覚醒
室内は、息も詰まるような沈黙に満たされていた。
その場にいる全員の目が、ただ一点に集中している。
「………」
全員の視線の先にいる実は、深くうつむいて動かない。
実が呪文を叫んだ後、彼の身を包む陽炎は消えた。
サリアムたちを派手に叩きつけた風も、その勢力を失くしている。
だが、それと引き換えに、この部屋の中には強力な魔力が張り詰めていた。
拓也以外に、実に何が起こったのかを知る者はいない。
故に、誰もが緊張と警戒に神経を尖らせて実を凝視していた。
そんな中―――実の指がピクリと動く。
静かに顔を上げて目を開いた実は確かに実ではあったが、先ほどまでの実とは明らかに何かが違っていた。
「―――……」
意識までもを刈り取るような凄みを宿した実の姿に、誰もが息を飲んで言葉を失う。
部屋の中央に佇む実は儚げで、どこか幻想的な雰囲気を醸していた。
「……とっ、捕らえろ!!」
他よりもいち早く我に返ったサリアムが、焦りを滲ませて叫ぶ。
しかし―――
「動くな!」
凛としてよく通る声が、部屋の空気を震わせた。
次の瞬間、皆の表情が変わる。
もちろんそれは、拓也も例外ではなかった。
―――体が動かないのだ。
実が一言命じた瞬間、体が石のように動かなくなってしまった。
他の人々も苦しげに顔を歪めていて、この部屋にいる全員の動きが封じられたのだと分かる。
実は短く叫んだあの一瞬で、この場にいる全員の自由を奪ってみせたのだ。
次いで、実は無言で腕を振り払った。
それと同時に、拓也の耳元で風が鳴る。
すると、拓也を縛っていた縄がばらばらと切れて落ちた。
「………」
立ち尽くす拓也に、実が歩み寄る。
その歩みは一歩一歩がしっかりしていて、ゆったりとした足取りは実の余裕を雄弁に物語っていた。
拓也の前に立った実は、一言も発せずに呆けている拓也の顔を不思議そうに覗き込んだ。
「どうしたの? 拓也と梨央は、もう動けるでしょ?」
「え……あ……」
実に言われたことでようやくそれに気付いて、拓也は自分の体を見下ろした。
確かに、動けるようになっている。
しかも、さっきまでほとんど感覚がなかった片腕も、いつの間にか正常な状態を取り戻していた。
「変なの。拓也なら、すぐに気付くはずなのに。」
小さな声と共に微笑んだ実は、今度は梨央に近寄った。
兵士に囲まれている梨央の腕を引っ張ると、よろけた梨央の体を優しく受け止める。
「大丈夫?」
「う、うん……」
「そっか。ならよかった。」
実は梨央に対しても笑みを向け、くるりと拓也に向き直った。
「さて、さっさと退散しようか。いつまでもここにいたくないし。」
「えっと……」
拓也は、すぐに答えられない。
なんとなく事態を察しているとはいえ、実の豹変ぶりに戸惑う自分がいる。
とはいえ、ここに長居するのがあまりよくないことも分かる。
実に同意しようと拓也が口を開きかけた時、再び空気の鳴る音がした。
「………っ」
実がわずかに顔を歪める。
それと同時に、彼の二の腕から小さく血飛沫が散った。
その一拍後、みるみるうちに制服が赤く染まっていく。
「―――っ!!」
梨央が声にならない悲鳴をあげる。
それに対して少しも動揺しない実と拓也は、無言で犯人を見やった。
動きを封じられた人間の中でただ一人、サリアムだけが肩で大きく息をしていた。
実に攻撃を放ったらしい右腕だけが、小刻みに震えている。
サリアムを静かに見ていた実の目が、すっと厳しく細められた。
「くっ…」
サリアムが苦悶の声をあげて地に倒れる。
「逆らわない方がいい。そう言ったのは、あんたでしょ?」
明らかな嘲笑をたたえ、実はサリアムを見下ろした。
「………っ。なん、で…っ」
「なんでぇー?」
言葉の語尾を大袈裟に上げる実。
今さらそんなことを訊くのか、とでも言いたそうな口調だ。
「父さんがなんの細工もしてないって、本気で思ってたわけ?」
心底不思議そうな実の言葉。
それだけで全てを悟ったらしく、一度目を見開いたサリアムは疲れたように息を吐いた。
「あのエリオスのことだものな……」
「そういうこと。ついでにさ、一つ訊いていい?」
「なんだ。」
「父さんはどこ? 探る限り、この城にはいないんだけど。」
「ああ、そのことか……」
この場は観念するしかないと悟ったか。
サリアムは静かに目を閉じる。
「エリオスなら、一年前から行方不明だ。君の存在が国の知るところになって、その場で姿を消した。捜索中だが、見つかるどころか手がかりすらないのが現状だ。」
サリアムの返答に、実は驚かなかった。
「そう…。父さんが自分の意志で姿を消したなら、あんたたちに父さんを見つけることは不可能だろうね。分かった。それだけ聞ければ十分だよ。」
「待って!!」
踵を返した実を、別の声が引き留めたのはその時。
実の動きが止まる。
その表情に、サリアムと話していた時にはなかった動揺が走った。
実の背中に向けて、セリシアは涙声で叫ぶ。
「どうして? また……また、行ってしまうの? どうしてあの時、私から全てを奪って、勝手に行ってしまったの!? 私は……ずっと一緒にいたかったのに…っ。どうして拒絶するの? あの時も、今も! 私がどんなに呼んでも、あなたは応えてくれなかった。もう……もう、戻れないの!?」
セリシアの渾身の叫びに、実がもう一度後ろを振り返る。
その刹那に、拓也は見ていた。
徹底した無表情をたたえるその前に、実が深い悲しみの表情を浮かべていたのを。
その理由は言わずもがな。
実の心境を察して、拓也は切なげに目を閉じた。
実の視線は、セリシアだけに注がれている。
「あなたは……俺のことを思い出さなかった方が幸せだったよね。俺はあの時、この世界を捨てることを選んだ。でも、あなたはここに残ることを選んだ。その時に、俺たちの道は分かたれてしまったんだよ。―――――母さん。」
絞り出すように。
実は、セリシアを昔のように呼んだ。
そう。
この人は他でもない、自分の生みの母親。
遠い昔に別れを決意し、その記憶から自分のことを消して離れたはずの人。
こうして再会することはもうないだろうと、己の記憶からもその存在をそっと隠した人だ。
「知っていたのか……」
サリアムが意外そうに呟く。
「まあね。覚えてるし。というより、今さっき思い出したばかりだけど。」
実が微かに笑って腕を振るう。
その軌跡に沿って光の筋ができあがり、それが実たちの周囲を包み出した。
「嫌…」
セリシアの頬を、次々と涙が伝っていく。
「嫌よ!! もう行かないで! お願いだから、傍にいて!!」
その悲痛な訴えに、実の眉が微かに寄った。
だが実はセリシアを顧みず、彼女を振り切るように目をきつく閉じる。
その意志に応えるように部屋の中を吹き抜けた強い風にと共に、そこから実たちの姿が消える。
「嫌あああぁぁーっ!!」
実たちが消えた室内に、セリシアの慟哭が響いた。




