第九章 「続巻との再会」 シーン1:港町の宿屋 ― 流通の途中にある場所
港町の古い宿屋は、朝と夜の境目にあった。
一階は酒場兼食堂で、昼でも灯りが落とされない。外から吹き込む潮風が、煮込みの匂いと混ざって、湿った空気を作っている。床板は長年の水分を含み、踏むたびにわずかに軋んだ。ここは海に近すぎて、乾くという概念がない。
二階へ上がる階段は狭く、手すりには塩が白く浮いている。その突き当たりに、簡易書庫と呼ぶには頼りない一角があった。壁沿いに置かれた棚は高さも揃っておらず、板の色も違う。貸本、売本、預かり物が混在し、分類はされていない。並び順に意味はなく、管理者の意図も感じられなかった。
本にとっては、良くない環境だった。
紙は湿気を吸い、革表紙はわずかに波打ち、金属の留め具には鈍い錆が出ている。ここに長く置かれれば、いずれ歪み、文字は滲み、形を失うだろう。保存という目的からは、明確に外れている。
それでも、本はそこにあった。
レイスは棚の前に立ち、指で背表紙をなぞった。触れると、ひんやりとした感触が返ってくる。図書室の静謐とはまるで違う。紙は落ち着かず、空気も落ち着かない。ここでは、読むという行為さえ、長居を前提にしていないようだった。
——保管の場所ではない。
その認識は、自然に浮かんだ。
ここは、物を留める場所ではない。人も、本も、意味も、通過するための場所だ。
宿屋という機能そのものが、それを示している。泊まる者は留まらない。食べる者は根を張らない。昨日の客と今日の客に連続性はなく、話題は繰り返されても、物語にはならない。
本も同じだった。
この棚に置かれている本は、守られていない代わりに、縛られてもいない。読まれてもいいし、読まれなくてもいい。売られても、貸されても、忘れ去られても構わない。意味づけを強制されないまま、流通の途中に置かれている。
レイスは、その状態に既視感を覚えた。
王立魔導図書室は、知識を固定する場所だった。分類し、保存し、正確に伝えるための構造を持っている。だが、ここにはそれがない。正確さも、権威も、連続性もない。ただ、在る。
——物語が定着しない。
この場所では、始まりも終わりも曖昧だ。誰かが何かを成し遂げても、それは記録されない。英雄譚も、断罪も、救済も、ここではただの話題として消える。語られたとしても、次の夜には別の酒の話に上書きされる。
だからこそ、知識は通過できる。
確定されないから、削られない。
理解を要求されないから、拒絶もされない。
レイスは一冊の本を手に取り、重さを確かめる。紙は湿り気を含み、少しだけ重い。ここに長く置かれていれば、傷むだろう。それでも、今はまだ、読める。
棚の向こうでは、誰かが椅子を引く音がした。階下から笑い声が上がり、波の音がそれに重なる。世界は動いているが、どこにも焦点がない。
「……なるほど」
小さく呟いて、レイスは本を戻す。
ここは、物語の終着点ではない。
だが、始まりでもない。
知識が、ただ通り過ぎるための場所。
意味を持たずに置かれ、意味を持たずに去っていく、中継点。
その性質こそが、この宿屋を成立させていた。
レイスは、その棚の前で立ち止まったまま、しばらく動かなかった。
ここには、世界の圧力も、結界も、正解もない。
あるのは、通過するという事実だけだった。




