リビング・デッド・イズ・ノット・デッド
深夜の斎場は、静まりかえっていた。
空気も湿っていた。線香の匂いが壁紙に染みついるようだ。
棺の蓋は開いていた。白い布に縁取られた彼女の顔は、眠っているように整っているのに、頬の温度だけが世界から抜け落ちた感じがした。
容子――。
大学のテニスサークルで、最初に目が合ったときのことを、はっきりと覚えている。ラケットを握る指が細くて、笑うと奥歯が少し見えて、鼻筋がまっすぐで、話す言葉がいつもどこか理屈っぽかった。
僕は、その理屈っぽさが好きだった。自分が底辺の科学系編集プロダクションで原稿の締切に追い回され、深夜に駅前のファストフードで胃に流し込むように夕飯を食べていたころでも、彼女は僕を、情けない男だと蔑むのではなく「まあ、そういうフェーズだよね」と言ってくれる人だった。
そして、彼女は生物の研究者として忙しくなった。忙しいのは僕も同じだったが、忙しさの質が違った。彼女の忙しさは、未来とつながっていた。僕の忙しさは、今夜の入稿と、明日の差し替えと、来週の校正で終わるだけだった。
結局、僕らは結婚しなかった。タイミングも、金も、覚悟も、すべてが少しずつ足りなかった。足りないものを埋めるほど、僕は、強くなれなかったのだと思う。
それでも、彼女が亡くなるとは思わなかった。
テニスの練習中の心不全――医者の説明は短く、穏当で、僕の頭に入ってこなかった。彼女は走っていた。笑っていた。ラケットを振って、汗を拭って、いつものように言ったらしい。「今日は調子いい」って。
棺の中の容子は、調子がいい顔をしていた。そう見えるのが、いちばん残酷だった。
僕は、棺の前で、手を組んでいるふりをして、何も祈れずにいた。祈りたい相手は目の前にいるのに、祈りが届く先がどこにも見えない。
「――お辛いですね」
声がした。
振り向くと、黒い背広の男が立っていた。斎場の職員だろうか。けれど、顔の半分が包帯で覆われている。白い包帯は、丁寧に巻かれているのに、どこか不自然に浮いて見えた。
僕は一瞬、皮膚病か火傷か、と考えた。考えた自分が下品に思えて、すぐ目をそらした。
「ご親族の方ですか?」
「いいえ。……少し、お話をしてもよろしいでしょうか?」
男は、落ち着いた声で言い、棺をちらりと見て、すぐ僕に視線を戻した。
しかし、その彼が告げた質問は、あまりにもストレートだった。
「亡くなられた方に……生き返ってほしいと、思いますか?」
「思いますよ!」
僕は、反射的に応えた。
「当たり前でしょう。そんなの……」
男は、頷いた。失礼でも驚きでもなく、確認の頷きだった。
「では、順番にお話しします。あなたは、いわゆる『ゾンビ』という存在を信じますか?」
「……ゾンビ?」
僕は、眉を寄せた。ここで宗教勧誘でも始まるのか、と疑った。いや、宗教ならもっと柔らかく入ってくる。こんな質問はしない。
「映画の話なら、まあ……フィクションとしては」
「そうですね。多くはフィクションです。ただ、あなたが今、求めているものは、フィクションの延長線上にあります」
男の声は落ち着いていて、感情が乗っていないように思えた。ちょっと、医者の説明に似ていると思った。
「そうですね……」
彼は、言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「……細胞は死ぬと代謝を停止します。ATPの産生が止まり、イオン勾配が崩れ、膜電位が失われ、細胞内構造物は、分解へ向かう。DNAやタンパク質の分子機械が残っていたとしても、同じ状態を再現して“生きている”ように作用させるのは極めて難しい」
淡々とした説明が、僕の耳に入ってきた。科学っぽい言葉が並ぶせいで、逆に現実感が増す。僕は、思わず反論したくなった。
「理屈は分かります。でも……それでも、生き返ってほしいっていうのが心情でしょう?」
男は「ええ」と小さく応えた。
「だから、私は、あなたに、理屈だけで諦めろとは言いません。むしろ、理屈を踏まえた上で、別の道を示します」
彼は、ポケットに手を入れて、一本の試験管を取り出した。透明なガラスの中に、淡い茶色の粘性のある液体が入っている。気泡が、ゆっくり上がって、消えた。
「これは……?」
「特殊な、細胞性粘菌です」
粘菌――僕は高校の生物で聞いたことがある程度だった。アメーバのように動き、単細胞が集まって多細胞のように振る舞う生物だ。いつだったか、迷路を解く粘菌の動画が話題になったのも覚えている。
「この粘菌は、アメーバ状態で、死体の細胞を捕食しながら置換します。細胞骨格――スキャフォールドを足場にして、壊れた細胞内の残骸を取り込み、自分の細胞をそこに滑り込ませる。そして細胞融合し、ネットワークを作るのです」
男は、試験管を掲げ、LEDの光に透かした。液体は何も語らないのに、妙に重く見えた。
「人の遺伝子も取り込みます。完全ではありませんが、ある程度、人と似た代謝が可能になる。死んだ細胞が全て置換され、ネットワークが完成したとき、その死者は“生き返る”。正確には、死んだものが戻るのではなく、別の生物として“生きている状態”が成立するのです」
僕は、喉の乾きを覚えた。砂をかんだ。
「……そんなもの、あるわけが」
「勿論、このようなものは、自然発生しません。人工的に作られたものです。高度な生命デザインが必要です」
男は、どうも聞き慣れない単語を使った。生命デザイン――研究者の容子が聞いたら、どう反応するだろう。「一般的な学術用語じゃない」と言うかもしれないが、「でも面白そう」と目を輝かせるかもしれない……。
「あなたは彼女に、会いたいですか?」
会いたいに決まっている。会いたくない理由が、どこにもない。
「どんな形でも、会いたい」
僕がそう言うと、男は試験管を胸ポケットに戻し、棺の方へ歩いた。もちろん、周囲に人はいない。僕はなぜここに一人で残っているのか。残ってしまったのか。
男は、棺の縁に手をかけ、容子の顎のあたりにそっと指を添えた。まるで医師が気道確保をするみたいだった。
「口を開けます。失礼します」
彼はそう言って、容子の唇を開き、試験管の中身をゆっくり流し込んだ。液体は、舌の上に落ちて、喉へ消えた。
僕は止められなかった。止めるべきだったのか、止めなくてよかったのか、その判断が、現実のように思えなかった。
しばらくの間、何も起きなかった。男は、容子の傍らに立った。
どれほどそのままの状態でいたのだろう――一瞬のようにも、かなりの時間が経過したようにも、思えた。
突然、容子の瞼が震えた。
僕の心臓が、変な音を立てた。胸の奥で、ガラスが擦れる音がしたように思った。
「……ようこ?」
声も掠れた。名前を呼ぶのに、こんなに息が必要だなんて知らなかった。
容子は、目を開けた。焦点が合わなかった。
けれど、確かに僕を見た。僕の顔の位置を認識している目だった。
「……君」
声が出た。死者の声というより、長く眠って起きた人の声に近い。かすれてはいるが、温度がある。
「容子……容子、僕だ。分かる? 分かるよね?」
容子は瞬きをして、唇をゆっくり動かした。
「パス……パスワード……」
「え?」
「私の……PC……パスワード……“Yoko_”じゃない……えっと……」
彼女は目を閉じ、記憶を掘り返すみたいに眉を寄せた。僕は、泣きそうになった。生き返った彼女が、最初に口にするのがパスワードなんて、容子らしすぎた。
「落ち着いて。ゆっくりでいい」
「……“LivingDead”」
彼女は笑った。ほんの少しだけ。微笑みの癖が、確かに容子だった。
「……フォルダ……『難病』って、名前……そこに……論文……ある。投稿……してほしい……ジャーナル……」
「今、そんな話じゃ――」
「お願い……時間が、ない」
容子の声が、急に薄くなった。音量が下がるのではなく、存在感が薄まるように思えた。
「君のこと……愛してた……忙しくて……言わなかったけど……」
僕の視界が滲んだ。泣くのを我慢していたわけじゃない。涙が勝手に決めたみたいに溢れた。
「僕もだ。僕だって……」
「……ごめんね」
それが最後だった。
容子の目から光が抜けた。瞼が閉じ、呼吸が止まった。棺の中に、元の静けさが戻った。いや、元よりも重い静けさが、戻った。
僕は、彼女の肩を揺すった。冷たい布越しに、骨の硬さが伝わる。
「起きてよ。ねえ、起きてよ。今のは何だよ。冗談だろ。こんなの、こんなの……」
僕の声が、斎場の壁に吸い込まれていく。応答がない。棺の中の容子は、また死者になっていた。
「無理です」
男の声が背後から降ってきた。
僕は振り向いて、怒鳴りたかった。殴りたかった。けれど、体が動かなかった。怒りが形になる前に、絶望が体の中に沈んでいた。
「現代の試薬では、粘菌のATP産生量を十分に増やせませんでした」
男は、淡々と言った。
「ネットワークが維持できない。彼女は、もう復活しません」
「じゃあ、なんで……なんで、やったんだ!」
僕の声が、低く震えた。
男は少しだけ目を伏せた。それは、罪悪感というより、仕様を説明する技術者の顔だった。
「あなたに、伝言を渡す必要があったからです」
「伝言?」
「未来にとって、重要なものです。あなたが投稿する論文が、誰かを救うのです」
未来。救う。そんな言葉を、僕はこの斎場で聞きたくなかった。僕が救いたいのは、目の前の容子だった。
「そんなの、僕には関係ない。僕は、容子を――」
「関係があります」
男の声が、少しだけ強くなった。
「あなたが今、ここにいることがです。彼女が今、ここで一度だけ目を開けたことも。全て、予定された手順です」
予定。手順。僕は頭が追いつかない。
「あなたは、誰なんだ?」
男は、包帯の巻かれた顔のまま、静かに言った。
「反魂の術、というのをご存じでしょうか? 歴史上では、西行法師が使ったと伝えられています」
「反魂……? なにそれ?」
「私は、その反魂の術を伝えてきた一族の末裔です。今見て頂いたように、事実です」
その言い方に、僕の背中が冷えた。斎場の冷房が強くなったのかと思ったが、違う。言葉が冷たいのだ。現実をナイフでするっと削って、別の形に変えてしまうような類の冷たさだった。
「……ただし、術というより技術です。技術が、伝承という形をとったのです」
男は、ポケットから、折り畳まれた古い紙を取り出した。黄ばんで、端が擦り切れていた。
「一子相伝の文書です。本来、見せるものではない。しかし、あなたには、見せる必要がある」
紙には、手書きの数字と記号が並んでいた。GPSの座標らしい。日時も書いてある。今日の日付。式の開始時刻――棺の前に僕いるであろう時間帯、だ。
「……これ、GPSの座標は、ひょっとして、斎場の住所?」
「ええ。私の先祖は、あなたの彼女の葬儀の日と場所だけを知っていました。そこに来れば、あなたがいる、と」
僕は、紙を見つめながら、喉の奥が苦くなった。
「どうして、そんなことが分かる?」
男は、包帯の端を指でつまんだ。ゆっくりと、それをほどく。白い布が外れるにつれて、僕は息を止めた。
皮膚が、溶けかけていた。
ただの火傷ではない。ただの病気でもない。皮膚の表面がぬめり、境界が曖昧で、形が崩れかけている。目の周りの筋肉が、微妙にずれて見えた。人間の顔なのに、人間の顔として固定されていなかった。
「……うわ」
僕は、声を漏らした。申し訳なさよりも、恐怖が先に出た。
「驚かせてすみません。私も、こうするつもりではなかった」
男は、笑おうとしたが、笑いの形がうまく作れないようだった。
「この粘菌は、人を“生かす”ためのものです。しかし、期限があります。維持に必要なエネルギーと制御因子を使い尽くすと、宿主の構造が保てない。私の体は、もう……」
「じゃあ、あなたもそれを使ったのか?」
「使いました。先祖が残した文書を読んだとき、私は、驚愕しました。反魂の術を伝えたのは、僧でも陰陽師でもない。タイムマシンの事故で過去に漂着した学者でした」
「タイムマシン……?」
僕は、笑いそうになった。笑えるわけがないのに、頭のどこかが、現実逃避のために笑いを探した。
「学者は、未来の知識を持っていました。この粘菌も、未来から持ち込まれたものです。彼は、歴史の中で非常に重要な人物である彼女を救おうとした。しかし、事故のせいで、救えなかった。代わりに、子孫に託したのです。あなたに伝言を届け、論文を未来へ渡せ、と」
男は、呼吸を整えるみたいに、短く息を吐いた。すると、包帯を外した頬の一部が、ぽたりと落ちそうに揺れた。
「なぜ、そんなに重要なんだ。容子が?」
「彼女の研究が、未来の病を変えるのです。病名までは、私も知らされていません。ただ、何万人、何十万人単位で救われるという、そういう類の“分岐点”です」
僕は、棺の中の容子を見た。彼女は何も言わない。彼女の人生の価値が、未来の数で測られていくのが、たまらなく嫌だった。
「……容子は、僕に何をしてほしかったんだろうな……」
僕は、独り言みたいに言った。男は静かに答えた。
「あなたにしか頼めないことを、頼んだのです。忙しい彼女が、最後にあなたを選んだ。それだけで十分でしょう」
十分じゃない。十分なわけがない。僕の胸の中には、彼女と過ごした時間が、ぎゅうぎゅうに詰まっていて、それが今、ひび割れて漏れ出している。
男は、ふっと遠くを見るように目を細めた。
「……もう、限界です」
言葉の直後、男の首筋から、溶けた蝋みたいなものが流れ始めた。皮膚が滑り落ち、形が崩れる。背広の襟元が濡れて黒く染まった。
「待って、何か――」
「ありません」
男は、首を振った。
「私が持っていた粘菌と試薬は、これで最後です。あなたのための分でした。……どうか、頼みます」
男は、崩れながらも深く頭を下げた。その姿が、奇妙に礼儀正しかった。しかし、涙のせいで視界が歪んだ。
次の瞬間、男の身体は膝から崩れた。背広が床に落ちる音がして、その中身が、形を失った。
人間が溶けるところを、僕は見てしまった。
逃げることもできず、吐くこともできず、僕はただ立っていた。
斎場の静けさが、何事もなかったみたいに戻ってくる。職員が来たら、僕はなんて説明するのだろう。説明できるわけがない。
僕は、ふらふらと斎場を出た。控室には戻れなかった。誰かに声をかけられた気がするが、答えたかどうか覚えていない。
外の空気は冷たく、妙に澄んでいた。この季節には珍しい雪が花びらのように舞っていた。
僕は自分の手を見た。指先が微かに震えていた。震えを止めるために、拳を握り、開いた。握っても、開いても、彼女は戻らない。
それでも、彼女は言ったのだ。時間がない、と。
僕は、駐車場の軽自動車を動かすと、容子の部屋へ向かった。合鍵は持っている。勝手に入っても、親族に咎められることはないだろう。彼女の両親も、僕のことは知っていた。
もし見つかっても、話せる事情などないが、「研究資料を整理したい」と言えば、きっと納得される。容子はそういう人だった。周囲が「研究なら仕方ない」と思うように生きていた。
部屋に入ると、容子の匂いがまだ残っていた。シャンプーと、乾いた紙と、少しのアルコール――理系の女の人の部屋の匂いだ。僕は、靴を脱ぎ、居間を横切り、彼女のデスクへ向かった。
果実マークのノートPCは、閉じられていた。指が触れると、冷たかった。僕は電源を入れた。起動音がして、ログイン画面が現れる。パスワード入力欄が、妙に無機質に光っている。
僕は、彼女が最後に言った言葉を打ち込んだ。
「LivingDead」
ログインできた。
胸が痛んだ。こんな冗談みたいな文字列が、彼女の最後の鍵だった。彼女は、どんな気持ちでそれを設定したのだろう? たしかに、彼女と時々、ホラー映画を見に行ったのは、楽しい思い出のひとつだった。
デスクトップには、整然とフォルダが並んでいた。彼女らしい。僕のPCなんて、いつも「新規フォルダ(3)」みたいなのが散乱しているのに……。
「難病」と書かれたフォルダを開く。中には論文の原稿ファイル、図表、参考文献のPDF、投稿規定のメモ、そして、メールの下書きらしきテキストがあった。
原稿タイトルを見た瞬間、僕は息を飲んだ。
難病の治療に関する研究。細胞内の異常タンパク質の蓄積を、特定の分子機械を誘導して分解させる方法だった。粘菌の話を思い出した。分子機械、代謝、ATP……彼女の研究と、あの試薬が、どこかで繋がっている気がした。
「容子……」
声に出すと、部屋が少しだけ揺れた気がした。もちろん、地震などではない。僕の心が、揺れているだけだ。
僕は、彼女の原稿を読み始めた。難しかった。専門用語が多い。けれど、容子は要所要所で、他分野の人にも伝わるように書いていた。そういう優しさが、文章に滲んでいた。
読み進めるうちに、僕は彼女の声を頭の中で再生していた。
「……ここは、“可能性を示す”って書いて。断言しない。科学は断言じゃないから」
「……この図、見て。きれいでしょ。きれいな図は、心を強くするんだよ」
「……君の仕事も似てるよ。編集って、人の考えを形にするんでしょ」
僕は、編集者の端くれだ。論文の投稿だって、手続きは分かる。ジャーナルの選び方も、査読への対応も、彼女から、何度も愚痴混じりに聞かされてきた。
彼女は、僕に、未来を託したのだ。
それが、恋人としての最後の頼みだったのか。歴史的に重要な人物としての使命だったのか――どちらでもよかった。
どちらでも同じだとおもった。彼女の言葉を、彼女の研究を、彼女の息が届くところへ運ぶ――それが、僕にできる唯一のことだった。
夜が明けそうだった。窓の外の街灯が、カーテンの隙間から薄く差し込んでいた。部屋の中は静かで、キーボードの音だけが響いていた。
僕は、投稿サイトにログインし、必要事項を埋め、ファイルをアップロードした。最後の「Submit」ボタンの上で、指が止まった。
容子が、もう一度目を開けて、笑った顔が浮かんだ。
「……生き返ってほしいと、思いますか?」
斎場の男の声が、頭の奥で響く。
生き返ってほしい。心からそう思う。でも、男の言う理屈も、少し分かってしまう。死者が戻るのではない。別の生物が、死体を借りて成立する――生きている状態が、別の仕組みで再現されただけだ。
それでも、彼女の目は、確かに僕を見た。彼女の声は、確かに僕に届いた。あれが偽物だとしても、僕の人生の中で、あれ以上に本物に近い瞬間はなかった。
僕は、「Submit」ボタンを押した。
画面に「Submission Completed」と表示された。僕は、椅子にもたれて、天井を見上げた。
「容子。……送ったよ」
独白は、部屋の空気に溶けて消えた。
あの男は、タイムマシンの事故で過去に漂着した学者の子孫だと言った。その学者の未来では、容子の研究が世界を救っているのだろうか? そもそも、タイムマシンの事故とやらがなければ、容子がテニスをするのを止めさせられたのだろうか?
僕は、容子の机の上に置かれたテニスラケットを見た。使い込まれて、グリップが少し擦れている。彼女は研究者で、テニスが好きで、僕の恋人だった。歴史的に重要だろうが何だろうが、その全部を一緒に抱えて生きていた人だった。
僕は、ラケットを手に取った。僕は、時折、彼女とつき合ってラリーすることもあったが、いつも彼女は全身を使って球を打ち返していた。まるで彼女の生き様のようだった、と思った。
翌日から、僕は、葬儀の残りの手続きをこなした。親族に頭を下げ、形式に従い、日付と印鑑で世界を整理していった。誰も、斎場で男が溶けた話など信じない。信じてほしいとも思わなかった。あれは、僕と容子と、あの男だけの出来事だ。
数週間後、ジャーナルから「査読結果」の通知が来た。容子のメールに届いているのを、転送設定で僕のアドレスにも届くようにしてあった。採択ではない。修正の要請だった。査読者のコメントは厳しく、それでも筋が通っていた。
僕は笑った。容子なら、こういうのを見て「やっぱりね」と言って、夜更かしして直すだろう。
僕は、直した。直せるところを直し、協同で名前が出ている彼女のラボの同僚に連絡した。そして、直せないところは補足実験のデータを整理し、必要な図を揃えた。
ラボの同僚は、最初は驚き、次に泣き、最後に静かに協力してくれた。
「容子さん、あなたに頼んだんですね」
「……はい」
「さすがだなあ。最後まで、人に仕事振っていくんだもん」
同僚は、泣き笑いで言った。僕も泣き笑いになった。
修正稿を再投稿した夜、僕はふと、あのパスワードの文字列を見つめた。
「LivingDead」
生きている死者は、死んでいない。あるいは、死んでいる生者は、生きていない。言葉遊びみたいなのに、容子はそこに、境界の揺らぎを押し込めていたのかもしれない。
僕は、思った。容子は、完全には戻らない。でも、彼女の研究が誰かを救うなら、彼女は未来のどこかで生き続けるのだ。
やがて、春が来た。テニスコートの横の桜が咲いた。
僕は、ポケットの中で、スマホを握った。ジャーナルの通知が来るかもしれない。まだ、アクセプトの連絡はきていない。
そのとき、ふと、背後に気配がして振り向いた。
誰もいなかった。
風が吹いて、桜の花びらがひとひら、僕の袖に落ちた。僕はそれを指でつまんで、空へ放った。
「君は、死んでないよ。少なくとも――僕の中では」
僕は、呟いた。
それこそが、僕の反魂なのだ。
(了)
これは、新型コロナのワクチンの副作用で寝込んでいたときに、ゾンビに襲われる夢をみて思いつき……その年は、『ゆきのまち幻想文学賞』に投稿しそこねていたものです。ようやっと完成させました!




