シーン4:小規模トラブル ― 結界の「選別」
街道宿は、よくある造りだった。
人が集まり、噂が滞留し、夜になると境界が曖昧になる場所。
食堂の隅で、レイスは椅子に腰かけ、本を開いている。
イオは少し離れた卓で、帳面を繕っていた。互いに会話はない。
問題は、静かに始まった。
――視線が、粘つく。
若い男が、杯を持ったままこちらを見ている。
視線は好奇ではなく、期待を含んでいた。
「なあ、その本……珍しい装丁だな」
レイスは顔を上げない。
返事もしない。無視ではない。ただ、対応が発生しない。
男は近づき、今度は卓の縁に手を置く。
「旅の学者か? それとも――」
言葉が、途中でほどける。
音は出ている。だが、意味が届かない。
レイスの側で、何かが起動したわけではない。
光も、圧も、魔力の奔流もない。
ただ――成立しない。
男は眉をひそめ、もう一歩踏み出そうとして、止まる。
視線を合わせようとしても、焦点が定まらない。
彼女の輪郭は見えているのに、人物としての「引っかかり」がない。
「……?」
不審そうに首を傾げる。敵意は生まれない。
怒りも、恐怖も、正義感も、どこにも接続されない。
別の客が囁く。
「やめとけ。相手にされてない」
「……変な感じだな」
男は肩をすくめ、杯を持って離れていく。
理由は分からない。ただ、続ける意味が消えただけだ。
イオはその様子を見ていたが、特に反応しない。
あとで、さりげなく言う。
「売り物に見えました?」
「いいえ」
レイスはページをめくる。
「ただ、“物語にしようとした”だけ」
結界は、全面展開していない。
拒絶も、排除も行っていない。
視線は遮られず、存在は消されない。
ただし、関係が成立しない。
知ろうとする意図。
語ろうとする欲望。
役割を与えようとする圧力。
それらだけが、選別された。
(……なるほど)
レイスは理解する。
これは拒絶ではない。
「来るな」でも、「触れるな」でもない。
――「そこまでだ」。
成立しない関係を、成立させない。
それ以上でも、それ以下でもない。
だから事件にならない。
敵も、被害者も、生まれない。
宿は通常運行に戻る。
笑い声が起き、食器が鳴り、夜が進む。
イオが立ち上がり、荷をまとめる。
「行きますか」
「ええ」
二人は宿を出る。
誰も追わない。誰も語らない。
結界は壊れなかった。
だが確かに、変質していた。
拒絶するための壁ではない。
成立させる価値のない関係を、静かに選り分けるための層。
世界はそれを異常と呼ばない。
ただ、不思議だと感じて、忘れる。
街道に戻ると、夜風が通った。
歩調は、また自然に揃う。
結界は使われた。
初めて、“使い分けられるもの”として。




