第1章 邂逅と覚醒 (22歳の冒険者と亡国の女王)
ウォルゼイン 22歳
平原でフォレストウルフ5体と戦闘中
刃こぼれした剣を振り回す。
フォレストウルフ1体の後ろ足をかすった
血が噴き出す。
傷ついた1体は少し退いたが残り4体が一斉に襲い掛かってきた。
1体の首に剣を振り切る。1体の首に深く剣が深くめり込んだ。剣を抜いて
残り3体に向かって振る 1体の前足を切り飛ばした。
動けるのはあと2体 ウォルゼインは1体を鋭く突いた。深く剣が胸を深く刺した。
猛烈に血が噴き出す。絶命した。残り1体と動きの鈍った3体
残り1体の首を刎ね飛ばし首から出血している1体の首をはねる
後ろ足から出血している1体の首も刎ねる。
前足のない1体が残る こいつはもう素早く動けない 鋭く刺突し、動きを止めてから首を刎ねる
片付いた。
返り血を浴び、荒い息を吐きながら、ウォルゼインは静まり返った平原に一人立っていた。
足元には、物言わぬ肉塊と化した5体のフォレストウルフが転がっている。何度も硬い骨を叩いたせいで、手に持った剣の刃こぼれはさらにひどくなり、ノコギリのような無惨な体を出していた。
ウォルゼインは剣を無造作に振って、刃にまとわりついた脂と血を振り払った。22歳という若さゆえの強引な立ち回りだったが、結果として5体を完封した事実は重い。
戦利品の確認をする
フォレストウルフの毛皮: 鋭い斬撃や突刺で傷はあるが、素材としては十分な価値がある。
魔石と牙も売れる
刃こぼれした剣は 砥石で研ぎ直す必要があるが、このままでは次の戦闘に耐えられない。
平原を吹き抜ける風が、血の生臭さを運んでいく。
ウォルゼインは、自分の手に残る不確かな感覚と、頭の中に奔流となって押し寄せた異質な光景の残滓に眩暈を覚えた。鉄とコンクリートの巨塔、光る看板、深夜に啜った脂ぎった麺の味――それは今、自分が立っている泥臭い戦場とはあまりにもかけ離れた「前世」の断片だった。
「……異世界転生、というやつか」
自嘲気味に呟いた言葉は、確信へと変わる。念じるだけで巨躯のフォレストウルフを浮かび上がらせた不可視の力。そして脳内に響く無機質なアナウンス。「サイコキネシス」という、この世界の理とは異なる異能の獲得。戸惑う暇もなく、風に乗って激しい剣劇の音が耳を打った。
視線の先では、銀髪を振り乱した一人の女剣士が、三人の男たちに追い詰められていた。男たちは薄汚れた革鎧を纏い、下卑た笑みを浮かべて獲物をなぶるように得物を振るっている。野盗か、あるいは品性を捨てた傭兵崩れか。
(助けるか……イメージだ。前世の知識なら、使い方は腐るほど読んだ)
ウォルゼインは右手を男たちの方へ向けた。まず、先頭で大剣を振り上げた男を視界に捉える。重力から解放するイメージを送り込むと、男の身体は唐突に地面を離れ、宙に放り出された。
「なっ、なんだ!? 体が浮――」
言葉を最後まで吐き出させるつもりはなかった。ウォルゼインは男の頭部を固定し、雑巾でも絞るかのように、その首を「ひねり回す」強烈なイメージを叩きつけた。
メキメキ、と生々しい破壊音が静寂の中に響き渡る。男の顔が、あり得ない角度を超えて真後ろを向いた。
『テレキネシスを取得しました』
脳内の機械音声がスキルの進化を告げる。糸の切れた人形のように落下した男を見向きもせず、ウォルゼインは残る二人にも同様のイメージを重ねた。
「化け物め! 何を――」
「ぎっ……!」
反撃の言葉は、ボキボキという鈍い骨砕音にかき消された。不可視の死神に首を掴まれたかのように、二人の男たちの首もまた、不自然な旋回を遂げて絶命する。
わずか数秒。剣一本振るうことなく、三人の暴漢は平原の土塊へと成り果てた。
ウォルゼインは、血に汚れた刃こぼれの剣を鞘に収める。かつては必死になって振るっていた鉄の棒が、今はひどく前時代的な遺物に感じられた。
女剣士は剣を構えたまま、まるで悪夢でも見ているかのように立ち尽くしている。その足元で、無惨に首を折られた死体だけが、ウォルゼインが手に入れた「新しい理」の残酷さを物語っていた。
平原の風が死の静寂を運んでくる中、ウォルゼインはゆっくりと女剣士へと歩み寄った。
数秒前まで彼女を死の淵へと追い詰めていた三人の男たちは、今や物言わぬ肉塊として地面に転がっている。魔法の詠唱も、剣筋さえも見えない不可視の死――。目の前の光景が信じられないといった様子で、彼女の瞳には救助者への感謝よりも、底知れぬ未知の存在に対する根源的な恐怖が張り付いていた。引きつった表情で後退ろうとするが、右足の激痛がそれを許さず、彼女は呻き声を上げてその場に崩れ落ちた。
ウォルゼインは、血と脂でまみれた刃こぼれの剣を無造作に鞘へと収めた。その動作はどこまでも日常的で、先ほど三人の首を一度にへし折った冷酷な魔法使いのそれとは思えない。
「大丈夫か?」
意識的に穏やかな声を投げかける。しかし、その声すらも今の彼女には怪物の咆哮のように聞こえているのかもしれない。ウォルゼインは、混乱する頭の片隅で自分自身の変化を冷静に受け止めていた。前世の記憶が濁流のように流れ込む前まで、自分はフォレストウルフ一頭を倒すのにも死力を尽くす、底辺の冒険者に過ぎなかった。
「俺はウォルゼイン。見ての通りのしがない、弱い冒険者だ。ギルドのランクはE……。あんたは?」
自嘲気味に告げたその自己紹介は、彼にとっての「最新の真実」だった。たとえ今、この身に人知を超えた力が宿っていたとしても、彼の内面にある自尊心は、錆びた鉄屑を握りしめていた頃のままだ。
だが、その瞬間、脳内に響く無機質な声が彼の認識を強制的にアップデートする。
『解析スキルを再構築……成功しました。上位スキル「解析鑑定」を取得しました』
瞬時に視界が変貌した。まるでデジタルモニター越しに世界を見ているかのように、女剣士の身体の周囲に詳細な情報が文字列となって浮かび上がる。
【対象:アリシア・フォン・ローゼライト】
【状態:右大腿骨骨折、重度の打撲、精神的パニック】
【称号:亡国の女王、聖騎士】
「ランク、E……? 冗談はやめて。あんな……あんな芸当ができる人間を、私は他に知らないわ……」
彼女は苦痛に耐えながら、折れた足を引きずるようにして自分を支えようとするが、うまくいかない。金属製の鎧が地面と擦れ、乾いた音を立てる。ウォルゼインは「解析鑑定」が示す「女王」という肩書きに内心で驚愕した。こんな平原で野盗紛いの男たちに追い回されていた女が、一国の主であったとは。
「アリシアか。動かないほうがいい、足が酷いことになっている」
ウォルゼインは歩み寄り、彼女の前に膝をついた。解析鑑定の視覚情報によれば、彼女の右足の骨は完全に断裂し、周囲の組織を圧迫している。前世の知識――医学的な解剖図と、先ほど手に入れた「テレキネシス」を脳内でリンクさせる。
首を折る力が破壊のイメージなら、その逆もまた可能なのではないか。ずれた骨を元の位置に戻し、細胞の活性化を促す。魔法というよりは、物理的な強制治癒。
「少し痛むぞ。……いや、前世の知識なら無痛もいけるか」
ウォルゼインの手が青白く発光し始める。彼はアリシアの折れた足にそっと手をかざした。
平原を渡る風が血の匂いを薄めていく中、ウォルゼインはアリシアの前に跪き、その無惨に曲がった右足へと右手をかざした。
彼の脳内では、新しく得た「解析鑑定」が弾き出した解剖学的なデータが、前世の記憶にある精密な医療知識と高速でリンクしていた。折れた骨の断面、損傷した血管、断裂した筋繊維。それらすべてが、透視図のように彼の脳裏に鮮明に描き出される。
(破壊のイメージが首を折ることなら、再生のイメージは……パズルのピースを完璧に嵌め直すことだ。痛覚の伝達を一時的に遮断し、細胞の一つ一つに『元あるべき姿』を思い出させる……)
ウォルゼインは深く息を吐き、掌に意識を集中させた。
瞬間、彼の掌から溢れ出したのは、先ほどの冷酷な殺意とは対照的な、暖かく柔らかな青白い光だった。
まず、彼は「テレキネシス」を極限まで精密にコントロールし、折れた大腿骨をミリ単位の狂いもなく本来の位置へと誘導した。普通なら絶叫が上がるほどの激痛が走る工程だが、ウォルゼインは同時に、彼女の神経系に「無痛」のイメージを強力に上書きしていた。アリシアは一瞬、何かが動く気配に肩を震わせたが、そこにあるはずの痛みがないことに驚愕し、目を見開いた。
続けて、彼は「細胞の活性化」をイメージした。
前世で学んだ生物学の知識――ATPの生成促進、細胞分裂の加速、成長因子の集中。それらを念動力で細胞の一つ一つに叩き込み、本来なら数ヶ月を要する自然治癒を、わずか数秒の間に凝縮させる。光が強さを増し、アリシアの足の中で、微細な「修復の音」が聞こえるかのような錯覚さえ覚えた。
みるみるうちに、紫色の鬱血は引き、皮膚の腫れが収まっていく。歪んでいた脚線は、彫刻家が粘土を整えるかのように滑らかな曲線を取り戻していった。
『スキル「ヒーリング 超加速治癒」を取得しました』
脳内の無機質な声が、また新たな異能の獲得を告げる。
やがて光が収まったとき、そこには数分前まで重傷を負っていたとは思えない、傷一つないアリシアの脚があった。
ウォルゼインは静かに手を引くと、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
「……もう大丈夫だ。動かしてみろ」
アリシアは呆然としたまま、恐る恐る自分の足に触れた。痛みはない。それどころか、怪我をする前よりも身体が軽く、力が漲っているようにさえ感じられた。彼女は信じられないものを見る目で、目の前の「Eランク」を自称する青年を見つめた。
「あなた……一体、何者なの……? 魔法の詠唱もなしに、こんな……神の奇跡のようなことを……」
震える声で問う彼女に、ウォルゼインは少し困ったような笑みを浮かべた。
「言っただろう、ただのEランク冒険者だよ。……少しばかり、イメージするのが得意なだけだ」
その言葉を裏付けるかのように、彼の腰にあるのは相変わらずボロボロに刃こぼれした、安物の剣だった。しかし、アリシアは確信していた。この男は、この世界の既存の枠組み――ランクや職業といった概念では、到底測りきれない存在であることを。
ウォルゼインは「解析鑑定」の視界を広域に広げた。亡国の女王である彼女を狙う影が、まだこの平原に潜んでいないかを確認するために。
平原を吹き抜ける風が、静寂の中に微かな血の匂いを残している。
ウォルゼインはアリシアから視線を外し、周囲の起伏が続く平原へと意識を向けた。前世の知識が、この「不自然な静寂」の向こう側に潜む危険を警告していたからだ。もし彼女が本当に「女王」であるならば、先ほどの三人が追手のすべてであるはずがない。
(索敵だ。レーダーのように、周囲の生体反応や魔力の揺らぎを可視化するイメージ……)
意識を全方位へと放射する。すると、脳内に再びあの無機質な、しかし今はどこか頼もしくさえある声が響いた。
『スキル「索敵 サーチング」を取得しました』
視界が白黒の熱源感知映像のように切り替わり、周囲数キロメートルの情報が地図のように脳内へ展開される。風に揺れる草木の動き、地中を這う小動物の鼓動。しかし、こちらへ向かってくる不審な影や、新たな魔物の気配はない。どうやら当面の安全は確保されたようだ。
ウォルゼインは安堵の息をつくと、足元に転がる凄惨な残骸に目を向けた。自分が屠った五体のフォレストウルフと、首を折られた三人の盗賊。そして彼らが落とした、粗末だがそれなりに鋭い鉄の武器。これらを放置すれば、また別の魔物を呼び寄せる餌となるか、あるいは余計な足がつく原因になる。
(となると、異世界では定番の「アレ」が必要だな)
前世で読み耽った数多の物語に登場する、時空を超越した収納空間。それを実現するための理論を、彼は「テレキネシス」と「時空の歪み」という独自の解釈で構築していく。目の前の物質を、分子レベルで別の位相へ転送し、保存するイメージ。
『スキル「アイテムボックス」を取得しました』
言葉が響くと同時に、ウォルゼインの目の前の空間が、まるで水面に石を投じたかのようにわずかに揺らいだ。彼は右手をかざし、フォレストウルフの死体を順に飲み込ませていく。
「収納」
呟きとともに、巨躯を誇る五体の狼が、吸い込まれるように虚空へと消えた。続けて、盗賊たちが持っていた剣や斧も次々と空間の裂け目へと送り込む。血に汚れた地面だけが残り、そこにあったはずの「物証」は、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に消え去った。
「……本当に、イメージ通りになるんだな」
ウォルゼインは、自分自身の異常なまでの適応力と、便利すぎる異能の力に苦笑した。かつては、フォレストウルフ一頭の死体を引きずるのにも苦労し、その重みで剣筋が鈍ることを恐れていたというのに。
一部始終を呆然と眺めていたアリシアは、回復したばかりの足で立ち上がることすら忘れ、天を仰いでいた。死体を消し、空間を操り、自分の致命傷を瞬時に癒した男。その背中は、もはや一介のEランク冒険者のものではなかった。
平原の風が凪ぎ、先ほどまでの死闘が嘘のような静寂が訪れていた。ウォルゼインは立ち尽くすアリシアへ、努めて気楽な調子で声をかけた。
「アリシア、腹は減ってないか? 索敵した限り、ここは暫く安全だ。まずは落ち着いて食事にしよう」
彼は前世の記憶にある「快適な野営」を思い描き、地面に右手をかざした。土の粒子が意思を持つかのように盛り上がり、瞬く間に精巧なテーブルと椅子、そして立派な竈が出来上がっていく。
『スキル「土魔法」を取得しました』
脳内の声を聞き流しながら、彼はさらに竈の上に滑らかな石板を設置した。流れるような動作でアイテムボックスから先ほどのフォレストウルフの死体を取り出すと、次は「水」の概念を練り上げる。高圧の水を細い刃として放ち、一瞬で解体を終えるイメージだ。
『スキル「水魔法」「解体魔法」を取得しました』
テーブルの上に横たえられたフォレストウルフの巨体に、目に見えぬ水の刃が走り抜ける。皮、牙、爪、肉、骨、そして内臓。それらは熟練の解体師でも数時間はかかるであろう精度で、部位ごとに美しく分別され、整然と並べられた。
「ピュリフケーション」
汚れや血を浄化の光で消し飛ばすと、肉と内臓だけを残し、他の希少素材は手際よくアイテムボックスへ放り込む。続けて土魔法で滑らかな皿とカトラリーを作り出し、水魔法で削り出した氷のジョッキに、透き通った水をなみなみと注いだ。
(味付けが足りないな。前世の知識なら、この地層のどこかに……)
「索敵」を深層へと伸ばす。地下数百メートルに眠る太古の記憶――岩塩の層を捕捉した。
「見つけた」
土魔法で地表へと岩塩をせり上げさせ、浄化して不純物を取り除く。砕いた純白の塩を土製の壺に収め、残りは保管した。仕上げに竈の薪を見つめ、分子の運動を加速させるイメージで念じた。
『スキル「パイロキネシス」を取得しました』
凄まじい熱量が薪に宿り、一瞬で調理に最適な火力が竈に灯る。熱された石板の上に、新鮮な内臓が並べられた。ジューシーな脂が弾ける音と、岩塩によって引き立てられた香ばしい匂いが、殺風景な平原に立ち込める。
「アリシア、食べよう。焼きたてが一番だ」
アリシアは、あまりの光景に開いた口が塞がらなかった。つい数分前まで荒野だった場所に、豪華な石造りのダイニングが現れ、伝説の魔法使いでも成し得ないような手際で「塩」まで自給自足してみせたのだ。
「……フォレストウルフの内臓だと? 正気か、ウォルゼイン。魔物の内臓なんて臭くて食えたもんじゃないぞ。ましてや、その白い金のような貴重な塩をそんなものに……」
彼女は戸惑い、恐縮しながらも、目の前の男が作り出す常識外れの事象に圧倒されていた。しかし、石板の上で黄金色に焼き上がる内臓からは、彼女がこれまでの宮廷生活で知っていたどんな馳走よりも、暴力的で魅力的な香りが漂っていた。
ウォルゼインは、ボロボロの剣を腰に下げたまま、まるで家庭料理を振る舞う主人のような顔で、焼き上がった内臓を彼女の皿へと取り分けた。
彼女は恐る恐る一切れの肉を口に運んだ。
「……ッ!? 何だこれは? 甘い、甘いぞ! 脂が口の中で溶けて甘みに変わる……!」
彼女は驚愕に目を見開いた。魔物の内臓といえば、特有の獣臭さと苦味があるのがこの世界の常識だが、ウォルゼインの「浄化」と完璧な下処理、そして純粋な岩塩が、それを極上の美食へと変えていた。相当な日数を逃亡に費やしていたのだろう、アリシアはなりふり構わず、がつがつと肉を口へ運び始めた。
「ウォルゼイン! 水のお替りだ! 喉が渇く、こんなに旨いものを食べたら……!」
彼女は空になったジョッキを差し出し、獲物をねだる子供のような目でウォルゼインを見た。
ウォルゼインは苦笑しながら、水魔法で再びジョッキを満たした。
(前世の知識があれば、魔物の肉も極上のジビエになる。どうやらこの世界で生きていくのに、不自由はなさそうだ)
「ゆっくり飲め。まだまだあるぞ。次はロース肉を焼くからな」
ウォルゼインは満足げに食べる彼女を見つめながら、次なる肉を取り出した。食事の熱気が、彼女の背負う重い運命の影をわずかに和らげているようだった。
平原を渡る風が落ち着き、石板の上で焼かれていた肉がほとんど消え失せた頃、アリシアはようやく手にした氷のジョッキを静かにテーブルに置いた。
空腹が満たされ、死の淵から救われたという実感が、彼女に固く閉ざしていた口を開かせた。先ほどまで肉を貪っていたなりふり構わぬ姿は影を潜め、その背筋はいつの間にか、凛とした一国の象徴としての美しさを取り戻している。
「……信じられない。こんな平原で、フォレストウルフの肉を食べて、心地よい充足感を覚える日が来るなんてね」
彼女は遠く、夕闇に溶けゆく地平線を見つめながら、ぽつりぽつりと独白を始めた。その瞳には、先ほどの恐怖とは別の、深く沈んだ絶望の火が灯っている。
「私はアリシア・フォン・ローゼライト。……かつてこの地から北に数日の距離にあった、ローゼライト王国の第十七代当主。……いいえ、今はただの『亡国の女王』だわ。我が国は、一月前、隣国との内通者による裏切りに遭い、一夜にして炎に包まれた。私は、私を逃がそうと盾になった騎士たちの骸を越えて、ここまで逃げてきたの」
彼女の手が、テーブルの上に置かれた自作のカトラリーをぎゅっと握りしめる。指先が白くなるほどの力。
「信じていた側近、守ると誓った民……すべてを裏切りによって奪われた。先ほど私を襲っていたのは、かつての私の騎士団にいた男たちよ。賞金首となった私の首を、敵国への手土産にしようとしていた。……誇りも、忠義も、この地では岩塩ほどの重みもないということかしら」
自嘲気味に吐き捨てた彼女の声には、裏切りへの怒りよりも、守れなかった自責の念が強く滲んでいた。ウォルゼインは何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。前世の記憶にある物語でも、現実のビル街のニュースでも、裏切りや闘争の話は溢れていた。だが、目の前で震える一人の女性が背負う「現実」は、どの記録よりも重く、生々しい。
「ランクEの冒険者……ウォルゼイン。あなたは、私をどうするつもり? 救った相手が、隣国から巨額の懸賞金をかけられた『厄災の種』だと知っても、まだその食事を振る舞ってくれるのかしら」
アリシアは真っ直ぐにウォルゼインを見据えた。その視線は、彼を試しているというより、自分の運命に引導を渡してほしいと願っているようにも見えた。
ウォルゼインは、ボロボロの剣を腰に下げたまま、新しい肉を一切れ石板の上に乗せた。脂の弾ける小気味よい音が、彼女の告白で凍りついた空気をわずかに溶かす。
「……悪いが、俺は記憶が混濁していてな。あんたの国の事情も、懸賞金の額もよく知らない。俺に見えているのは、腹を空かせた一人の女剣士と、それを狙っていた下品な男たちの残骸だけだ」
ウォルゼインは「解析鑑定」の視線を彼女のステータスへと向けた。そこには【称号:亡国の女王】の横に、彼女自身も気づいていないであろう、もう一つの項目が浮かび上がっていた。
夕闇が平原を包み込み、竈の火が二人の影を長く地面に映し出していた。ウォルゼインは石板の上の肉を皿に移すと、空を見上げたまま、自分自身の「内側」に広がる奇妙な景色を言葉にし始めた。
「あんたが女王なら、俺の正体も話しておかないとな。……俺はこの世界に生まれて育った孤児だ。親の顔も知らないし、今日まで自分が何者かなんて考えたこともなかった。ただ、ついさっきフォレストウルフと戦っている最中、頭の中に情報が滝のように流れ込んできたんだ」
ウォルゼインは自分の掌を見つめる。そこには、数時間前まで必死に泥を啜って生きてきた男の硬いタコと、たった今手に入れた「万能の力」の残滓が共存していた。
「ビル街、車、深夜のラーメン……ここにはない文明の記憶だ。どうやら俺は、かつて別の世界で死に、この世界に魂だけが移り変わった存在らしい。……『異世界転生者』と言えば、あんたの国の伝承か何かで心当たりはあるか?」
アリシアは絶句した。目の前の男が振るう、理外の力。魔法の常識を塗り替える無詠唱の奇跡や、空間を削り取るような収納術。それが「別世界の理」によるものだと言われれば、むしろ納得がいった。彼女の瞳に映るウォルゼインは、もはやただの冒険者ではなく、世界の境界線を踏み越えて現れた異邦人そのものだった。
「……異世界、転生。お伽話だと思っていたわ。でも、今のあなたを見れば信じざるを得ない」
「そうか。なら、話が早い。俺は俺自身のことがよくわかっていないが、その代わり、あんたのことは少しだけ『視える』ようになった」
ウォルゼインは「解析鑑定」のフォーカスを、アリシアのステータスの深層へと合わせた。先ほどから気になっていた、亡国の女王という肩書きの横に刻まれた、彼女の運命を根底から覆しかねない記述。
「アリシア。あんた、自分の身体に宿っている『もう一つの資格』に気づいているか?」
ウォルゼインの指先が、空中に浮かぶ不可視の文字列をなぞる。解析鑑定の視界には、彼女の血脈の奥底で眠る、巨大な魔力の奔流が映し出されていた。
【真名:アリシア・フォン・ローゼライト】
【称号:亡国の女王、聖騎士、および――『精霊眼の契約者』】
「あんたの称号の横に、『精霊眼の契約者』という項目が出ている。まだ発現していないようだが、あんたの目には、この世界の精霊を総べる力が眠っているらしい。国が裏切られたのも、もしかしたら……あんたを女王としてではなく、その『眼』の器として利用しようとした勢力がいたからじゃないのか?」
アリシアは息を呑み、自分の両の瞳を覆うように手を当てた。
「精霊眼……? そんな、あれは王家の始祖にだけ現れたという神話の……」
「神話だろうが現実だろうが、俺の目にはそう映っている。……俺が異世界人で、あんたが神話の継承者だ。どうやら、俺たちの境遇は似たようなものらしいな」
ウォルゼインはそう言うと、最後の肉を彼女の皿に置いた。
「さて。食い終わったら、この『眼』の力をどうするか、相談に乗ってやってもいいぞ」
夕闇が完全に平原を支配し、ウォルゼインが作り出した竈の火だけが、二人の顔をオレンジ色に照らしていた。ウォルゼインは、結露一つせず冷気を保ち続ける氷のジョッキを眺め、ふと思いついたようにアリシアへ問いかけた。
「アリシア、あんた自身も戦える騎士なんだよな。……どうだ、俺の魔法を覚えてみないか?」
唐突な提案に、アリシアは目を丸くした。この世界の魔法は、適性のある者が血の滲むような修行の末、複雑な詠唱と魔力回路の構築を経てようやく発動できる「特権」のようなものだ。それを、しがないEランク冒険者が、夕食後の片付けでもするような気軽さで口にしたのだ。
「……私の魔法? ウォルゼイン、冗談はやめて。私は聖騎士としての加護は持っているけれど、攻撃魔法の適性はほとんどないわ。それに、魔法を習得するには何年もかかるのが普通でしょう?」
「それは、この世界の常識だろ?」
ウォルゼインは少し意地悪く笑った。




