32 夜は、星の女神の世界で……。
夜、私は外出用の服に着替えて、こっそりと家から出た。
裏庭から森に入る。
夜の森は真っ暗で不気味だったけど、ふわふわと浮かんで発光するカメさまが先導してくれたので歩くのに不自由はなかった。
魔物やオバケに出会うことなく、私達は無事に森を抜けた。
湖岸に出る。
「うわぁ」
私は思わず声を上げてしまった。
夜の湖岸にあったもの――。
それは、きらめきだった。
星空を映した湖面は、まさに磨かれた鏡だった。
今夜は雲ひとつない快晴だった。
見上げれば、どこまでもどこまでも夜の空が透き通って続いていた。
夜なのに、足元に影が出来るくらいの明るさがあった。
「すごいね、カメさま。綺麗だねー」
夜の湖岸なら、夏に涼みに来たことはある。
だけど、ここまで綺麗な夜は初めてだった。
「美しい光景ではあるのである」
「どうしたの?」
美しいという割には、カメさまの声はなんとなく微妙だった。
「輝く星空を見ていると、太古の昔、邪神と戦った時のことを思い出すのである。奴は星の光の衣をまとう存在だったのである」
「へー。そうなんだー。綺麗っぽいねー」
「衣だけでなく、本人も美しかったのである。
愛想も良い奴だったのである。
故に最初は我らも、外の世界より降り立ちし彼女を受け入れ、星の女神と呼んだものであるが……。
奴は、この世界のすべてのマナを奪い尽くそうとする侵略者だったのである。
あと少し気づくのが遅れれば、この世界は滅んでいたのである。
大いなる戦の末、その野望は打ち砕いたが――。
世界の受けた傷はあまり大きく、世界を維持修復するために、我らは世界の中で眠りにつくことにしたのである」
「へー。へー」
「また其方は無関心にうなずく」
「だって、そう言われても、よくわかんないよ」
「まあ、それはたしカニである。我はカニではなくカメであるが、今の昔話は、今の世には、ほとんど伝わっておらんようである」
「……少しは伝わってるんだ?」
「国や教会の禁忌の知識として、であるな。だからアニスは、星の女神の話など迂闊に人に言ってはならんのである。それは極めて危険な行為となるのである」
「なら言わないでよー!」
「忘れるのである」
「そんなこと言われたら、ますます記憶しちゃうよー! 忘れさせてよー!」
「無理である。今の我にそんな力はないのである」
「うう……」
カメさまの言うことだから、きっと本当に大変なことになるんだよね……。
私、迂闊者だから、どこかで言っちゃいそうだよお……。
星の女神なんて、言葉的にはとっても綺麗だし……。
「ちなみに邪神、星の女神の名は、サファニアである。万が一、邪教徒共に捕まって儀式に使われそうになった時は、その名を叫んで拒否すると良いのである。ただし禁断の名故、決して普段は口に出してはならんのである」
「あーもーやめてー! 聞いてませんから私ー!」
星の女神はサファニア様……。
星の女神はサファニア様……。
あああ!
否定しつつも、頭の中では完全に記憶しているうううう!
もう覚えたぁぁぁぁぁぁ!
しっかり覚えちゃいましたよ私ぃぃぃぃぃ!
「さあ、そんなことよりも、である」
「そんなことじゃないよね!?」
「いいから、である。今夜は修行のために来たのである。早速、湖の精霊を呼び出して、お手伝いを要請するのである」
「あ、うん。そうだったね……」
私は気を取り直すことにした。
そもそも私が、星の女神なんて存在に関わることはない。
私はただの田舎の小娘だ。
邪教徒なんていう怖そうな人達の話も、今までに一度も聞いたことはない。
気にしすぎる必要なんて、ないよね。
「それで、私はどうすればいいの?」
私はカメさまにたずねた。
「これから我が湖の精霊を呼びに行く故、アニスは精霊を歓迎するように、心を穏やかにして愛想良くしているのである」
「……愛想良くって、ニコニコしていればいいの?」
「で、ある」
「わかった」
緊張しつつ、私はうなずいた。
おっといけない!
心は穏やかに、だよね……。
穏やか……。
穏やか……。
私は頑張って念じた。
カメさまが私の頭の上から、ふわりと浮き上がった。
「では、行ってくるのである。準備にいくらかの時間がかかる故、アニスは湖岸を散歩でもしてのんびり夜の空気を吸っておくと良いのである」
「準備って何するの? 夜の空気ってカメさま的にはいいの?」
「ふふー。アニスを喜ばせるのである。あと、夜は良いものである。夜は昼よりも直接に自然の息吹が体に馴染むのである」
「星の女神様的なアレとか、あるのかなーって思ったけど」
「それは、とっくにおわった話なのである。太古の時代に我が斬ったのであるからして」
「そっかー」
「では、行ってくるのである」
「気をつけてねー」
カメさまが、ポチャン、と、湖の中に入った。
その姿はすぐに見えなくなる。
夜の湖畔で私は一人になった。
恐怖はなかった。
星の光が空にも湖にも広がる夜の世界は、とても優しいものに感じられた。
私は星空を見上げた。
「星の女神様かぁ……」
それは邪神。
この世界を滅ぼそうとした存在だと、カメさまは言った。
でも、満天の星空の下では……。
そんな怖い存在には思えないねえ……。
星の光は、私も好きだ。
私はのんびりと、散歩させてもらうことにした。




