第1話「定時の鐘が鳴る世界で」
午前二時三十八分。
社内のエアコンはとっくに節電モードに落ち、窓の外の首都高を走る車の音だけが、眠そうな蛍光灯の唸りに混じっている。
画面の隅で赤く点滅するチャットは、上司の既読だけを量産し、返事はない。タスク管理ボードの期限は真っ赤に染まり、僕の指先はカフェインで震え続けていた。
「佐藤。進捗、出せ」
背後から降ってきた声は、夜食の湯気みたいに冷たかった。
課長は紙コップの味噌汁をすすりながら、僕の肩越しにモニターを覗き込む。
進捗はある。だが、十分じゃないと彼は言うだろう。いつだってそうだ。
明日の朝イチでデプロイ、なのに要件はいまさっき変わったばかりだ。テストは? レビューは? 知らん、間に合わないのはお前の努力不足――。
「……あと一時間ください。ここだけ通れば――」
「一時間で終わるなら最初から終わらせろ。言い訳してる暇があったら、手を動かせ」
言葉は、刃だ。
胸のどこかに刺さって、抜けないまま、じわじわ血を吸う。
僕は「はい」とだけ答えて、椅子に沈んだ。
指を動かす。脳を叩き起こす。胃が、痛い。
時計の針が三時を回るころ、視界の端で、何かが重なった。
モニターの光の粒と、黒い文字列と、走る車の赤い尾。
次の瞬間、椅子の背もたれが遠ざかり、床が僕に向かって滑ってきた。
頭の中で、鐘が鳴った。
定時の鐘だ。行ったことのない理想の会社の、五時の鐘。
それが、ゆっくり、遠くで――。
――そこで、僕は死んだ。
*
草の匂いがした。
鼻の奥に土の粉がざらりと張りついて、喉に青さが落ちる。
目を開けると、空。
蒼い――という言葉を、考えるより先に知っていたみたいに、どこまでも蒼い空。雲の縁までくっきり見える。
僕は、仰向けに寝ている。周囲は一面の草原で、遠くに山並みが溶けている。風が、髪を撫でた。
「おはよう、過労死くん」
声が降ってきた。
座っていたのは、白い服の女の人。年齢は分からない。少年のような、年老いたような、どちらにも見える顔。
彼女は、空に落ちないよう気をつけながら、僕に微笑んだ。
「ここは……?」
「あなたが次の人生を始める場所。いわゆる異世界ってやつだね」
冗談、だろう。
そう言いかけて、喉が乾いた。草の香りが肺に満ちた。
彼女は僕の耳元に手を当てると、軽く弾いた。
空気が震え、僕の視界が暗転する。
そこに、薄い板みたいなものが浮かび上がった。
――【ステータス】。
ゲームのメニュー画面、と言ってしまって差し支えない。名前、生年月日、職業。
最後に、スキル欄。
【固有スキル:定時帰り】
僕は読み上げた。
「……定時帰り?」
「そう。あなたが望んだものでしょ?」
「いや、望んだのは――」
休み、が欲しかった。
人間の形をしたままでいられる、最低限の睡眠と、明るい日差しと、五時の鐘。
けれど、スキルって、もっとこう、火を噴いたり、剣が飛んだりするやつでは?
「説明、出す?」
白いひとは指を鳴らした。スキル欄の下に、説明文が走る。
――――――――――
〈定時帰り〉
・一日の労働可能時間は八時間まで。
・八時間を超える労働行為は、心身が自動停止し実行不可。
・ただし、規定時間外における心身の回復効率は著しく上昇する。
――――――――――
僕は眉間を押さえた。
「……八時間しか、働けない?」
「うん。素晴らしいでしょ?」
「いや、素晴らしいけど……僕、ここで生きる術がない。働かないと」
「働けるよ。ちゃんと八時間以内なら」
白いひとは、笑いを堪えるみたいに肩を揺らした。
「君は『働きすぎて壊れた』。だから、次は『働きすぎないで強くなる』。世界は、その願いに忠実だよ」
「強くなる?」
「“回復効率”は、数字にすると笑えるほどね。まあ、やってごらん」
白いひとは立ち上がった。足元に影が生まれ、そこに扉の輪郭が浮かぶ。
「ここから先は、君の勤務時間だ。いい転職を」
扉が、風に溶けて消える。
残ったのは、僕と、草原と、ステータス画面。
「……勤務、ね」
僕は起き上がる。スーツの背中は草の露で濡れて、ネクタイはどこかで失くしていた。
遠くに、土煙。道が一本、草原を横切っている。
人。
――いや、馬に曳かれた荷車と、革鎧の集団。旅人か、冒険者か。
助けて、という言葉は、喉の奥で砂になった。
代わりに僕は、歩いた。
かつて夜明けのオフィスに向かっていたときより、いくぶん軽い足取りで。
*
「初めて見る顔だな。旅の人かい?」
街道沿いの門で、槍を持った兵士が声をかけてきた。背後には、石造りの壁。手前は市場になっていて、野菜や干し肉や、見たことのない果物が賑やかに並んでいる。
僕は頷いた。「仕事を探しています。できれば、今日から」
「働き者か。よし、だったらギルドに行くといい。冒険者の。仕事は山ほど余ってる」
兵士は親切に道を教えてくれた。
石畳を進むと、黒い看板に剣と麦束の印。木製の扉を押し開けると、酒と革と汗の匂いが、頬にぶつかった。
「いらっしゃい、登録かい?」
カウンターの奥から、金髪を束ねた受付嬢が笑顔を向ける。
その笑顔は、夜のコンビニで疲れ果てた目に刺さる明かりみたいに、まぶしかった。
僕はうなずいた。
書類を書く。名前、年齢、前職――前職? 僕は迷って、「雑務」と書いた。
最後に、スキルの欄。
「必須なのかい?」
「ええ、危険な仕事も多いからね。保険みたいなものさ」
僕は、正直に書いた。
受付嬢の目が、紙のその箇所で止まる。
口元の笑顔が、困惑に変わって、やがて苦笑に落ちた。
「……《定時帰り》、ね」
「はい」
「具体的には?」
「八時間しか、働けません」
ギルドホールのざわめきが、微妙に揺れた。
隣の丸椅子でビールを飲んでいた男が、ぷっと吹いた。
「なにそれ、貴族のお坊ちゃん?」
「八時間? 子どもの遊びか?」
笑いが、波紋になって広がる。
受付嬢は咳払いした。「ええと、説明書きでは……“時間外の回復効率が上がる”?」
「はい。だから、働いたあとは、すごく休めます」
今度は本格的に笑いが起きた。
木の床を叩く音。コップが鳴る音。
受付嬢は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「悪いことは言わない。君、荷運びの常雇いか、厨房の手伝いから始めなさい。冒険者稼業は、日を跨ぐことも珍しくない。八時間じゃ、森に入って出てくるだけでも厳しいよ」
それでも、僕は言った。
「やらせてください。できる範囲で」
受付嬢は肩をすくめた。「じゃあ、軽い討伐だね。街のすぐ外、畑を荒らす《土鼠》の駆除。昼過ぎまでに戻れば、報酬は銀貨三枚」
木札を渡され、僕はうなずいた。
背中で、誰かがまた笑う。
八時間しか働けない男。
正直、僕だって笑いたい。でも、笑ってる余裕があるだけ、前の世界よりはマシだ。
*
《土鼠》は名前のわりに凶暴だった。
大きさは犬ほど。鼻先は鋼のスコップみたいに固く、畝を崩して芽を食い荒らす。
畑の老人たちは、枯れ草と汗の匂いをまとって、僕に木の棒を手渡した。
「夕方までに、五匹でいい。無理すんな。日が傾く前に戻れ」
僕は、時計を見た。
この世界の太陽がどれくらいで落ちるのか分からないが、感覚で分かった。
――勤務開始。
心の中で、そう言ってみる。
ふっと、身体の重さが整列するような感覚がした。背筋が伸び、指に力が入る。
草を分けて進むと、土が盛り上がり、茶色い背中がのぞいた。
「――っ」
木の棒を振る。
反射神経は鈍っていない。心臓は早いが、嫌な冷や汗は出ない。
一匹、仕留める。二匹目が横から突っ込んできた。
避け、叩く。三匹目は、畝の向こうから跳ねる――。
気づけば、陽は傾きかけていた。
額の汗を拭って数える。五匹、達成。
老人が手を叩く。「やるじゃねえか。顔に似合わず、動けるな」
「ありがとうございます。僕、これでも――」
社畜だったんで、と言いかけて、やめた。
代わりに、空を見上げる。
あの白いひとが言っていた。八時間。
どれくらい働いた? 昼前からだ。今は……。
――カン、カン、カン。
街の方角から、鐘の音がした。
薄い夕焼けの下で、金属が空気を縫う。
体のどこかが、微かに震えた。
次の瞬間、僕は膝から崩れ落ちた。
視界が、ふっと遠ざかる。
身体が、動かない。
重いわけじゃない。眠いわけでもない。
ただ――止まった。
「お、おい兄ちゃん?」
老人の声が遠い。
僕は、笑った。笑うしかなかった。
「……定時、なので」
老人は目を丸くしてから、吹き出した。「なんだそりゃ!」
土の匂いが近づく。担がれて、畦に寝かされる。
空の色が、ゆっくり紫に変わっていく。
指先が、じんじんする。血が、指にまで戻ってくるみたいだ。
心臓の拍動は穏やかで、さっきまでの疲労が、ざあっと退いていく。
――おかしい。
回復が、早すぎる。
さっきまでの筋肉の張りが、まるで風に吹かれた草みたいに柔らかくほどけていく。
頭の中に、透明な水が注がれている。思考が澄む。視界が明るくなる。
「兄ちゃん、もう帰っていいぞ。明日も頼む」
「ありがとうございます。……明日、また定時まで」
立ち上がると、身体が軽い。
八時間働いて、すとんと切れた。
そのあとに、洪水みたいな回復が押し寄せる。
白いひとの言葉が、遅れて実感になる。
――働きすぎないで、強くなる。
ギルドに戻ると、受付嬢は驚いた顔をした。「本当に、夕方前に戻ってきたの?」
「ええ。五匹、です」
数を数え、札に刻印が押される。銀貨三枚が、手のひらに落ちる。
木のテーブルの向こうで、昼間の男がまだビールを飲んでいた。
僕は軽く会釈をする。彼は鼻で笑って、別の方を向いた。
「君、名前は?」
「佐藤蓮です」
「レン。覚えておくよ。……ねえ、もしよかったら明日もお願いできる? 畑はまだ困ってる」
「もちろん。定時までなら」
受付嬢は、ふっと笑った。「変わった台詞ね」
夜風に、鐘の余韻がまだ残っていた。
僕はギルドの外に出て、石畳にひとり立つ。
胸の奥に、見慣れない余白があった。
“残業”で埋めていた空白。
そこに、風と匂いと、遠くの音が入ってくる。
定時の鐘が鳴る世界。
この世界でなら、僕は――生き直せる。
そう思ったとき、背後から声がした。
「おい、八時間の坊主」
振り返ると、昼間鼻で笑った男が、仲間を連れて立っていた。
革鎧の肩越しに、月が細く覗いている。
「明日、森に行く。軽い護衛の仕事だ。いつもなら徹夜で詰めるが……お前の“定時”とやらで、どこまでやれるか見物させてもらおうじゃねえか」
挑発の口ぶりに、血が少しだけ温まる。
けれど、不思議と嫌な汗は出ない。
僕はゆっくりと頷いた。
「八時間で終わる範囲なら、引き受けます」
「へっ。言ったな。じゃあ明日、夜明けに北門だ」
男たちが去ると、石畳に僕の影だけが残った。
空は群青に溶け、星がにじんでいる。
胸の中の余白に、星明かりが落ちた。
勤務初日、終了。
タイムカードもないのに、心のどこかで、カチリと音がした気がした。
――そして、二日目の朝。
僕はまだ知らない。
“規定時間外”に訪れる、もうひとつの身体の状態を。
それが、八時間しか働けない男を、八時間の外で最強にしてしまうことを。
(つづく)