悪夢は夢を越えて……
その日、実は一人でのんびりと帰路についていた。
梨央は今頃、陸上部の練習に励んでいることだろう。
いつもは晴人が一緒なのだけど、今日は用事があるということで一足早く帰っていった。
地面に転がっている小石を蹴飛ばしながら進む実。
その表情は、心なしか曇っていた。
ここ最近、一人になると拓也が話したことばかり考える。
今日も例外ではなかった。
自分が知らない、別の世界。
見えない力。
魔法という、ファンタジー世界でしか聞かないような術。
非現実的なことがごく普通に通用する世界が存在する。
その事実を脳裏でなぞると、目の前に広がる世界がふいに霞んで見えた。
自分の常識がひっくり返りそうだ。
今までのことが全部夢だったらいいのに、と。
そんな、どうしようもないことを考えてしまう。
通い慣れた通学路は、意識しないで歩いても迷うことはない。
実は、いつも通る十字路を左に曲がった。
「………?」
違和感がする。
道を間違えたのかと、最初はそう思った。
反射的に周囲を見回してみたけど、見える風景は見慣れたもの。
どうやら、道を間違えたわけではないらしい。
なら、この違和感はなんだろうか。
しばらく立ち尽くして、その違和感の正体に気付く。
道が暗いのだ。
空気もどこか違う。
そして、体にまとわりつくようなこの緊張感。
まるで、別の世界に入り込んでしまったかのような……
(―――別の世界?)
そう思った瞬間、この空気がどんなものなのかが分かった。
息を飲んだ実の首筋に、嫌な汗が伝っていく。
(あの夢だ…っ)
――――おいで。
それと同時に、あの声が響いてくる。
「―――っ!?」
思わず叫びそうになったところで、いつの間にか声が出なくなっていることにも気付く。
実は、とっさに踵を返して走る。
元来た道を戻ればいいだけ。
そう思ったのだけど……
(……あれ?)
先ほど曲がった十字路に出ても、道の翳りはなくならない。
しかも、景色が一変している。
住宅街に変わりはないが、明らかに自分がさっきまでいた道ではなかった。
ひとまず学校を目指して走ってみるけど、進めば進むほどに道が分からなくなる。
どこを何回曲がっても学校は見えないし、自分が想定した道にも出られない。
(くそ! 意味分かんないって!)
実は、苛立ちも露わに髪を掻き回した。
――――こっちに……おいで……
呼びかけは続く。
それには一切応えず、実はがむしゃらに走り続けた。
幾度も角を曲がり、時にはひたすらまっすぐに進む。
走りながら、ふとした拍子に実は気付く。
(ここ……さっきも通った。)
もしかして、自分は同じ所をぐるぐると回っているのだろうか?
まるで、出口がない迷路の中に閉じ込められたような気分。
それでも対処法に見当がつかない以上、無駄だと分かっていても逃げ続けるしかなかった。
「うわ…っ」
ふいに、足がもつれた。
大きくバランスを崩して壁に激突する。
そこで気力が尽きてしまって、ずるずると地面に座り込んだ。
どれくらい走ったかは分からない。
限界近くまで走り続けて動かなくなった体は、空気を求めて荒い呼吸を繰り返すばかりだ。
――――どうして、応えてくれないの?
その時、声がそう訊ねてきた。
思ってもみない展開に、実は少しばかり驚いてしまう。
思えば、〝こっちにおいで〟以外の言葉を聞いたのは初めてな気がする。
――――もう、私に気付いているんでしょう? どうして、何も言ってさえくれないの?
どうしてと言われても、声が出ないのだから仕方ないじゃないか。
――――私たち、あなたが必要なの。お願い、応えて。
(……もしかして、俺の居場所が分からないの?)
はたと、そのことに思い至る。
なるほど。
そう考えるなら、今までの回りくどい方法も分かる気がする。
もしも自分の居場所が分かっているのなら、とっとと捕まえに来ればいいだけの話だ。
こちらは丸腰なのだから、そのくらい造作もないことだろう。
……だけど、分からない。
どうして、彼女は自分を必要としているのだろう。
――――お願い…っ
声に、悲痛さが帯びた。
次に、目の前に見えている景色の一部が歪む。
その揺らぎの中心から、細い手が現れた。
――――この手を、取って。
ああ……もういっそのこと、この手を取ってしまった方が楽なのではないか。
そんな気さえしてくる。
「―――実!!」
その時突然、聞き覚えのある声が響いた。
鈍麻しかけていた思考が、その声で冴える。
(え? ……拓也?)
心の声でも聞こえているのだろうか。
拓也の声に、明らかな安堵が滲んだ。
「よかった。聞こえてるな?」
その言葉の後に、右の方から光が差した。
そこを見ると、約五十メートル先の十字路が光っている。
「その光に飛び込め。そこから出られる。」
拓也が言うそばから、変化が起こる。
隅からじわじわと、光が周りの暗い色に染められていくのだ。
「くっ…」
拓也が苦痛の声をあげる。
「急げ、実……そう長くは、もたない…っ」
それを聞いた実は、表情を引き締めて頷く。
次に勢いよく地を蹴って、光に向かって全力で駆けた。
――――だめっ!
「―――っ!!」
その瞬間全身に衝撃が襲ってきて、実は思わず片膝をつく。
ひどい頭痛がする。
光までは、あと三十メートル。
――――邪魔しないで!!
「うぐ…っ」
拓也が呻くと同時に、光が一気に翳りに浸食される。
だが、彼も必死の抵抗を見せているようだ。
互いの境界線で、光と翳りは押したり押されたりを繰り返している。
実はまた立ち上がる。
ひどくなる一方の頭痛をこらえて、よろよろと光に向かって歩き出した。
――――だめ…
一歩進むごとに、頭痛が増していく。
後ろの手を取れば、もしかしたらこの苦痛から開放されるのかもしれない。
それでも、頭痛に抗いながら光の方へ歩みを進めた。
今どの声に従えばいいかは分かっている。
光まで、十五メートル。
――――お願い…っ
後ろから必死な声。
実はそれを振り切るように、必死に歩いた。
頭痛はどんどん増していき、光の前に立つ頃には眩暈も伴い始めていた。
それから早く解放されたくて、光の中へと手を入れる。
――――行かないで!! お願いだから、私のところに帰ってきて!!
その声を聞いた瞬間、心臓の高鳴りに足が止まった。
思わず後ろを振り向きかけた瞬間、外からの力が自分を光の中に引きずり込む。
この時拓也が手を引っ張ってくれなければ、自分はこの暗がりから出られなかったに違いない。




