37 夜空の扉
「聞こえますか? ファラーテ様、もう大丈夫ですよ」
「……綺麗な、空ね」
倒れたままのファラータ様が、ぼんやりと星の夜を見つめる。
「空は危険なんですけどね」
異世界の扉?
が、現れているらしいし。
幸いにも、扉は閉じたままだそうだけど。
――アニス、あまり馴れ馴れしく話すと、認識阻害していても身バレするのである。もう少し他人行儀にするのである。
――あ、うん。だよね。ていうか、お願いしてもいい?
思わず私が話しかけちゃったけど、今はカメさまが憑依している。
「我の声が聞こえるであるか?」
カメさまが私として言った。
同じ私なのに、なんとなく威厳がありそうなのがすごい。
さすがはカメさまだ。
「ええ……」
「ならば、良い」
「わたくしは……。いったい、どうなって……」
「危なかったのである。其方は、人外へと変貌しかけていたのである。だが、安心すると良いのである。力は取り除いたのである」
「力……。ああ……。わたくしは……」
ファラーテ様が、弱々しく左手を持ち上げる。
私は身を起こした。
ファラーテ様から離れて、湖面を見つめる。
湖面は輝いていた。
星空を反射して、眩しいくらいだ。
「お願いが……。あるのですけれど……」
ファラーテ様が言う。
「言ってみるのである」
「わたくしを……。殺してほしいのですが……」
「お断りである。せっかく救った命を、わざわざ消し去る趣味はないのである」
私はにべもなく答えた。
「ですが、わたくしは、もう……」
「我は牛ではないのである。もうではないのである」
――カメって鳴くの?
――カメであろう?
――絶対に違うと思うよ?
そういえば、大きなカメが「カメーっ」て悲鳴を上げていたけど。
――で、あるか。
「牛……。ふふ……。わたくしは、家畜だったのですね……」
「あの……。どうしてそんなことを言うんですか?」
結局、黙っていられず、私はたずねてしまった。
するとファラーテ様が、左の手の甲をこちらに向けてきた。
私は驚いて、息を呑んだ。
だって……。
ファラーテ様の手の甲には、あるべきはずの聖剣の刻印がなかったから。
「それって、あの……。す、すすすすす、すみません! まさか、今ので消えちゃったんですか消しちゃったんでしょうか!」
私は大いに動揺した。
「わたくしはもともと、こうだったのです……」
「こうって――」
無印者ってこと?
「本来なら、陽の下に出ることはなく、陰に隠れて生きるだけの人生でしたけれど……。ある日、出会いがあったのです……」
「それって、あのシアンってヒト、ですか?」
「わたくしは儀式を受け入れました。魔石を――。体内に取り込んで――。それを力とするという禁断の儀式を――」
――ねえ、カメさま。そんなことできるの?
――できるのである。
――できるんだぁ。
――で、あるが、魔石とは魔物の核。そんな力を取り込んでいけば、属性が魔へと向かうのは当然の成り行きなのである。
――そっかぁ。怖いね。
「……シアンは、どうなったのですか?」
「知らんのである。空の彼方にぶっ飛ばしたから、多分、死んだのである」
「そうですか……。貴女は、一体、本当に誰なのですか……?」
「我は、」
――秘密にしとこ!
「秘密である」
「そう、ですか……。武神、でしたわね、そういえば……」
小さく笑って、ファラーテ様は手を下ろした。
目も閉じる。
血色も、まるでなかった。
その姿はまるで、殺される以前に、もう死んでしまうかのようで……。
「ファラーテ様、大丈夫ですか……?」
私は再び近くにしゃがんだ。
「わたくしには、もう……。帰る場所もありません……。殺してほしいですの……」
「帰る場所はありますよね!? 王都におうちが!」
なにしろ公爵令嬢だ。
立派な屋敷がいくつもあるに違いない。
「ふふ……。無印者に戻ったわたくしに、居場所はありませんの……。戻ったところで、家畜以下の扱いを受けるだけですの……」
「でも、ダメですから!」
死ぬなんて!
私は必死に理由を考えて、叫んだ。
「だって、約束したじゃないですか! 明日、お姉様とオハナシするって! 同い年で聖剣士同士で二人とも強くて優しいんだから、仲良くなれるんですから! ちゃんとオハナシして仲良くしてもらいたいんです私は! だから――!」
「もう意識をなくしたのである」
カメさまが言った。
私の声で。
「あ」
確かに、もうファラーテ様は私の言葉に反応していなかった。
「ねえ、カメさま、なんとかならない!? オドの固定化ってカメさまはできるんだよね!? やってあげてよお願い!」
「しょうがないのである」
カメさまが私の手でファラーテ様に触れる。
マナの力を集めて、ファラーテ様に注いだ。
すると……。
「あ」
ファラーテ様の手の甲に、聖剣の刻印が浮き上がったぁぁぁぁぁぁ!
「これで良いのである」
「ありがとう、カメさま! ……ていうか、簡単なんだね」
「人為的なものとはいえ、この者にはそもそも刻印があったのである。それを復元させただけのことであるから、簡単なのである」
「さすがはカメさまだね! やっぱりカメさまこそが最強! 最高! カメさまさえいればなんにも怖いことなんてないね!」
「ふふー。当然である。好きなだけ褒めると良いのである」
「最強! 最高! 無敵!」
「で、ある」
私が褒め称えて、私がうなずく。
上機嫌に踊っていると――。
「――む。むむ」
急にカメさまが足を止めて、夜空に目を向けた。
「どうしたの?」
「いかんのである。星の扉が開きそうなのである」
「え」
「恐らく、娘の体から取り出して放り捨てた魔力が、鍵となってしまったのであるな。なにしろ膨大な魔力だった故に」
「へー。すごいねー」
私もポカンと夜空を見上げた。
渦巻く星の光が、確かに、扉のように二つに分かれようとしていた。
「のんびりしている暇はないのである! 閉じないと大変ことになってしまうのである!」
「どうするの?」
「我がマナの力で強引に閉じ返すのである!」
カメさまが両腕を天に掲げた。
「むん! むんむんむん!」
舞い降りてくる星の光を逆流させる勢いで、カメさまが魔力を放出する。
私は全力で走っているような負荷を覚えた。
「カメさま、これって……」
「しばらく我慢するのである!」
「うん。だよね」
私は必死に呼吸して、とにかく倒れないように頑張った!
その時だった。
「賢者シアン、消失」「賢者シアン、消失」
「星ノ扉、顕現」「星ノ扉、顕現」
「僥倖」「僥倖」
「妨害者、アリ」「妨害者、アリ」
同じ台詞を繰り返す無機質な二つの声が、こちらに近づいてきた。
目を向ければ――。
まだ、いくらか離れた場所に――。
変貌したファラーテ様にそっくりな、灰色の髪と石膏のような肌、それに二本の角を伸ばした黒服姿の二人の男の人がいた。
体格からして――。
ファラーテ様に同行していた二人の騎士だろうけど――。
どうみても、ニンゲンじゃないよね――。
「妨害者ハ排除」「妨害者ハ排除」
赤黒い瞳を不気味にぎらつかせて、二人の男の人が距離を詰めてくる。
友好的な雰囲気はなかった。
二人の手には、黒いモヤをまとう剣が握られていたし。
「カメさまぁ! なんか来たよお!」
「わかっているのである! だが、さすがに対処する余裕がないのである!」
「じゃあ、どうするのー!?」
「むむむ!」
もしかして、大ピンチ!?
ああああ!
二人が剣を振りかざして、飛びかかってきたぁぁぁぁ!
容赦なしだぁぁぁぁぁ!
でも、そこに!
その時!
二人の行く手を遮るように、横から光の衝撃波が走ったぁぁぁぁ!
二人がうしろに飛び退く。
私は、その光の輝きを知っている。
見たことのある剣技だった。
ライトニング・ストライク、そう名がついていたはずだ。
現れたのは――。
「また悪魔なのね。一体、ここで何をしようとしているのかしら」
輝く聖剣を手にしたタビアお姉様が――。
騒ぎに気づいて駆けつけてくれたぁぁぁ!




