恐れていた来訪者
<第5章 迷い>
机に杖をついていた腕から頭が落ちて、実は唐突に目を覚ました。
「……え?」
実はパチパチと目をしばたたかせる。
家に帰ってきてから、今後自分はどうすればいいのかと、回らない頭で必死に考えていたのは覚えている。
だがどんなに考えてもいい案は浮かばず、途方に暮れる始末。
そのまま頬杖をつきながらぼんやりしているうちに、どうやら眠ってしまっていたらしい。
今は何時だろうかと思って携帯電話に手を伸ばしかけた時、実は自分の体の異変に気がついた。
「あれ…?」
手がずっしりと重かった。
それどころか、全身が鉛のように重い。
相当疲れているのか、ちょっとでも動こうとするだけで気力まで削がれてしまう。
(なんで…?)
考えるも、ここまで疲れるようなことをした覚えはない。
ぐるぐると思考を巡らせていて、新たな異変に気付く。
(俺……寝てたのに、あの夢を見なかった。)
眠れば必ず、自分を捕らえようとする手が現れる夢を見た。
しかし、さっきはその夢を見なかったのだ。
自分が一度手を撃退してからというもの、夢を忘れるということはない。
夢を見なかったと思うのなら、確かに夢を見ていないのだろう。
なら、どうして……
サリアムが学校に潜入していることから、向こうが自分のことを諦めたわけではないのは確か。
それならば単純に、夢を見せる必要がなくなったということだろうか。
(見せる必要が……なくなった…?)
思い至って、背筋がぞっとした。
考えてみればそうだ。
サリアムが自分の居場所を突き止めた今となっては、もう夢を介して自分を引き寄せようとしなくてもいいのだ。
捕らえようと思えば、簡単に捕らえられるのだから。
(怖い……)
実は思わず、己の体を抱き締めた。
敵の手が、もう自分の喉元にまで迫っている。
それが、どうしようもなく怖かった。
こうしてどうすればいいのかと悩んでいる間にも、自分の身は確実に危険な状況へと追い詰められていく。
今さらになって、ようやく身に沁みる危機感。
それに苛まれて自分の肩を強く掻き抱いていると、自分の背中をふいに何かがなでた気がした。
「―――っ!!」
全身を貫いた悪寒に、無意識のうちに勢いよく椅子から立ち上がっていた。
思わず、うなじに手を当てる。
もちろんそこには何もなかったが、首筋がピリピリと痛みを訴えているように感じた。
背筋が粟立ち、全身が緊張して強張る。
―――誰かに見られている。
背中に痛いほど感じられる何かに、直感的にそう思った。
怖かったけど、腹をくくって背後を振り返ってみる。
「………」
誰かがいるかもしれないと思っていたのだが、予想に反して部屋の中には誰の姿も見受けられなかった。
―――いや、ただ見えないだけだ。
心の奥がそう告げる。
とにかく、このままここにいてはいけない。
そう思って、実は部屋を見回しながらドアに向かった。
ドアの前で振り返って、もう一度部屋を見渡す。
そうやって周囲に意識を注意させたまま、後ろ手に扉を押し開けた。
しかし……
―――バンッ
突然、今しがた開けたはずのドアが勢いよく閉まった。
その直後、鍵の閉まる音が耳を打つ。
「えっ……嘘!?」
慌ててドアノブを見たが、鍵は閉まっていない。
それなのに、どれだけドアノブを上げ下げしても、ドアを押したり引いたりしても、ドアはびくともしなかった。
「―――っ!!」
唐突に全身を硬直させる実。
そんな実の背中に―――
「君は、随分と勘がいいね。」
聞くのを最も恐れていた声が投げかけられた。
振り向くと、先ほどまでは無人だったはずのベッドに腰かける若い男性の姿が一つ。
「まさか、部屋に入る前に勘付かれるとは思わなかったよ。さすが、あの方が認めるだけはある。」
赤い双眸が妖しく揺らめいて、自分の目を捉える。
それだけで、全身がすくみそうになった。
だが……
「………?」
ふとあることに気付き、実は怯える表情を一転させた。
「……首、大丈夫なの…?」
思わず訊ねる。
微笑んでこちらを見やるサリアムは、首に傷を負っていたのだ。
傷口から流れる血が、ワイシャツの襟を赤黒い色に染めている。
ホラー映画を彷彿とさせる彼の姿に対する驚きが、瞬間的に恐怖を上回ってしまった。
実の言葉が意外だったのか、サリアムは目を丸くして実を凝視した。
「君、面白い反応をするね。変わってるって言われない? 思いっきり拒絶されると思ってたんだけど。……ふふふっ…」
「なっ……なんだよ! 血が出てりゃ、そっちの方が心配になるだろ、普通!」
笑われる意味が分からず、実はとっさに言い返していた。
目の前に現れた人間が血を流していたら、それがどんな人間であれ驚くし、気にかかるのは当然だ。
「なるほど。今ので、君がどんな子なのかは分かったよ。」
何がそんなにおかしいのか、くすくすと笑いながらサリアムは首に手をかざした。
そこから淡い光が零れ、首の傷とワイシャツの血がみるみるうちに消えていく。
「これでいいかな?」
こちらの機嫌でも窺うかのようなサリアムの笑顔に、実は複雑そうに唇を引き結ぶしかなかった。
「おや、驚かないんだね。」
「正直、もう慣れたよ。だからこそ、なんか複雑。」
これらの非日常的な現象にいちいち驚いていても馬鹿らしいので、意味は深く考えずに受け流すことにはしていた。
だけど、意識してもいないのにこれらの現象に対して少しも驚きを感じなくなっている自分には、やはり複雑な感情を抱かざるを得ない。
まさか、自分がこんな非日常的な現象に慣れてしまう日が来ようとは。
渋い顔で口をへの字に曲げている実に、サリアムは面白そうに笑みを深めた。
「さすがはエリオスの息子君だ。いや……もう、そんな回りくどい呼び方はやめにしようか。実君?」
「―――っ!!」
〝エリオスの息子〟
サリアムのその言葉が、すっかり抜け落ちていた緊張と危機感を思い出させた。
朝に暗示にかけられそうになった時のことが脳裏によみがえって、心の中でサリアムに対する恐怖が鎌首をもたげる。
「そんなに怯えないで。君に危害を加えるつもりは毛頭もない。少し、話がしたいんだ。」
「話…?」
実が警戒したまま問うと、サリアムはゆるりと頷いた。
自分を刺激しないようになのか、彼がベッドから立ち上がる気配はない。
その表情にも自身の意見を強制させるような色はなく、ただこちらの様子を窺っているだけという感じだった。
本人の言うとおり、こちらに危害を加える気はないのかもしれない。
だけど、やっぱり……
「別に、無理して歩み寄らなくてもいいよ。私が勝手に話すだけだから。」
こちらの警戒は想定済みだったようで、サリアムは気分を害した風でもなくそう言う。
そして宣言どおり、彼はこちらの了解を得ないまま口を開き始めてしまった。




