやカジノを建てていたら……きっと、こんな風景は生まれていませんでした」 大村の横顔には、確かな誇りが滲んでいた。
「日本の事業会社と、我々地元の自治体、そして青年会議所がガッチリとスクラムを組む。外から見れば、外資の何百億という資金に比べれば地味で、歩みも遅いかもしれません。でも、私たちは『島の良さを壊して上書きする』のではなく、『島の良さとアートを融合させて共に育つ』道を選んだ。……その結果が、この風景です」
「大正解ですよ、大村くん!」支店長がソフトクリームを持ったまま、我が事のように胸を張った。「外資の札束で無理やり作ったハリボテの街なんて、流行りが終わればゴーストタウンだ!その点、地元の歴史と文化に根ざしたこの芸術祭のビジネスモデルは実に堅実だ!何より、融資をする我々信用金庫の理念にもピッタリと合致する!なぁ、弥生くん!」
「珍しく支店長が良いことを言いましたね。私も同感です」 弥生は上司の言葉にクスリと笑い、大村に向き直った。
「計算尺で弾き出した短期的な利回りは、外資の計画の方がずっと高かったでしょう。でも、大村さんたちが選んだこの道には、何十年先もこの島に落ち続ける『持続可能な利益』という、数字以上の価値があります。……あの時、東京の計算式を突っぱねたあなたの決断は、間違っていませんでしたよ」
弥生の言葉に、大村は照れくさそうに頭を掻いた。
「いやあ……あの時は、波多野さんに随分と厳しい数字の現実を突きつけられて、目が覚めたようなものですから。それに、あの『東京のエージェント』の方も……最後はなんだか、我々が断るのをどこか期待しているような、不思議な顔をしていましたしね」
大村の言葉に、弥生は脳裏に義兄の顔を思い浮かべ、小さく息を吐いた。
「ええ。あの人は、ただ計算が早すぎるだけの、不器用な人ですから」
「さあさあ、難しい話はそれくらいにして!大村くん、このガイドブックに載っている『オリーブ牛の極上ステーキランチ』というのは、どのアート作品の近くにあるんだね?アートを深く理解するためには、まず地元の食文化を腹に収める必要があるからな!」
「ふふっ、ご案内しますよ。とっておきの席をご用意しています」
すっかり食い気ばかりの支店長に苦笑しながら、大村が先導して歩き出す。 潮風に揺れるオリーブの葉音と、アートを楽しむ人々の穏やかな笑い声に包まれながら、弥生は瀬戸内の光り輝く海をもう一度見つめ、足取り軽く二人の後を追った。
13
そびえ立つ高層オフィスビル群の一角、三沢物産・資源開発部のフロア。壁一面の巨大なモニターには、世界中の資源価格や為替のチャートが目まぐるしく点滅している。
「部長!見てください、瀬戸内産のあの希少資源、また取引価格が過去最高を更新しました!」
若い部下の佐々木が、血相を変えてデスクに駆け寄ってきた。その手にあるタブレットには、右肩上がりに急上昇するグラフが映し出されている。
「次世代半導体の製造には、もはやあの資源が絶対に欠かせません。世界中のテック企業から、どんな高値でもいいから譲ってくれと問い合わせが殺到しています!なのに……どうして我が部の今期の利益予測は『微増』のままなんですか!?採掘プラントの稼働率をあと二割、いや一割上げるだけで、空前の爆益が出るんですよ!」
熱弁を振るう部下を前に、少し白髪の混じった資源開発部長は、淹れたてのコーヒーを一口啜り、静かに首を振った。
「ダメだ。採掘量は今の『最小限』から、一グラムたりとも増やさない。それが会社としての決定であり、私の絶対的な方針だ」
「し、しかし……!目の前に巨大なドル箱が転がっているのに、指をくわえて見ているなんて、商社マンとして悔しくないんですか!? 利益を最大化してこそ……」
「佐々木くん。我々は金融屋じゃない。現場の『泥』に生かさせてもらっている立場だ」 部長はタブレットのグラフから視線を外し、窓の外――はるか西の空へと目を向けた。
「数十年前、あの海の底にある価値に目がくらんだ外資の連中が、札束で海ごとすべてを飲み込もうとした時代があった。だが、地元の人々と……ある信金の行員が泥臭く築き上げた『防波堤』によって、それは阻止されたんだ。彼らは目先の金よりも、島の景観と、豊かな海洋資源が生きる未来を選んだ」
佐々木は言葉に詰まり、タブレットを下ろした。
「我々が今、あの海で採掘を許されているのはなぜだ?景観を一切損なわず、潮流も生態系も乱さない『超深度掘削法』によって、環境への負荷を極限までゼロに近づけているからだ。……あの島と海を守り抜いた昔の人々との、それが唯一にして絶対の約束なんだよ」
部長はデスクに置かれた、瀬戸内の穏やかな海が写る一枚の写真に目を落とした。
「今の相場なら、稼働率を上げれば確かに一時的な大儲けはできるだろう。だが、そのために少しでも海を汚し、約束を破れば、我々もかつての外資と同じ『海を荒らす泥棒』になる。地元との協定は破棄され、未来永劫あの資源には触れられなくなるんだ」
「……目先の爆益よりも、持続可能な信頼を取る、ということですか」 佐々木のトーンが、ようやく落ち着きを取り戻した。
「そうだ。人間の強欲をコントロールし、自然と共存できる企業だけが、この先何十年も生き残れる。……利益が上がらないと嘆く暇があるなら、今の限られた採掘量の中で、いかに付加価値を高めて半導体メーカーに恩を売るか、その知恵を絞りたまえ」
「……はいっ!失礼しました!」佐々木が気を取り直して一礼し、足早に自分のデスクへと戻っていく。
静かになった執務室で、部長は再び窓の外を見つめた。何十層ものコンクリートとガラスに囲まれた東京の大手町の先に、潮の風が吹き抜ける瀬戸内の美しい風景を重ねていた。




