膨れ上がる苛立ち
階段の踊り場に差し掛かった所で、拓也は一度足を止めた。
「大丈夫か?」
気遣わしげに実の顔を覗き込む拓也。
しかし、実は放心状態といった様子で、ここではないどこかを見つめるばかり。
「実、しっかりしろ!」
「………」
拓也が肩を揺さぶってくる。
その振動をどこか遠い世界の出来事のように感じながら、実は理性が働かない頭で必死に思い出していた。
彼の姿。
彼の声。
彼から感じた異常な力。
「………あの人だ。」
思い至ってしまった。
彼の正体に。
茫然と呟いた瞬間、今さらながらに恐怖が全身を襲ってきた。
勢いよく血の気が引く感覚がして、指先がにわかに震え出す。
「夜の声……あの人だよ。」
恐ろしかった。
まさか、こんなに早く敵と対面することになろうとは。
覚悟を決めておかないといけないとは思っていたが、あまりにも展開が早すぎる。
「どうしよう……」
実は自分の肩を抱く。
あの目に捕らわれた瞬間、思い知った。
―――敵うはずがない、と。
格が違う。
なんの力も持たない普通の人間である自分が、あんなに強い力を発していた人間相手に何ができるというのか。
「迂闊だったな…。くそっ、こんなに強い魔力が満ちてたっていうのに…っ」
隣で拓也が毒づく。
実はそれを横目に見ながら、恐怖に慄く心と体を落ち着けようと、必死に思考の海に浸かりこんだ。
――――どうして?
浮かんだのは、そんな疑問。
その疑問は、瞬く間に自分の全てを埋め尽くしていく。
どうして、こんな目に遭わなければならないのだろう。
自分はただ、平和に過ごしていただけなのに。
贅沢でもなんでもない、普通の毎日をただ繰り返すだけで十分だった。
なのにどうして、そんな普通の生活をこんなにも理不尽に壊されなくてはいけないのだろう。
そもそも、自分が狙われる理由は?
自分は何もしていないし、特別な何かがあるわけでもない。
それなのに……
滾々とあふれる恐怖が、やりどころのない怒りへと変わっていく。
「実。」
ふいに拓也が声をかけてきたので、実は何も言わないまま目だけを拓也に向けた。
拓也はこちらが話せるほど落ち着いていないと判断したのか、こちらの態度に不快感を示すことはなかった。
「今日はおれの家に行こう。尚希も含めて話がしたい。」
(ああ……)
実は答えない。
「実?」
頷きの一つも示さない実に、拓也が首を傾げる。
(どいつもこいつも俺の日常をぶっ壊して―――――ムカつく。)
「……分かった。」
実は目を閉じて小さく答えた。
そして―――
「少し、一人にしてもらえる?」
そう続ける。
「……分かった。とりあえず、安全のために結界を張っておく。できるだけ、早く戻ってこいよ。」
拓也は深入りすることなく頷き、一足早く教室の扉をくぐっていった。
実はそれを確認して、脱力して息を吐き出した。
肺が空になって新しい空気を求めて喘ぐまで、深く、深く。
頭が不信感でおかしくなりそうだ。
追い詰められた気持ちが、緊張と警戒心ばかりを鋭利にさせる。
考えれば考えるほどに、周りの全てが自分に害をなす敵に思えてきてしまう。
(俺は、どうすればいいんだろう……)
苛立ちが脳裏を染める。
こんな風に不信感を募らせたって、今の状況が変わるわけじゃない。
事態は悪い方向に転んでいくのに、自分はそれに歯向かうことも、状況を好転させることもできやしない。
「くそ!」
思わず、固いコンクリートの壁を叩く。
拳の痛みと腕を伝う痺れ。
それは、ささくれた心をさらにささくれさせることしかしなかった。
「あっ……つ……」
急に頭が痛んで、実は額を押さえる。
まただ。
夜中のように、胸がざわめく。
封印を解け、と。
何かが激しく訴えてくる。
「―――っ、もうっ……」
〝もう嫌だ〟
そんな本音が零れかける。
とにかく、今までの生活に戻りたい。
学校や塾に行って、梨央や晴人と他愛もない話をして笑って、やたらとべたべたしてくる詩織を適当にあしらって、穏やかに眠ってまた朝を迎える。
そんな、普通の生活に。
封印を解けという己の中からの訴えに応えれば、もしかしたら元の生活に戻れるのだろうか。
でも……
―――封印を解けって、一体なんの?
<第3章 錯綜>END 次章へ続く…




