第1話「きっかけ」
数週間前の話。
その日、オレは一人で静かに本を読んでいたが、どうやらいつの間にか眠ってしまったようだった。
「ふぁあ、ぁ」
教会裏の庭園に生えた大樹のふもと、枝葉から差し込んだ光によって目を覚ます。
どのくらい寝てた?と頭をよぎる考えを払拭し、それよりも、首や肩の違和感や微かな痛みに不快感を覚える。
柔らかな芝があるとはいえ、地面の寝心地は最悪だった。
オレはまず首や肩をゆっくりと回した。
すると、骨がカタカタと音を鳴らす。
運動不足なのは百も承知だったが、この音は結構好きだった。
いかにも凝り固まった体を解せている感覚がして、気持ちがいいから。
そして、大きく伸びをした。
目をぎゅっと瞑り、腕を上に限界まで伸ばせば、体が一気に軽くなる。
「よし、そろそろ行くか.....っと危ない」
一気に立ち上がると、血の巡りが追いつかず、少しよろけてしまう。
それと共にまた気だるさが戻ってきたようで、服に張り付いた草や土をを払いながら、少々情けない己の姿に苦笑いをこぼす。
「あ?お前、本じゃねーか」
腰を曲げて膝下まで払っていると、視界の端に芝生に置かれた本が見えた。
正確に言えば、落ちていた本、だが。
あぶねぇ、もう少しで忘れるところだった。
あまりにも爽やかな目覚めに、本のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
以前、たったの一日返却が遅れただけで、烈火のごとく怒っていた図書館司書を思い出しては身震いがする。
もし本を置き去りにいていたら、なんと言われるのか考えただけでも恐ろしい。
自分が綺麗好きで良かった。
もしオレが服を整えることも考えない人間であったなら、きっとそのまま帰っていただろうから。
普段から身だしなみをキチンとしていれば、周りの些細な変化にもすぐ気づける、というのがオレの矜恃だ。
オレは屈んで、芝生の上の本を拾い上げる。
寝落ちた拍子に手から滑り落ちてしまったのだろうそれは、綺麗な装飾が施された分厚い本だった。
『ヴァルディアと神罰』
人はかつて罪を犯し、神に見放されることになってしまった。
なんて、そのようなありきたり過ぎる神話と彼の住む国、ヴァルディアの建国史を絡めた内容の本だ。
軽くパラパラ捲っただけなのに寝てしまうとは、この本のつまらなさと言ったら、オレの中での歴代一位にも食い込むかもしれない。
とは言え、つまらないと感じるのにも理由はあった。
オレは正直、人々が自分勝手に作り上げた救済や信仰の在り方を心底嫌っている。
実在するかも分からない神を登場させておいて、なんと人を見放す役にしてしまうというのは、気分のいい話ではないからだ。
神に対して、流石に決めつけが過ぎるんじゃないかと思うし、この世に存在する不利益を全て、ここに存在しない神のせいにしているようにも思える。
もし本当に神がいたなら、それこそ失礼すぎる物言いに、人は見放されるんじゃないかと考えたこともあった。
それこそが史実で、現在進行形だったりするのかもしれない、なんて。
何よりオレは、変な妄想や勘違いをする人を山ほど見てきた。
それが何よりの証拠で、このような物語が作られてしまう可能性を大いに示唆している。
オレは本のページを捲りつつ、傷や折れ目がないか丁寧に確認していく。
たが、オレは本の無事を祈る反面、頭の中では本の不快な内容について考えることを止められず、いっその事破り捨ててしまいたかった。
たとえ居なくなったとしても、「最後まで人を愛した優しい神」ってことにしてやれば良かったのに。
毎回、結局はこの考えにたどり着く。
例えば、転んで怪我をしてしまったから人を助けるのが難しくなったとか、実は見えない形でずっと助けていたとか、そのような理由にした方が絶対に救いがある、というのがオレの考えだった。
それに、人が罪を犯したという部分も非常に気に入らない。
人が生きるために行う殺戮を罪だと言われたら、それはもう、事実として受け入れるしかない。
それを変えることをオレたち人にはできないし、誰もがみな他者から命をもらって生きているのだから。
それに関しては、人を飲まず食わずでも生きられるように設計しなかった神が悪いのかもしれないが。
神職者を真似るなら、それこそが神の与えた試練だの何だのと抜かすのだろう。
もちろん、人は良くない感情を持っているし、皆がみな良い人ばかりではないことは知っているが。
オレだって、到底良いやつとは呼べないし...。
だが普通の人はそこまで壮大に物事を考えるだろうか。
もっと気楽に生きればいいのに、何だって自分で自分に重りを乗せたがるのか、オレには理解ができなかった。
それこそ、人の罪悪感やら迷いを食い物にするために作り上げたおとぎ話に感じて仕方がない。
それか、ただ単にこの本を書いたやつがかなりのバカなだけだろう。
とはいえ、オレとってはこの教会の者はほとんどがそのようなバカなのだけど。
「まあでも、今度眠れなかったら、またお前を借りるのもいいかもな」
オレは独りごちりながらも、本の確認を終えて、それをできるだけ優しく閉じる。
どうやら特に問題はなさそうだ。
オレはほっと胸をなでおろす。
一応は人気の歴史書だ。
本屋で買うならまだしも、教会の図書館にあるのは原本であったので、何かあれば大変だっただろう。
「大丈夫そうだな、ヨダレもついてなかったし。まずはさっさとこいつを返しちまうか」
元々特に行先は決めていなかったが、オレはまず図書館に向かうことにした。
図書館の後はどうしよう。
久々に街へ出てみるのもいいかもしれない。
いつものパン屋で腹を満たすのも悪くない。
オレは、一年中バゲット祭りのことしか考えていないパン屋の店主を思い出しながら、今回はどのように参加を断ろうかと思考を巡らせた。
あれこれと予定を立てながら、オレは教会裏の庭園を歩いていく。
この場所は関係者しか立ち入れない上に、明るい時間帯は修道士やシスターたちが忙しさにあまりここへ来ることはなかった。
草木や花々が咲き乱れる様は美しく、いつも心を癒してくれる。
この静かな時間こそオレには人生で最も幸せな時間だった。
ふと、庭園の端に建てられた時計塔が視界に映り込む。
特に時間を確認したかったわけじゃないのに、偶然にも視界に入ってしまったそれに、無性に気分が悪くなった。
「くそっ」
小さな怒りが口先からこぼれ、次第に鼓動が早くなる。
ぎゅっと目を閉じて、見ないようにする。
さっきからできるだけ考えないようにしていたのに!
わかっていた。
目が覚めた時点で日はもう高く、午前受けるべきだった授業はとっくに終わっていた、と。
今日も、昨日も、一昨日も、行かなかった。
そもそもオレは、そう、本で歴史を学んでたんだ。
サボってたとか、そういう訳じゃない。
別に悪いとこはしてないんだ。
大丈夫だ、大丈夫。
そうして毎日何かと理由をつけては自分を正当化し、逃げてきた。
こんなに嫌な思いをしているのに、オレはきっと明日からも同じことを繰り返してしまうのだろう。
それすらも、オレには何となくわかっていた。
「...はぁ、はぁ。落ち着け......。大丈夫だから、落ち着け...」
この程度のことで息苦しくなっていく自分自身が情けなくて、でも何とか落ち着こうと今日もそれらしい理由を並べる。
息苦しいことを理由に、体調が悪いことを理由に、授業になんて行けるわけがない、と。
こんなに激しい動悸、普通ではないのだから。
はっ、支離滅裂だな。
それでも何か考えていないと、今にも胸を渦巻く吐き気を我慢できなくなりそうで怖かった。
「おや!クレシアンくんではないか!ここにいたんだな」
「...っ!」
ぐるぐると回る思考がまだ纏まっていないのに、そんなことはお構いもせずに、妙に馴れ馴れしく誰かに名前を呼ばれる。
反射的にそちらに目を向けると、ちょうど会いたいと思っていたんだ、とズカズカとガタイのいい男がこちらに向かって歩いてくるところだった。
あまりにも響く男の大きなその声に、先程まで考えていたことを真っ二つにへし折られ、何だかんだと平常心を取り戻せたのは計らずもこの男のおかげか、と思う。
それはそれで、別の苛立ちが沸き上がるような気もするが。
まあ、とりあえず今はあまり責めないでおいてやろう。
「フォルテ?こんな時間に庭園に来るなんて珍しいな。オレは未来の教皇として忙しいんだ。世間話なら他のやつを当ってくれ。そうじゃないなら手短に頼む」
「ハッハッハッ!そうかそうか、精進しているようで何よりだな。大した用でもないんだが、母君が君を召喚するようにと言っていてね、時間が空いたら行ってやれ」
フォルテはまるで何も考えていないように、あっけからんとそれを告げた。
元々気分が落ち込んでいたのに、まさかさらに落としてくれるとは思っていなかった。
やはり前言撤回だ。
次会った時は、激渋の茶でも飲ませてやる。
「…わかった、すぐに顔を出す。それじゃあ」
「おう、あまり母君を待たせてやるなよ。ではまた後でな」
オレはフォルテの言葉を話半分に聞き、そそくさとその場を離れる。
後で、とはどう意味だろうか。
またちょっかいを出しに来るつもりなのであれば、それはごめん蒙りたい、と先を思いやられる。
はあ、もう逃げ出してしまいたい。
すごく面倒だ。
そもそも、母さんの話すことなど、この教会の事くらいしかないだろう。
それとも朝の授業のことだろうか。
考えただけで憂鬱だ。
オレにとっては説教など最早慣れたものだったが、それでもうんざりすることには違いなかった。
何となく自分の父親を思い出す。
父さんなら、オレを助けてくれたかもしれない。
『好きなことをしたらいい』
そんな風に、言ってくれたはずだ。
もう亡くなってしまったが、誰よりもオレを愛してくれていたように思う。
オレがいつか教会を出ていくことを話した時も、父さんだけはその考えを許容してくれていたのに。
だが今はどうだろう。
オレを助けてくれるものなど何一つないと感じる。
逃げることを許されず、教会の重圧に日々耐えるしか無い。
正直、もうオレのことなんて放っておいて欲しい。
神なんて、いないのだから。
*
オレの足取りは重く、もう何往復も執務室の前を行き来している。
結局図書館にも行けず、今日こそ一言物申してやろうと意気込んでそのまま母の執務室までやってきたが、直前で勇気がどこかへ逃げていってしまったらしい。
「入らないのですか?」
「うわ!お、お前誰だよ!急に後ろに現れるな!」
部屋に入ることを迷っていると、足音も立てずに少女が現れた。
蓮桜同盟の忍者じゃあるまいし、心臓に悪い登場の仕方はやめて欲しい。
というかあれ?
黒い髪に白い瞳の女なんて、今まで一度も見かけたことがない。
オレの庭とも呼べるこの教会に、まだ知らない奴がいたなんて驚いた。
それとも新しくシスターになる人だろうか。
オレと同じくらいの年齢に見えるし、ここへは来たばかりなのかもしれい。
その割には見た目に似合わず、随分と落ち着いて見えるけど。
「ごめんなさい。用がないなら先に失礼します」
「あ、おい!待て!」
簡単な謝罪が一言だけってのもムカつくが、もうオレを驚かせたことなんて忘れているんじゃないのか。
それとも、気にしていないのか。
本人がまだ許していないのに、そのまま流そうとするなんて、随分と呆れた奴だな。
それに、明らかにオレの方が先に来ていたのに、オレよりも先にノックするなんて!
「聖女様、ティエラです」
「いるわ。入ってちょうだい」
「はい、失礼します」
ティエラと言うらしいその少女は、オレをいないものとして考えているのか、堂々と扉を開けた。
やばい!このままじゃ見つかる!
どこかに隠れなければ!
扉の裏か?!
「あら、クレシアンもいたのね。あなたも入りなさい」
「あ、ああ」
遅かった...
というより、知らない奴を同席させてもいいものなのか。
いくら説教に慣れているとはいえ、他人の前でされるのは訳が違う。
図々しい自覚のあるオレでさえ、流石にそれは堪えるからやめて欲しい。
「えっと、さっきフォルテに会ったんだけど...」
オレは柔らかなソファに腰掛け、話を切り出した。
チラッと少女の方を見ると、断りもなくオレの向かい側に座っている。
オレは息子だからいいんだ。
でも一応は聖女の前なんだし、お前は許可を得てから座るべきなんじゃないだろうか。
やっぱり失礼な奴だ、と見破ったオレの目は間違いなかったらしい。
「そうね。今日はいつもと違う話があって呼んだの」
そう言って母さんも少女を一瞬見やる。
今日はどうやら説教はしないらしい。
良かった。
でも、それなら何の話だろうか。
あのティエラという少女を追い出さないあたり、聞かれてもいい話なんだろうけど。
というか、他人同席だなんて何か重要な話では?
いやいや、この少女とはたまたま居合わせただけだ。
関係のある話ではないのだろう。
「あなた、もうすぐ成人するでしょう?だから、そろそろ稽古だけではなく、実経験を積んでもらおうと考えているわ」
成人と聞いて一瞬でも誕生祝いの話かと思ったオレはバカだった。
来月には十五になる。
そう、成人だ。
でもこの母親は祝ってくれるどころか、オレに任せる仕事のことで頭がいっぱいになっているようだ。
「実経験?オレに下っ端神官みたいに見回り任務に出ろってことか?」
「下っ端?そういう言い方は良くないわね。彼らは敬虔に神を慕い、民の力になれるよう奮闘しているのよ」
「そういうのはいいから。で、オレもそういうことをしたらいいのかって訊いてる」
確かに、そろそろ仕事を始めないといけないかもしれない。
そういう年齢だ。
急な話だとも思ったが、全く変ではなかった。
むしろ、一ヶ月前に話すなんて、遅すぎるくらいだろう。
でも、そうだな。
正直、稽古に出なくてもいいならそれもいいかもしれない。
教皇なんて一日中執務室で惰眠を貪っているだけだし、剣術や魔法を勉強する意味が分からなかったんだ。
たまに懺悔する人の言葉を聞いては、自己判断で許しているだけだろう。
なのにオレはあれもやれ、これもやれって?
冗談じゃない。
これを機に国を回ったり、旅をしたりしてのんびり過ごそう。
あわよくばそのままここへは帰らず、どこか遠くで暮らすのもいい。
そうだな、海洋国家アルカネリアなんていいかもしれない。
魔獣の被害が少ないのはもちろん、気持ちのいい潮風と一年中続く爽やかな気候。
最高じゃないか。
パン屋を開いて、海の見える家を建てるんだ。
「…シアン、クレシアン!聞いているの?」
「あ、すまん。なんだっけ?」
「任務の話よ。後日顔合わせの機会を設けるから、自己紹介と、簡単な作戦でも話し合っておきなさい」
な、なんて言っていたのだろうか。
ちゃんと聞いていなかったオレも悪いが、こっちから聞き返す勇気は、もちろんない。
でも顔合わせがあるらしいから、恐らくは一緒に任務を受けるやつに会って、その時に聞いても遅くは無いだろう。
「わかった。じゃあまた使いを寄越してくれ。それで、今日はもう行っていいか?」
「ええ、構わないわよ。それから少し早いけど、お誕生日おめでとう」
「……ああ」
使いを寄越すことについて、否定もしない。
オレを直接呼びに来るなんて、当然するわけが無いのだろう。
祝いの言葉だって当日に言うことはない。
ここ数年ずっとそうだった。
どんなに忙しくても、それくらいはしてくれたっていいだろ、と数年前までは思っていた。
実の母親のはずなのに、会える時間がどんどん減っていってる気がする。
少ないその時間ですらも、最近は説教ばかりだ。
次また会えるのも、きっと初任務が終わってからになるのだろう。
早く片付けば、当日の内には会えるだろうか。
オレは相変わらず冷めた表情の母さんを見ては、ささやかな希望を打ち砕かれた気分になる。
そっと閉じる扉の隙間からは、少女に微笑む母親の姿が見えた気がした。




