不穏な呟き
入院棟の五階。
ほとんどが個人部屋というこのフロアに、彼女の病室はあった。
〈連城久美子〉
名前が書かれたプレートを見ながら、拓也は久美子の車椅子を押して病室に入った。
彼女は重い病気を患い、随分と長い間この病院に入院しているのだそうだ。
あの中庭には、体調がいい時にはほぼ毎日足を運んでいるらしい。
「どうぞ、座ってちょうだい。」
部屋に入ると、久美子は拓也にベッド脇の椅子を勧めた。
それに従って椅子に腰かけると、久美子が満足そうに笑みを深める。
彼女は器用に車椅子を操って移動し、ベッドに取りつけられたテーブルの上にある急須を取って、中に茶葉を入れた。
「……あの、手伝いましょうか?」
「いいのよ、これくらい。私にやらせてちょうだい。招いたお客様にやらせるわけにはいかないわ。上着を脱いで、楽にしていてね。」
拓也の申し出は、やんわりと断られてしまう。
それに対し、拓也は愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。
いくら招かれた側とはいえ、やはり病人に何かをさせるのは申し訳ない。
だが彼女の様子を窺う限り、無理に手伝おうとしたところでさらっとかわされてしまうのだろう。
拓也は久美子にばれないようにひっそりと息をつき、上着を脱いで膝にかけた。
大人しく久美子を待つことにするも、その時間がすぐに気まずくてなってしまい、拓也は落ち着かない仕草で病室を見回す。
こざっぱりした内装だ。
しかし、そんな内装とは裏腹に、この病室の設備は充実しているように見えた。
ベッドの他に、テレビや埋め込み式のクローゼット。
窓際には、リクライニング式の長椅子まで用意されている。
長期で入院していると聞いたが、その最中でどんどん物が増えていったのかもしれない。
引き出しの上には花瓶や小物などが置かれ、無機質な病室には生活感が漂っていた。
染みついた癖で、拓也はすんと鼻を鳴らす。
ここには、生活の香りが濃く染みついている。
それが、彼女の入院生活がいかに長いかを物語っていた。
そんなことをしているうちに時間は流れてくれたようで、茶托に乗った花柄の小さな湯呑みが差し出された。
「どうぞ。」
久美子は微笑む。
「ありがとうございます。」
ひとまずは礼を言い、それを受け取る。
柔らかく立ち上る湯気と緑茶のいい香りが鼻腔をかすめる。
自然と、心が和んだ。
「ごめんなさいね。急に、お話ししましょうなんて言って。困ったでしょう?」
申し訳なさそうに眉を下げた久美子は、気遣わしげに拓也を見つめた。
「いえ、そんなことないです。おれも暇だったんで。」
完全に社交辞令だったが、こちらの返答に久美子はほっとしたように息をついた。
その後、久美子がお茶を飲んだので、自分も一緒にお茶を飲むことにする。
一口含んだお茶は、誰にでも飲みやすいように調整されていた。
渋さが抑えられたそれは口当たりも滑らかで、温度は熱すぎもぬるすぎもしない。
「美味しい……」
とっさに出た感想は、嘘でもお世辞でもなかった。
日本で暮らしてから初めて緑茶という飲み物に出会った自分だが、これは今まで飲んできた緑茶より何倍も美味しかった。
鼻に抜けていく香りだって、こんなに優しいと感じたことはない。
(緑茶って、こんな飲み物だったっけ?)
そんな風に疑ってしまった。
未知との遭遇に拓也が目を瞠っていると、久美子は自慢げに笑った。
「私の特技なのよ。ここではできることも限られてるから、こうやってお茶ばかり淹れていたの。最初は私が飲みたくて淹れていたのだけど、そのうちだんだんとこだわりが出ちゃって。親戚にお茶の淹れ方の本を買ってきてもらって勉強したのよ。今じゃ、病院に売っているお茶ならみんな美味しく淹れられる自信があるわ。」
「そうなんですか…。本当に美味しいです。」
拓也が表情を和らげると、久美子はまた幸せそうに笑う。
その後はしばらく、久美子と他愛もない話をした。
お互いのことだったり、時事問題についてだったり、話題は多岐に亘った。
控えめでもさすがは女性。
話題の数には事欠かない。
久美子は会話の端々からどんどん話を発展、転換していった。
話の最中、何度急須にお湯を注いでいたことか。
「連城さーん、検診の時間ですよ……って、あれ?」
引き戸をノックして入ってきた若い看護師が、拓也を見て首を捻る。
それが、時間を意識するきっかけだった。
「あら、いけない。もうそんな時間?」
「えっ、うそ……」
外を見ると、日がもう落ちかけている。
拓也と久美子は、揃って互いの顔を見合わせた。
そんなに話し込んでいた気はしないのだが、時間はかなり過ぎていたらしい。
「連城さん? そちらは……」
看護師は拓也を示して、久美子に問いかける。
そんな彼女の様子に、拓也はふと違和感を覚えた。
病室に入ってきた時にはあんなに柔らかな雰囲気をまとっていたのに、自分を見たことでそれが急激に引いていってしまったようだ。
笑顔は引きつり、声は硬い。
今の彼女を取り巻くのは、妙に張り詰めた緊張感。
しかし、そんな雰囲気を全く感じていないらしい久美子は、無邪気な笑みをたたえるだけだった。
「彼は、拓也君っていうの。この間中庭で会ってね、ちょっと話し相手になってもらってたのよ。」
それを聞いた彼女の顔から、ざっと血の気が引いた。
「……た………すか。」
彼女が小さく、低い呟きを漏らす。
拓也は眉をひそめた。
久美子には聞こえていないようだが、彼女は間違いなくこう言ったのだ。
―――――またですか、と。




