踏み出す一歩
「あれ? 消えた…?」
階段の陰から顔を覗かせていた実は、目をしばたたかせた。
ろくに眠ることもできずに早く登校したら、昇降口に入りかけたところで、拓也とサリアムの話し声が耳朶を打った。
思わずその場で足を止めて、聞き耳を立てた。
そして、二人が移動し始めたのを見計らって昇降口に駆け込み、なるべく気配を殺しながら彼らの後を追って、ずっと二人の様子を見ていた。
そしたら、二人は消えてしまったのだ。
あるはずもない、壁の先へ―――
実は拓也たちの後を追いかけようとして、出しかけた足を止めた。
今自分があそこに行っても、足手まといになるだけだ。
すぐにそのことに思い至る。
ぐっと拳を握り締め、実は階段を右に曲がった。
教室に向かって自分の席に座り、回らない頭で色々と考えながら一人で過ごす。
「みーのるっ」
どれくらい経った頃だろう。
登校してきた梨央が目の前に立った。
「あ、梨央…。おはよう。」
いつもそうするように、気だるげに挨拶をする。
「おはよう。珍しいね、実が一人なの。最近はずっと村田と一緒にいるのに。村田は?」
「まだ来てないよ。もうしばらく……来ないんじゃないかな。」
「ふーん、そう。ねえ実、聞いて聞いて! 昨日さぁ……」
梨央が、他愛もない話を嬉々としながらしてくる。
実はそれを、浮かない気持ちで聞いていた。
これまでと同じ、平凡だけど平和な世界。
ここ最近の自分が、取り戻したくて仕方なかったものだ。
それが目の前に広がっているのに、嬉しいともなんとも思わないのは何故だろう。
拓也もいないし、少しくらい日常に逃げて息抜きしてもいいはずだ。
だけど、気分は一向に晴れない。
壁の向こうに消えていった拓也の姿が、どうしても頭から離れないのだ。
本当に、自分はこんな所にいていいのか。
そんな気さえしてくる。
実は、物憂げに溜め息をついた。
拓也と共にいたサリアム。
彼の存在が、自分の行動に制限をかけていた。
さすがに、昨日の今日でサリアムに会いたくない。
まだなんの結論も出していないのに、サリアムを前にするなんて無理だ。
次に彼と顔を見合わせれば、当然のように昨日の答えを求められるだろう。
それが分かるから、こうして身動きが取れないのだ。
「実!!」
急に、高めの澄んだ声が鼓膜を叩く。
それに驚いてまばたきを繰り返していると、机に腕と顎を乗せた梨央が、こちらを上目遣いで見つめていた。
実が梨央と目を合わせると、途端にその頬が機嫌を損ねたように膨らむ。
「もう、さっきから暗い顔して…。私の話、全然聞いてないでしょ?」
「いや、そんなことは……」
「じゃあ今、私が何を話してたか分かる?」
「………ごめん。」
「やっぱりね。」
梨央は息をつくと、次に首を傾げた。
「どうしたの? 顔色悪いよ。体調悪い? それとも悩み事?」
「いや、大したことじゃないよ。」
実は曖昧な笑顔で首を振る。
言えるわけがないじゃないか。
こんな話をしたところで、梨央が信じるとも思えないし。
自分だって、嫌というほど現実を見せられるまでは、こんなことを信じるつもりなどなかったのだ。
信じろという方が無理な話なのは、誰よりも分かっているつもり。
それに、下手にこのことを話してしまって、梨央や周りの友人をこんな世界に巻き込みたくはなかった。
「本当?」
「本当だって。本当に大丈夫……―――っ!?」
「きゃっ…」
言葉の途中でいきなり立ち上がった実に、梨央が瞠目する。
「実? どうしたの?」
梨央が声をかけるが、その声は実に届いていなかった。
実は虚空を見上げたまま、その場に立ち尽くしている。
何が起こったのだろう。
何故かは分からないけど、ひどく不吉な予感がする。
心臓が暴れ出して、息が上がる。
肺は必死に空気を取り入れているのに、呼吸をしている心地が全くしない。
聴覚いっぱいに響く、鼓動と呼吸の音。
それにつられてか、首筋が粟立って背中に冷や汗が伝う。
無意識に、シャツの胸元をぐしゃぐしゃに握っていた。
体中が危険を訴えている。
嫌な予感が頭を揺さぶる。
考えうる限り、今一番危険なのは―――
思い至った瞬間、無意識に走り出していた。
「ちょ……ちょっと、実!?」
梨央の声を遠くに聞いたような気がしたが、それどころではなかった。
実は廊下に飛び出し、一直線に廊下を駆け抜ける。
あっという間に拓也たちが消えた行き止まりまで来て、実はようやく足を止めた。
それに遅れること数秒、実を追いかけてきた梨央がやってくる。
「み、実……どうしたのよ。ものすごいスピード……」
実は梨央に答えない。
というより、この時の実には周囲の音が全く聞こえていなかった。
「………」
実はじっと壁を睨む。
見える。
壁に重なる形で、引き戸がある。
きっと、拓也たちはこの中にいるのだろう。
実は深い呼吸を一つ。
この扉をくぐれば、かつての日常は絶対に取り戻せない。
もしかしたら、この先に待ち受けているのは最悪のシナリオなのかもしれない。
けれど……
そっと、引き戸に手をかける。
―――なんとなく分かる。
どんなに拒絶したくとも……自分はきっと、意味の分からないあの世界と嫌でも向き合わなければならないのだ。
そんな確信を抱きながら、実はゆっくりと扉を開けた。
「実、何してるの…?」
梨央が不審がって訊ねる。
無理もない。
引き戸が見えていない梨央からすれば、実の行動は確かに怪しいだろう。
「………」
実は顔をしかめた。
開いた扉の先は真っ暗だった。
暗闇が広がっているのかと思ったら違った。
闇の表面で、何かがざわざわと蠢いている。
一瞬躊躇いつつも、それに触れてみる。
すると、そこから黒い触手のようなものが伸びて、手に絡んできた。
反射的に手を引くと、触手は蜘蛛の糸みたいにあっさりと切れる。
どうやら、自分に危害を加えるものではないようだ。
実は、目を閉じて覚悟を決める。
次に目を開き、ぐっと眉間に力を込める。
そして、蠢く闇の中へ手首まで差し込んだ。
「―――っ!!」
そこから全身に駆け抜けていく悪寒。
とっさに逃げたくなる衝動をなんとか抑え、闇の中へ足を踏み出す。
そんな実の腕に、突然の行動に驚愕した梨央が抱きついた。
「実!? そこ、壁だって……って、なんで実消えてくの!? きゃあっ!?」
壁は、何事もなかったかのように二人を飲み込んだ。




