シーン4:エリシア ― 主人公にならない日常
廊下で、エリシアは小さく躓いた。
床に散らばったのは書類だけだ。
誰かが急いでいたわけでも、悪意があったわけでもない。
ただ、彼女の手元が一瞬だけ狂った。それだけの出来事だった。
「大丈夫?」
声をかけられ、彼女は慌てて書類を拾う。
一枚は提出期限を一日勘違いしていたことを指摘され、軽く叱られる。
別の一枚は、内容がよく整理されていると評価される。
失敗と評価が、同じ場所に並ぶ。
どちらも過剰ではなく、どちらも決定打にならない。
エリシアは頭を下げ、短く礼を言った。
胸の奥で、何かが高鳴ることはなかった。
悔しさも、誇らしさも、物語的な転換点にはならない。
だが、何も感じていないわけでもない。
(失敗した)
(でも、前より分かる)
原因があり、結果があり、修正の余地がある。
それだけのことが、確かに積み重なっている。
廊下を歩きながら、彼女は立ち止まらない。
誰かに説明することもしない。
決意を言葉にして宣言することもない。
(物語にならなくても)
(私は、ここにいる)
かつてなら、この瞬間に意味が与えられていたはずだ。
成長の兆し、覚醒の前触れ、運命の分岐点。
だが今は、ただの日常だ。
そしてエリシアは、その日常を拒まなかった。
歩幅は一定で、視線は前を向いている。
廊下には人が行き交い、偶然も起きる。
だが、彼女だけを選び取る力は、もう働いていない。
成長は続いている。
確かに、少しずつ。
ただそれは、一本の線にはならない。
枝分かれし、遠回りし、ときには戻る。
物語としては不格好で、人生としては十分だった。
エリシアはそのまま歩き、
誰にも語られない一日を、静かに生きていった。




