33 星の祝福
私は一人、夜の湖岸を歩いた。
ざくざく、ざくざく……。
周囲は静かで、聞こえるのは土を踏む自分の足音ばかりだった。
カメさまは湖に潜ったまま、なかなか戻ってこない。
私を喜ばせるって言っていたけど、一体、何をしてくれるんだろうね。
楽しみだ。
夜空の様子が少し変なことに気づいたのは、そんな、のんびりとした散歩の最中だった。
ふと見れば、空の一部がきらめいていた。
最初は、あー綺麗だねー、という程度のものだったのだけど……。
なにしろ湖面も輝いているし。
見ている内――。
そのきらめきが、螺旋を描きながら、ゆっくりと降りて来ていることに気づいた。
といっても、それは、そんなに目立つものではなかった。
雲間から一筋の月光が差し込むより、もっとずっと薄い光だったし。
私が夜空を見ていたから、気づいただけのことで。
今の空に雲はひとつもないけど。
「カメさまが、何かしているのかな……」
薄やかな光の柱が降りているのは、そんなに遠い場所ではなかった。
多分、同じ湖岸だ。
私は光の柱の方に行ってみることにした。
もしかして、さっきの星の女神様の話は、私を喜ばせるってことへのフリで、光の柱が贈り物なのかも知れないよねっ!
だけどその期待は、残念ながら完全に誤解だった。
近づいていく途中で悲鳴が聞こえたのだ。
「ああああああああああああああああああああああああ!」
それは悲鳴というか……。
苦しみに必死に耐えているような声でもあったけど……。
いずれにせよ、私はその声に聞き覚えがあった。
「ファラーテ様……?」
そう。
その声は、王都から来た公爵家のご令嬢にして聖剣士ファラーテ様のものに聞こえた。
違うとしても若い女の子の声だ。
事件!?
私は反射的に走って、声の聞こえた方に向かった。
ファラーテ様がいたのは、空から舞い降りた星の光の集まる湖岸だった。
私は呆然と、その光景を見た。
星の光の中――。
ファラーテ様が悶え苦しんでいた。
その近くには、魔王な女の子を倒して出てきた大きな魔石が宙に浮いていた。
魔石は不気味に光り輝き、赤黒い光を伸ばしていた。
その光はファラーテ様につながっていた。
なんだかまるで、魔石の光を強引にファラーテ様に注ぎ込んでいるような、そんな気のするそれは異様な光景だった。
同じ場所にはメイドのシアンさんもいて、左右に分けた髪とスカートを揺らして、ファラーテ様に無邪気な声援を送っていた。
「頑張れ! 頑張れ、お嬢様! まだまだ魔石は力を持っているよー! お嬢様だって、まだまだ限界は突破していないよー! 行ける行ける! 限界を超えよー! そうすれば、もう誰もお嬢様のことを馬鹿にすることはできないんだからさー!
ほら意識を強く持って! 強く強く! お嬢様は負けちゃったんだよー! このまま王都に帰れば待っているのは嘲笑だよー!
またバカにされて、また居場所をなくして惨めに生きるつもりー?
お母様を失望させちゃうのー?
せっかく手に入れた公爵家の人間としての地位を、ぜーんぶ、失くしちゃうよー!
お嬢様は、強くなって、強くなって!
馬鹿にしてくる連中を全員見返さないとダメなんだよー!
ほら、がーんばれ! がーんばれ! ふふふふふ。あははははは!」
シアンさんの声援は……。
うん……。
聞いていてぞっとするくらいに、狂気をはらんでいた。
あと、ファラーテ様への侮蔑も。
応援しているフリをしつつ、完全に嘲笑っているだけだと私には思えた。
「ああ、素晴らしい! この魔石は本当に素晴らしいねー! さすがは封印されし力だよ! 各地を巡って探した甲斐があったよねー! この力であれば、お嬢様はあるいは、本当に星の女神様の祝福を受けられるかも知れないよー!
あと少しだよ! あと少し!
がーんばれ! がーんばれ! がんばれー! お嬢様ー!」
次の瞬間――。
ファラーテ様の体に、ひときわ大きな赤黒い光が入り込んで――。
魔石が割れた。
「ああああああああああああああああああああああああああああ!」
喉の割れるような悲鳴と共に、ファラーテ様の体が、大きく大きくのけぞる。
「ああああ! 素晴らしい! ついにこの時が来たんだねー! お嬢様のお世話を長年に渡って続けた甲斐があったよー!」
シアンさんの恍惚の悲鳴が響いた。
「さあ、お嬢様! 星の女神様の祝福を受け取って! 生まれ変われー! 新生だー!」
シアンさんの声は、際限なく高揚していく。
私は見た。
不気味な光に包まれたファラーテ様の体が変貌していく、その様子を――。
助けないと――。
これは絶対に、よくないことだ。
そう思っても、私の体はぴくりとも動いてくれなかった。
「来た! 来たぁぁぁぁぁぁ! いよいよだねー! いよいよだよ! お嬢様の祝福ガチャは何を引き当てるのか! シアちゃん、期待しちゃうよ! キ・タ・イ! キ・タ・イ!」
シアンさんの狂気の声援の中――。
ファラーテ様が変貌していく。
肌が、まるで石のような光沢を帯びて、ひび割れて、灰色になっていって……。
広がる髪は白く染まって……。
服を破って、背中からコウモリのような翼が生まれて……。
手袋が破れて、刃のように指が伸びて……。
ブーツが破れて、こちらからも刃のように指が伸びて……。
頭には二本の角が生えて……。
昨日の昼に見た、悪魔のような姿へと変わっていく。
ただ、その姿は、悪魔のように完全にバケモノと感じるものではなくて……。
まだヒトにも見えるものだったけれど……。
その周囲では、割れた魔石の破片がもぞもぞと蠢き……。
コウモリのような魔物に変貌していっていた。
「あああ! 素晴らしい! 我らが同士の誕生だねー! 新たなる魔人! 祝福ガチャとしてはまさにレア! 我らが導き手となるSSRでなかったのは残念だけど、十分に当たりだよね! 年月をかけた甲斐はあったよ!」
シアンさんがキャッキャと喜ぶ。
ここで私は迂闊にも……。
足元の根っこに足を引っ掛けて、転びかけて、「あわ!?」と声を出してしまった。
それは、うん。
私も慌てて口を抑えたし、大きな声ではなかったはずたけど……。
「ん?」
シアンさんが顔をひねって、周囲を見渡した。
「誰かいるのかな? ううん、いるよね?」
いる。
それは私だ。
どうやらシアンさんには、しっかりと聞かれてしまったらしい。
周囲を見渡したシアンさんの顔が……。
ぴたり、と……。
私の隠れている森の陰で正面を向いて止まった。
「そこだよね? 出てきて?」
あああああ!
私、見つかったああぁぁ!
捕まったらどうなるんだろう生贄とかにされちゃうのおおおお!?
逃げないと……!
「あははー。隠れていても無駄だよー」
あ。
私、なんかいつの間にか背後にいた……。
黒い石の体にコウモリみたいな翼を持った、悪魔の石像みたいな魔物に……。
うしろから両肩を掴まれました。
「え。あの。イヤですけど……。離してほしいんですけど……」
一応、弱々しくも抵抗してみたけど……。
すぐに宙ぶらりんにされました。
そのまま運ばれてシアンさんの近くに落とされます。
どすん。
「あいたたた……」
お尻から地面に落ちて、私は顔をしかめた。
痛い……。
「あららん。貴女は、男爵家の無印者のお嬢様だよね。ダメだよねー、こんな夜に。一体一人で何をしていたのー?」
「えっと。あの……。あはは。ちょっとだけ散歩をしていまして……」
「いろいろ、見ていたのかな?」
「あの、ファラーテ様に何をしたんですか……?」
「見ていたのかー。それは困ったねー。それだともう、生まれ変わったお嬢様の最初の餌となってもらうしかなくなっちゃうねー」
「それって、えっと……」
「大丈夫だよー。食べられるのって、案外、気持ちいいかも知れないからさー」
そう言って微笑むシアンさんの口は、耳まで裂けていた。
そして、ふと見れば……。
シアンさんの瞳は、砂時計のようにくびれていて、しかも赤く輝いていた。
視線が重なると、私の体は痺れた。
シアンさんは、普通の人間ではないみたいだ……。
私は命乞いをしようとしたけど、もう何もしゃべることができなかった。
「少し待っててねー。もうすぐ、お嬢様の進化が完了するからさー」
シアンさんが、変貌していくファラーテ様に視線を戻す。
――カメさまぁぁぁ! カメさまぁぁぁ!
私はカメさまに助けを求めた!
私、クマってますよー!
クマクマですよー!
今こそカメがクマより上なことを証明してえええ!
その時だった!
ざぱーん!
突然、湖岸に近い水面に水柱が立って――。
見上げるほどに大きなカメが、唐突に、いきなり浮かび上がった。
そのカメの頭の上には、小さなカメが乗っていた。
それは間違いなく、カメさまだった。
カメさまー!
私は歓喜した!
さすがはカメさま!
私の危機を察知してくれたああああ!
やっぱり時代はカメだよねええええ!
「ただいまなのであるー! 見るのである! 大きなカメなのである! と、あれ、アニスはどこなのであるか? アニスー?」
カメさまは、まったく状況がわかっていないようだった。
能天気な声だった。
ピンチの私を助けに来てくれた様子は、ない。
私は思った。
やっぱりカメさまって、カメだけどザルだよね……。
私は落胆しかけたけど……。
カメさまは、すぐに気づいてくれた!
「お。アニスがいたのである。どうしたのであるか? む。むむ。其方らは何であるか! いかにも怪しいヤツらである!」




