プロローグ 転生した先に、図書室があった シーン0:終わり方が地味な死
信号は赤だった。
休日の昼下がり、交差点の空気はゆるく、誰も急いでいない。
彼女も同じだった。
平日の名残で少しだけ肩は凝っていたが、今日は予定が一つしかない。
古書店。
それだけで十分だった。
イヤホンから流れているのは朗読だった。
最近見つけた、絶版になった評論集。
声の抑揚が少なくて、内容に集中しやすい。
ページをめくる代わりに、歩幅を合わせる。
(……この章、後でメモしたい)
そんなことを考えながら、横断歩道の白線を眺めていた。
信号はまだ変わらない。
隣に立つ人の気配も、車の流れも、すべてがいつも通りだった。
次の瞬間までは。
音があったかどうかは、よく覚えていない。
衝撃も、痛みも、たぶんあったのだと思う。
ただ、どれも記憶に残るほどではなかった。
世界が、少しだけ傾いた。
(あ)
そう思ったときには、もう足の感覚がなかった。
地面が近づくとか、空が遠ざかるとか、そういう比喩も浮かばない。
ただ、重力の向きが変わった気がした。
イヤホンは外れていた。
いつの間にか、音も止まっている。
(……あ、死んだな)
認識は、それだけだった。
悲鳴も、走ってくる人影も、どこか遠い。
ガラス越しに見ている映像のようで、現実感が薄い。
体はもう、自分のものではない感じがした。
不思議と、恐怖はなかった。
焦りも、怒りも、後悔も、きれいに見当たらない。
仕事のことが一瞬よぎって、すぐに消える。
家族の顔も浮かびかけて、輪郭を結ばない。
代わりに、別のものが浮かんだ。
薄いクリーム色の表紙。
古書店の奥の棚。
手に取るか迷って、結局その日は買わなかった一冊。
(……あの本、まだ読んでなかった)
それだけが、少しだけ引っかかった。
でも、それも致命的な後悔ではない。
「まあ、仕方ないか」と言える程度だ。
未読の本は、いつも残る。
全部を読み切れる人生なんて、最初から想定していない。
そう考えると、
今まで通りだな、と思った。
視界が暗くなるとか、意識が遠のくとか、
そういう段階的な変化もなかった。
ただ、情報が減っていく。
音がなくなり、重さがなくなり、
「立っている」という感覚が消えた。
最後に残ったのは、
読めなかったものが、まだあるという事実だけだった。
それは悔恨ではなく、
次の予定を確認するような、淡い未練に近い。
(……まあ)
そう思って、
そこで、終わった。




