二つの氷は、一つの水へ―――
自分でも、今の自分がどちらなのか分からない。
それを聞いた桜理が固まる。
そこから、空気すらも時を止めたような時間がしばらく続いた。
彼女が彼女なりに必死に話を理解しようとしているのが、その目から見て取れる。
自身でもおかしなことを言っていると思うのだから、無理もない反応だ。
実は桜理の返答を待つことなく、話を再開する。
「俺たちは、全てが正反対だった。子供の俺は孤独でいるのが一番大事で、今の俺は人の輪の中にいることが大好きだった。子供の俺は人間が大嫌いで、人間を殺すことにだって抵抗はなかったけど、今の俺はそんなことをしたくなかった。お互いがお互いに絶対的な否定を抱いていて、何も交わらない。……だけど、実際には違った。お互いに……いや、今の俺だけが一方的にそう思っていただけだったのかもしれない。」
「思っていただけ?」
眉を寄せた桜理に、実は一つ頷く。
「子供の俺は、桜理と過ごすことで他人に心を許す安らぎを知った。だから、今の俺が持つみんなを信じたいという気持ちを否定できなかった。そして今の俺は、自分の運命に誰かを巻き込むことが怖かった。だから、子供の俺が孤独を望むことを否定できなかった。例を挙げたら他にも出てくるけど、数はともかく、お互いに否定できないことがあったんだ。その時点で……俺たちは多分、完全に正反対とは言えない。」
実は淡々と語る。
「さらに極めつけが、桜理のこと。子供の俺が自分を追い詰めていく様を一番近くで感じていた今の俺は……子供の俺に同情した。桜理が誰かは分からなくても、今の俺もずっと、写真の桜理に罪悪感を持っていたから。程度に差はあっても、桜理を想う気持ちは同じだったから。だから同情して、気持ちが重なって、それで一緒に潰れていった。桜理に関してだけは、俺たちの気持ちは全く同じだったんだよ。」
桜理を見つめて微笑む実の瞳には、純粋な愛情だけが宿っていた。
この気持ちだけは確かなものだと。
そう物語るように。
「否定できない部分があるどころか、完璧に同じ感情を共有するようになった俺たちは、一気に同化し始めた。自分が死ぬんだとしても、桜理だけは助けたかった。桜に自分を食わせることに、なんの躊躇いも葛藤もなかった。それは、俺たちが全く同じ気持ちだった何よりの証拠だと思う。そして、桜に自分を食わせた時から……俺たちの境界は、かなり曖昧なんだ。」
ずっと独りで感じていたことを、ようやく口にする。
死ぬ間際に二人で交わしたあの会話を最後に、一度眠って目覚めた自分は、幼い自分の声どころか、それを否定する自分の声すら聞こえなくなってしまっていた。
いつも意識を傾ければ感じられた二つの自分のせめぎ合いが、今ははっきりと感じられない。
そんな想定外の事態に、自分は未だに戸惑っている。
「今も、どんどん境界が薄れてくんだ。子供の俺も、今の俺も、結局元は同じ自分だから。俺たち自身にも、どっちがどっちなのか区別できないんだ。……もう、取り返しがつかないと思う。多分、子供の俺も今の俺も、あの時に死を受け入れたのが大きかったんだろうね。」
実は、寂しそうに笑った。
死に直面したあの時から、自分たちを分かつ境界は急激に薄れていっている。
それはまるで、二つの氷が溶け合って一つの水になるよう。
完全に同化してしまうまで、さほど時間はかからないだろう。
もしかしたら、すでに同化しきっているのかもしれない。
同化しかけていることに気付いてはいたが、まさかこんなにも呆気なく同化してしまうなんて。
―――そして、ここからがさらに想定外。
二つの自分のせめぎ合いには、いずれ決着をつけなくてはいけないとは思っていた。
そんな日が来ることも覚悟はしていた。
しかし、その決着とは、どちらかの自分がもう片方の自分に飲み込まれることだと思っていた。
現実として、今の自分がかなり子供の自分の価値観に飲み込まれていたのだから、そう思ったっておかしくはないと思う。
なのに、実際はこれだ。
今ここに立っている自分が一体どちらなのか、どちらがどちらに飲まれてしまったのか、何も分からない。
子供の自分が持っていた感情も、今の自分が持っている感情も、当然のように自分のものとして感じることができる。
どちらの気持ちが勝つでもなく、互いの思いや考えが共存している。
そして不思議なことに、人を殺せばいいと思う気持ちは、それほど意識を蝕むものではなくなっていた。
想定外だらけで混乱しているから、今は何も分からないのだと。
そう言われれば、そうなのかもしれない。
時間が経って落ち着けば、もっと自分のことを整理できるのかもしれない。
だが、混乱しているというにしては、今の自分はやけに落ち着いている。
これは、一体どういうことなのだろうか…?
(それに……)
実は自分の胸に手を当てる。
(なんだろう……この喪失感は……)
静かに目を伏せる。
同化してしまったことは、この際もう仕方ない。
どんなに抵抗したとしても、いずれはこうなっていたのだ。
ただ、こうなるのが早すぎただけの話。
それはもういい。
しかし、この気持ちを納得することは、今の自分ではどうしてもできなかった。
相手を取り込んでしまえば、余計な枷がなくなる。
互いに抑え合うこともなくなるし、互いの存在に気をかける必要もなくなる。
どちらが飲まれたとしても、飲み込んだ側は喜んでもいいはずだ。
きっと解放感に心が震えるだろうと、そう予想していたのに……
そんな嬉しさが、微塵もない。
むしろ、今この胸を満たすのは寂しさでしかなくて……
本来あるべきものがなくなってしまったような気分。
胸の隙間を風が通り抜ける、すかすかした心地。
まるで、心にぽっかりと穴が空いてしまったかのような……
「………、………」
頭が鈍痛を放つ。
何かを聞いた気がする。
自分に関わる大事なことを、暗い闇の中で聞いたような気がする。
なのに、それがなんだったのか全く思い出せない。
「……実。」
その時、まるで懊悩する心を救うように。
桜理が、こちらの手を優しく握ってくれた。




