表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/11

第1話「定時の鐘が鳴る世界で」

 午前二時三十八分。

 社内のエアコンはとっくに節電モードに落ち、窓の外の首都高を走る車の音だけが、眠そうな蛍光灯の唸りに混じっている。

 画面の隅で赤く点滅するチャットは、上司の既読だけを量産し、返事はない。タスク管理ボードの期限は真っ赤に染まり、僕の指先はカフェインで震え続けていた。


「佐藤。進捗、出せ」


 背後から降ってきた声は、夜食の湯気みたいに冷たかった。

 課長は紙コップの味噌汁をすすりながら、僕の肩越しにモニターを覗き込む。

 進捗はある。だが、十分じゃないと彼は言うだろう。いつだってそうだ。

 明日の朝イチでデプロイ、なのに要件はいまさっき変わったばかりだ。テストは? レビューは? 知らん、間に合わないのはお前の努力不足――。


「……あと一時間ください。ここだけ通れば――」


「一時間で終わるなら最初から終わらせろ。言い訳してる暇があったら、手を動かせ」


 言葉は、刃だ。

 胸のどこかに刺さって、抜けないまま、じわじわ血を吸う。

 僕は「はい」とだけ答えて、椅子に沈んだ。

 指を動かす。脳を叩き起こす。胃が、痛い。

 時計の針が三時を回るころ、視界の端で、何かが重なった。

 モニターの光の粒と、黒い文字列と、走る車の赤い尾。

 次の瞬間、椅子の背もたれが遠ざかり、床が僕に向かって滑ってきた。


 頭の中で、鐘が鳴った。

 定時の鐘だ。行ったことのない理想の会社の、五時の鐘。

 それが、ゆっくり、遠くで――。


 ――そこで、僕は死んだ。



 草の匂いがした。

 鼻の奥に土の粉がざらりと張りついて、喉に青さが落ちる。

 目を開けると、空。

 蒼い――という言葉を、考えるより先に知っていたみたいに、どこまでも蒼い空。雲の縁までくっきり見える。

 僕は、仰向けに寝ている。周囲は一面の草原で、遠くに山並みが溶けている。風が、髪を撫でた。


「おはよう、過労死くん」


 声が降ってきた。

 座っていたのは、白い服の女の人。年齢は分からない。少年のような、年老いたような、どちらにも見える顔。

 彼女は、空に落ちないよう気をつけながら、僕に微笑んだ。


「ここは……?」


「あなたが次の人生を始める場所。いわゆる異世界ってやつだね」


 冗談、だろう。

 そう言いかけて、喉が乾いた。草の香りが肺に満ちた。

 彼女は僕の耳元に手を当てると、軽く弾いた。

 空気が震え、僕の視界が暗転する。

 そこに、薄い板みたいなものが浮かび上がった。


 ――【ステータス】。


 ゲームのメニュー画面、と言ってしまって差し支えない。名前、生年月日、職業。

 最後に、スキル欄。


【固有スキル:定時帰り】


 僕は読み上げた。


「……定時帰り?」


「そう。あなたが望んだものでしょ?」


「いや、望んだのは――」


 休み、が欲しかった。

 人間の形をしたままでいられる、最低限の睡眠と、明るい日差しと、五時の鐘。

 けれど、スキルって、もっとこう、火を噴いたり、剣が飛んだりするやつでは?


「説明、出す?」


 白いひとは指を鳴らした。スキル欄の下に、説明文が走る。


――――――――――

〈定時帰り〉

・一日の労働可能時間は八時間まで。

・八時間を超える労働行為は、心身が自動停止し実行不可。

・ただし、規定時間外における心身の回復効率は著しく上昇する。

――――――――――


 僕は眉間を押さえた。


「……八時間しか、働けない?」


「うん。素晴らしいでしょ?」


「いや、素晴らしいけど……僕、ここで生きる術がない。働かないと」


「働けるよ。ちゃんと八時間以内なら」

 白いひとは、笑いを堪えるみたいに肩を揺らした。

「君は『働きすぎて壊れた』。だから、次は『働きすぎないで強くなる』。世界は、その願いに忠実だよ」


「強くなる?」


「“回復効率”は、数字にすると笑えるほどね。まあ、やってごらん」


 白いひとは立ち上がった。足元に影が生まれ、そこに扉の輪郭が浮かぶ。

「ここから先は、君の勤務時間だ。いい転職を」


 扉が、風に溶けて消える。

 残ったのは、僕と、草原と、ステータス画面。


「……勤務、ね」


 僕は起き上がる。スーツの背中は草の露で濡れて、ネクタイはどこかで失くしていた。

 遠くに、土煙。道が一本、草原を横切っている。

 人。

 ――いや、馬に曳かれた荷車と、革鎧の集団。旅人か、冒険者か。


 助けて、という言葉は、喉の奥で砂になった。

 代わりに僕は、歩いた。

 かつて夜明けのオフィスに向かっていたときより、いくぶん軽い足取りで。



「初めて見る顔だな。旅の人かい?」


 街道沿いの門で、槍を持った兵士が声をかけてきた。背後には、石造りの壁。手前は市場になっていて、野菜や干し肉や、見たことのない果物が賑やかに並んでいる。

 僕は頷いた。「仕事を探しています。できれば、今日から」


「働き者か。よし、だったらギルドに行くといい。冒険者の。仕事は山ほど余ってる」


 兵士は親切に道を教えてくれた。

 石畳を進むと、黒い看板に剣と麦束の印。木製の扉を押し開けると、酒と革と汗の匂いが、頬にぶつかった。


「いらっしゃい、登録かい?」


 カウンターの奥から、金髪を束ねた受付嬢が笑顔を向ける。

 その笑顔は、夜のコンビニで疲れ果てた目に刺さる明かりみたいに、まぶしかった。

 僕はうなずいた。

 書類を書く。名前、年齢、前職――前職? 僕は迷って、「雑務」と書いた。

 最後に、スキルの欄。


「必須なのかい?」


「ええ、危険な仕事も多いからね。保険みたいなものさ」


 僕は、正直に書いた。

 受付嬢の目が、紙のその箇所で止まる。

 口元の笑顔が、困惑に変わって、やがて苦笑に落ちた。


「……《定時帰り》、ね」


「はい」


「具体的には?」


「八時間しか、働けません」


 ギルドホールのざわめきが、微妙に揺れた。

 隣の丸椅子でビールを飲んでいた男が、ぷっと吹いた。


「なにそれ、貴族のお坊ちゃん?」


「八時間? 子どもの遊びか?」


 笑いが、波紋になって広がる。

 受付嬢は咳払いした。「ええと、説明書きでは……“時間外の回復効率が上がる”?」


「はい。だから、働いたあとは、すごく休めます」


 今度は本格的に笑いが起きた。

 木の床を叩く音。コップが鳴る音。

 受付嬢は、申し訳なさそうに目を伏せた。


「悪いことは言わない。君、荷運びの常雇いか、厨房の手伝いから始めなさい。冒険者稼業は、日を跨ぐことも珍しくない。八時間じゃ、森に入って出てくるだけでも厳しいよ」


 それでも、僕は言った。


「やらせてください。できる範囲で」


 受付嬢は肩をすくめた。「じゃあ、軽い討伐だね。街のすぐ外、畑を荒らす《土鼠》の駆除。昼過ぎまでに戻れば、報酬は銀貨三枚」


 木札を渡され、僕はうなずいた。

 背中で、誰かがまた笑う。

 八時間しか働けない男。

 正直、僕だって笑いたい。でも、笑ってる余裕があるだけ、前の世界よりはマシだ。



 《土鼠》は名前のわりに凶暴だった。

 大きさは犬ほど。鼻先は鋼のスコップみたいに固く、畝を崩して芽を食い荒らす。

 畑の老人たちは、枯れ草と汗の匂いをまとって、僕に木の棒を手渡した。


「夕方までに、五匹でいい。無理すんな。日が傾く前に戻れ」


 僕は、時計を見た。

 この世界の太陽がどれくらいで落ちるのか分からないが、感覚で分かった。

 ――勤務開始。

 心の中で、そう言ってみる。

 ふっと、身体の重さが整列するような感覚がした。背筋が伸び、指に力が入る。

 草を分けて進むと、土が盛り上がり、茶色い背中がのぞいた。


「――っ」


 木の棒を振る。

 反射神経は鈍っていない。心臓は早いが、嫌な冷や汗は出ない。

 一匹、仕留める。二匹目が横から突っ込んできた。

 避け、叩く。三匹目は、畝の向こうから跳ねる――。


 気づけば、陽は傾きかけていた。

 額の汗を拭って数える。五匹、達成。

 老人が手を叩く。「やるじゃねえか。顔に似合わず、動けるな」


「ありがとうございます。僕、これでも――」


 社畜だったんで、と言いかけて、やめた。

 代わりに、空を見上げる。

 あの白いひとが言っていた。八時間。

 どれくらい働いた? 昼前からだ。今は……。


 ――カン、カン、カン。


 街の方角から、鐘の音がした。

 薄い夕焼けの下で、金属が空気を縫う。

 体のどこかが、微かに震えた。


 次の瞬間、僕は膝から崩れ落ちた。

 視界が、ふっと遠ざかる。

 身体が、動かない。

 重いわけじゃない。眠いわけでもない。

 ただ――止まった。


「お、おい兄ちゃん?」


 老人の声が遠い。

 僕は、笑った。笑うしかなかった。


「……定時、なので」


 老人は目を丸くしてから、吹き出した。「なんだそりゃ!」


 土の匂いが近づく。担がれて、畦に寝かされる。

 空の色が、ゆっくり紫に変わっていく。

 指先が、じんじんする。血が、指にまで戻ってくるみたいだ。

 心臓の拍動は穏やかで、さっきまでの疲労が、ざあっと退いていく。


 ――おかしい。

 回復が、早すぎる。

 さっきまでの筋肉の張りが、まるで風に吹かれた草みたいに柔らかくほどけていく。

 頭の中に、透明な水が注がれている。思考が澄む。視界が明るくなる。


「兄ちゃん、もう帰っていいぞ。明日も頼む」


「ありがとうございます。……明日、また定時まで」


 立ち上がると、身体が軽い。

 八時間働いて、すとんと切れた。

 そのあとに、洪水みたいな回復が押し寄せる。

 白いひとの言葉が、遅れて実感になる。


 ――働きすぎないで、強くなる。


 ギルドに戻ると、受付嬢は驚いた顔をした。「本当に、夕方前に戻ってきたの?」


「ええ。五匹、です」


 数を数え、札に刻印が押される。銀貨三枚が、手のひらに落ちる。

 木のテーブルの向こうで、昼間の男がまだビールを飲んでいた。

 僕は軽く会釈をする。彼は鼻で笑って、別の方を向いた。


「君、名前は?」


「佐藤蓮です」


「レン。覚えておくよ。……ねえ、もしよかったら明日もお願いできる? 畑はまだ困ってる」


「もちろん。定時までなら」


 受付嬢は、ふっと笑った。「変わった台詞ね」


 夜風に、鐘の余韻がまだ残っていた。

 僕はギルドの外に出て、石畳にひとり立つ。

 胸の奥に、見慣れない余白があった。

 “残業”で埋めていた空白。

 そこに、風と匂いと、遠くの音が入ってくる。


 定時の鐘が鳴る世界。

 この世界でなら、僕は――生き直せる。


 そう思ったとき、背後から声がした。


「おい、八時間の坊主」


 振り返ると、昼間鼻で笑った男が、仲間を連れて立っていた。

 革鎧の肩越しに、月が細く覗いている。


「明日、森に行く。軽い護衛の仕事だ。いつもなら徹夜で詰めるが……お前の“定時”とやらで、どこまでやれるか見物させてもらおうじゃねえか」


 挑発の口ぶりに、血が少しだけ温まる。

 けれど、不思議と嫌な汗は出ない。

 僕はゆっくりと頷いた。


「八時間で終わる範囲なら、引き受けます」


「へっ。言ったな。じゃあ明日、夜明けに北門だ」


 男たちが去ると、石畳に僕の影だけが残った。

 空は群青に溶け、星がにじんでいる。

 胸の中の余白に、星明かりが落ちた。


 勤務初日、終了。

 タイムカードもないのに、心のどこかで、カチリと音がした気がした。


 ――そして、二日目の朝。

 僕はまだ知らない。

 “規定時間外”に訪れる、もうひとつの身体の状態を。

 それが、八時間しか働けない男を、八時間の外で最強にしてしまうことを。


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ