闇の中の邂逅
<第3章 錯綜>
「なんて無茶をさせるんだ!!」
突如鼓膜をつんざいた怒声に、拓也は反射的な速さで飛び起きていた。
(うっ…)
途端に、体と声の自由が奪われる。
いきなりのことで驚いたが、すぐにここが自分の支配領域ではないことが分かったので、無理に抗いはしなかった。
何が起こったのだろう。
ここは一体どこなのか。
辺り一面が闇に満たされた空間で、拓也は静かに思考を巡らせる。
「仕方ないよ。無意識に力を使おうとしているのは、彼の方なんだから。僕に責任はないよ。」
聞き覚えのある声が耳朶を打って、拓也は目だけでその方向を探した。
ちょうど自分の前方に実がいた。
実はこちらに背を向けて、誰かと話しているようだ。
「………っ」
拓也は目を見開いた。
実が話していた相手は、なんとエリオスだったのだ。
彼は、苦々しい表情で実を睨んでいる。
「責任がない? 笑わせないでくれ。確かに、あの子は無意識で魔力を使おうとしている。だが、それを手助けしているのは君だろう。あの子は魔力を使うことに慣れていないんだ。あの子を潰す気なのかい?」
エリオスの咎めるような視線を、実は平然と受け流している様子だった。
そこに感じられるのは、大きな違和感。
―――アレは、実の姿をしていているが実ではない。
そんな確信を抱きながら、拓也は二人の会話を聞くに徹した。
「それは、父さんにも責任があるんじゃないの? ちゃんと、魔力抵抗を維持しておくように細工しておけばよかったじゃない。そうしなかったのは、彼がもう二度とあの世界に関わることがないって、そう決め込んでたからでしょ?」
実に言われ、エリオスがぐっと言葉につまる。
実は楽しそうに笑った。
まるで、エリオスの反応を面白がっているように。
「それに、僕がこうして一時的に体の主導権を握れるくらいに、封印は弱まってる。この間の一件以来ね。まあ、事態は急に悪くなっちゃったし、ちょうどいいよ。本当は嫌だけど、そろそろ僕を解放したほうがいいんじゃない?」
実が問うと、エリオスは苦虫を噛み潰したかのような表情を作った。
「封印を解く鍵は、実の意志だ。確かに封印をしたのは私だが、封印を解く権限は実にしかない。」
「ふーん……」
実は肩をすくめた。
「不便だね。」
そう一言。
エリオスの顔が、さらに歪んだ。
「……あの子を守るには、こうするしかなかった。」
それは低い、殺気すら伴った声だった。
その声の雰囲気に、拓也は思わず息を飲んだ。
首を冷や汗が垂れていく。
エリオスが放つ雰囲気に、周囲の空気がびりびりと痺れるような感覚がした。
「そうだね。でも、彼が本当に望んだことは、記憶と力を消してくれってことだよ。封印してほしいとは言ってないはずだ。それに、封印した後のことは全く望んでなかったと思うよ? 力を封印した後、父さんは彼をとことん殺意から遠ざけて、なおかつああいう性格になるように、慎重に愛情を注いだ。それは、彼の知り得ないことだったんじゃないの?」
「………っ」
実の言葉にエリオスが息を飲み、唇を噛んでゆっくりとうつむいた。
険しい表情を一転させたエリオスは、悲しそうに目を伏せて手を握り締めている。
「ああ、落ち込まないで。それを責めているわけじゃないんだ。」
言葉こそ慰めているが、実の声から窺える態度は、あくまでもエリオスの反応を見て遊んでいるようだ。
(どうして、あんなに笑ってられるんだ。)
目の前のモノに膨らんでいく、気味悪さを伴った嫌悪感。
拓也がそんなことを感じているとも露知らず、実はくすくすと笑う。
そして両手を広げて、謳うように先を続けた。
「ああいう性格は、この世界には都合がいいじゃんか。人当たりがよくて、真面目だけど気さくで、周りとの摩擦がほとんどない。穏やかに、幸せに暮らしていけるだろうね。過去のことなんか忘れて、幸せに過ごしていってほしい。そう願った父さんの判断は、当然で正しいものだと思うよ?」
広げた手を後ろ手に組み、実はエリオスの顔を下から覗き込む。
「でもそのせいで……彼はこの先、かなり苦労するだろうねぇ?」
ゆっくり絡みつくような声で放たれる、悪魔の囁き。
それを聞いたエリオスの顔に、一瞬で血が上る。
そのままの勢いで実の胸ぐらを掴んで―――ピタリと、その体が止まった。
なけなしの理性でブレーキをかけたのだろう。
実の胸ぐらを掴む手は、小刻みに震えていた。
自分に危害が加えられそうになってなお、実に笑みを絶やした様子はなかった。
「あははっ、なんで怒るの? 僕はこれでも、この先に考えられる未来を心配してるんだよ。優しすぎる彼に、全部を壊すことなんてできるのかなって、ね?」
「―――っ!!」
「まあ、僕は彼が壊れても全然構わないんだけどね。前みたいに心が壊れたら、彼はただの殺戮兵器だ。それはそれで、面白いじゃない?」
「ふざけるなっ!!」
エリオスの口から発せられたのは、血を吐くような叫びだ。
「あの子が壊れてもいいだと…? あの子の存在を、蔑ろにするんじゃない!! 君は、そんなにあの子の心を乗っ取りたいのか!? 君の存在なんて、本来はあってはならないものなのに!?」
しん、と。
場が静まり返った。
実のことを射殺さんばかりの眼力で睨むエリオス。
すると、今まで実を包んでいた笑みの雰囲気が一瞬で霧散した。
しばらく、周囲は耳が痛くなるような静寂に包まれる。
その静寂を破ったのは―――他でもない、実の笑い声だった。
「くだらない。」
ぽつりと零れた、その一言。
「―――っ!?」
背中を蛇のように怖気が降りていって、拓也は全身をぞくりと震わせた。
なんだ、この胸の苦しさは。
凍りついたかのように、全身が冷たくなる。
たった一言だ。
それだけで、体も心も隅々まで支配されて屈服させられるようだった。
聞いた者の恐怖を駆り立てるような声。
実が発した声は、そんなものだった。
「彼の心を乗っ取りたい? 僕が、そんなくだらないことに執着してると思ってるわけ? これだから、人間なんて嫌いなんだ。どうせ、封印が解ければ僕は消えるってのにさ。僕の存在が本来あってはならないものなのは、他でもない僕が一番よく分かってるよ。」
実が硬直するエリオスにゆっくりと近付き、その頬に手を寄せる。
それによって、拓也に実の表情が初めて見えた。
「―――っ」
息がつまった。
実は冷笑していた。
全てを嘲り、蔑み、そして全てを見透かしているかような表情。
あれは、人間が浮かべる表情じゃない。
本能的にそう感じた。
実は嗤う。
「別にいいんだよ? 僕はこの世界がどうなろうと、心底どうでもいいんだから。なんだったらご期待どおり、彼を壊してあげようか?」
そう問われたエリオスの表情がキッと険しくなる。
その反応の一つ一つを、実は愉しんで見つめている。
可愛らしく小首を傾げてみせる実。
その仕草は〝殺したいなら殺せば?〟と、エリオスを挑発しているように見えた。
エリオスが口を開こうとしたところで―――ふと、その目が拓也を捉えた。
エリオスの表情の変化に気付いたのだろう。
振り向いた実は起き上がっている拓也を見ると、にこりと笑った。
「ああ、起きてたんだね。そうそう、封印が一気に弱まったの、この子の影響も多少あるよ。力が強い人の傍にいることで、封印されている彼の力が共鳴を起こしてるんだ。」
「黙れ!!」
エリオスが叫ぶ。
実はそれに、溜め息をついた。
両手を軽く挙げて、首を微かに振る。
「やれやれ。嫌われてるなぁ…。あれ?」
実の表情に小さな驚きが混じる。
しかし実は一瞬で笑顔を取り戻すと、くるりとエリオスに向き直った。
「……どうやら、今日はこれで限界みたい。話せて楽しかったよ。」
じゃあね、と手を振ったその瞬間、実の体が支えを失った。
エリオスがその体を受け止め、実に衝撃を与えないようにそっと座る。
実の目が微かに震え、その一拍後ハッとしたようにその目が開かれた。
ぐるりと周りを見回した実は、エリオスに気付くと、自分と同じ薄茶色の瞳を見つめる。
先ほどまでとは打って変わって、実の目は不安で大きく揺れていた。
「父さん……俺……」
エリオスにすがりつくその手は、がたがたと震えている。
エリオスは厳しい顔を一転させて優しげに目を細めると、実の頭をなでた。
「いいんだ。今はまだ、何も知らなくて。父さんも今、どうにかしようって頑張ってるから。だけど、忘れないで。鍵は実の意志だ。実が望むなら、力は応えてくれる。」
エリオスが、実をふわりと抱き締める。
「おやすみ。」
驚いた様子の実の目が、静かに瞼の向こうへと消えていく。
再び気を失った実の体が、淡く発光する。
その輪郭がぼやけ、実の体は光の粒子となって消えていった。




