シーン7:一文を書く ― 最小単位の関与
レイスは、羽根ペンを取った。
ためらいは、もうない。
だが、勢いもない。
書くのは一文だけだと、最初から決めている。
説明もしない。
結論にもならない。
まして、誰かを導く言葉にはしない。
余白は十分に広い。
だが、彼女が使うのは、そのごく一部だけだった。
インクが紙に触れる。
音は小さく、ためらいがちで、それでも途切れない。
——ゆっくりと、一文。
理解しなくてもよい、という選択肢を残すこともまた、魔法である
署名はない。
日付もない。
これは誰の言葉か、後から読んだ者には分からない。
断定ではない。
命令でも、定義でもない。
「こう理解しろ」とは言っていない。
「これが正しい」とも、書いていない。
ただ、選択肢が存在することだけを、記した。
理解することを強いない。
理解できない者を切り捨てない。
それでも、書き手が「そういう余地を残した」と言えるだけの、最小限の関与。
責任だけを、引き受ける文。
レイスはペンを置いた。
世界は、何も起こさない。
空気も、因果も、ページの重さすら変わらない。
それでいい、と彼女は思う。
この一文は、物語を進めない。
誰かの行動を変えもしない。
正解にも、救済にも、断罪にもならない。
だが、完全な無関与でもない。
「書かなかった」という逃げ道を選ばなかったこと。
「分からないままでいる自由」を、明示したこと。
それだけが、この本に加わった。
レイスは本を閉じ、表紙をなぞる。
『未読の魔法について・補遺』
それは今も、未読のままだ。
だが、未読であることを許す魔法だけが、静かに書き足された。
世界は介入しない。
だから、この一文は——
物語ではなく、知識として、そこに残る。




