残された時間は……
<第4章 交戦>
「こらあああっ! 拓也ぁ!」
部屋のドアが乱暴に開く。
その音に体をびくんと震わせた実と、それとは対照的に本に目を落としたまま動じない拓也。
尚希は二人―――主に拓也を睨んで、息を切らせている。
片手には、仕事用と思われる鞄。
もう片手には、大量の書類の束が入った紙袋。
当たり前だが、仕事がかなり忙しかったと見える。
そんな考えを肯定するように、尚希は拓也に不平不満をぶちまけ始める。
「急に電話してきたと思ったら、何なんだよ! とにかく、今すぐ帰ってこいって。おかげで、こんなに仕事を持って帰ってくるはめになっただろうが!」
「仕方ないだろ。緊急事態だ。」
拓也はそう言って本を閉じる。
そして、落ち着いた目を厳しく細め、尚希を真正面から見据えた。
「奴らが動き出したぞ。」
その言葉を聞いた瞬間、尚希の表情から怒りが急速に引いていった。
「ああ……なるほどな。」
納得の表情をする尚希は荷物を扉の側に置き、拓也の近くへ腰を下ろす。
「で? どんな奴?」
彼の口から零れたのは、拓也と似たような険を帯びた真剣な声。
「こっちでは、高嶺優って名乗ってたな。年格好は、尚希と同じくらいに見えた。ま、実際の素性は分からないけど。」
「それだけか?」
「普通に得られる情報はこれくらいだ。ただ、実が面白いものを見てたよ。」
「面白いもの?」
尚希の問いに頷いた拓也は、無言で彼を手で招いた。
それに答えてさらに近付いてきた尚希の額に、拓也は手を添える。
拓也の意図を理解して目を閉じる尚希。
そんな二人の間に、拓也の手を介して不可視の力が働いているのを感じた。
しばらくして、尚希が驚いたように目を見開く。
「うわー…。こいつまで駆り出されてんのかよ。」
心底不快そうに尚希が嘆く。
どうやら、尚希は高嶺という人物のことを知っているらしい。
「知ってるのか?」
拓也が訊ねると、尚希は大きな溜め息をついた。
「知ってるも何も……オレと同期の奴だよ。本名はサリアム・レイド。オレとは真逆で、国にかなり心酔している神の厚い信奉者だ。確かその従順さを買われて、四大芯柱の〝ティートゥリー〟に、エリオス様に並ぶ異例の早さで推薦されたらしい。初めて会った時からどうも反りが合わなくて、喧嘩腰で話してばかりだったな。」
「サリアムって……」
拓也の表情が変わる。
彼の本名を聞いて、拓也にも思い当たる節があったようだ。
「暗示の力が群を抜くっていう、あのサリアムか?」
「そうそう。お前は名前くらいしか知らないよな。あいつは昔から城に入り浸ってばかりで、ほとんど知恵の園にいなかったから。」
「そういうことか…。くそ、何度か会ってれば、顔とにおいを覚えてたのに。」
サリアムの正体を見抜けなかったことが、未だに悔しいらしい。
尚希の話を聞きながら、拓也はしかめっ面で爪を噛んでいる。
「大方、実を見つけたら暗示をかけて連れ帰るつもりだったんだろうな。……で? なんで、サリアムの存在にすぐ気付いたんだ? あいつは、何に関しても細心の注意を払う人間だ。言っちゃ悪いが、あいつが学校に紛れ込んでても、お前たちには気付けないと思うけど?」
断定的な尚希の口調から、サリアムの実力がいかに高いかが分かる。
「………っ」
実は思わず、膝に置いた手を握り締めた。
―――赤に星を散らしたような、不思議な光彩の瞳。
それが、サリアムと対面した時に自分が得た重要な情報だった。
拓也はこちらの記憶の一部を覗き、これは危険だと判断して早急に尚希を呼んだのだ。
「いや、結構大胆だったぞ。サリアムに会うまでは気付かなかったけど、中学校全体に暗示の術を張り巡らせてた。多分、自分の存在を生徒や教師に刷り込むためだろうな。ただ、アズバドルの人間にはこの暗示が効かないように細工をしてあったらしい。現に、おれと実には効いてなかったから。」
「炙り出し、か。」
「そう見て間違いないと思う。」
尚希の呟きに、拓也が同意の頷きを返す。
「暗示が効いていない上にこの容姿じゃ、一発でエリオス様の子供だって分かるよな。おれの前で実に暗示をかけようとしてたから、慌てて邪魔したけど。」
拓也の言葉を聞きながら、実は思い出す。
あの目に見つめられた瞬間、霞がかかったようにぼやけた視界と意識。
何もかもがどうでもよくなってくるような、不思議な浮遊感。
あれが、暗示にかけられる感覚なのだろうか。
ギリギリで拓也に助けてもらえて事なきを得たけど、あの時に拓也がいなかったら、今頃自分はどうなっていたのだろう。
想像するだけで、ぞっと背筋が震えた。
「あいつらしくないな。そんな大胆なことをすれば、警戒されて当然なのに……」
不可解そうに告げた尚希は、腕を組んで難しげに唸る。
「まあ、ここらの学校をしらみ潰しにしていくつもりだったんだろうし、仕方ないといえば仕方ないけど。でも、拓也が傍にいたのに術を使おうとしたことが引っ掛かるな。邪魔する人間がいるって分かってて、無茶な接触を図ったということは―――」
その表情が、苦々しく歪む。
「奴ら、短期決戦といくつもりか。」
「やっぱり、そういう結論に至るよな。」
拓也も、尚希と同じように眉を寄せた。
二人とも、深刻な事態に直面したかのように表情が固い。
しかし、そんな二人の会話も自分にとっては雲を掴むかのような話。
ただ、分かるのは……
「もう、時間がないってこと…?」
怯えたように震える実の声。
それに、拓也と尚希はハッと目を見開く。
実が声をかけたことで、この空間に実もいたのだということを思い出したような反応だった。
二人とも実に目を向けて顔色を失い、続いて気まずそうに目を逸らす。
「悪い、実。すっかりいるのを忘れてた。」
「それはいいんだけど……」
実は、拓也をじっと見つめる。
不安げに揺れるその薄茶色の瞳に、話をはぐらかすことはできないと判断したのだろう。
拓也は渋々という感じで口を開いた。
「まあ……そういうことになる。」
半ば予想していたとはいえ、拓也の断定的な言葉は胸を深く抉った。
返す言葉もなく、実は視線を下げる。
今日初めて敵に会ったばかりだというのに、もう時間がない状況だなんて。
自分には分からない。
あんな力を持つ人間に、どうすれば太刀打ちできるかなんて。
(どうしよう……)
膝に置かれた手が、微かに震え出す。
彼に捕まってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。
できることならば、どこかに逃げ出してしまいたい。
けれど、これだけは分かる。
自分がどんなに厳戒態勢の場所に逃げ込んだとしても、きっと彼は、簡単に自分の元へ辿り着いてしまうのだろう。
そして、何もできずに怯える自分を見下ろして笑うのだ。
確信じみた予感に、心の中で恐怖が爆発する。
「実!」
「―――っ!!」
ふいに両肩を掴まれて、実は大きく体を震わせた。
見上げた先では、拓也が痛々しげな顔をしてこちらを見ている。
「実、大丈夫だ。なんとかするから。」
真正面からこちらをじっと見つめて、断言口調で言う拓也。
それに、実は思わず顔を歪めた。
拓也が自分を気遣ってくれているのは分かる。
自分の恐怖を少しでも和らげようと、肩を掴む両手と語りかけてくる声にはとても強い力がこもっていた。
でもやっぱり、胸の奥から滾々と湧き出してくる恐怖は収まる気配などなくて―――
「……ごめん。」
なんとか絞り出した声は、とても弱々しかった。




